一一:泣く聖獣
「己の喰らったものに身を蝕まれ、鬼と化した憐れな聖獣よ。その膿を、僕が取り祓って差し上げる」
静かな蛇川の声とは対照的に、貘は未だ暴れ回っている。その姿は怒り狂っているようにも、苦しみ踠いているようにも見えた。
そのうち、猛る脚が床の図柄の一端を掻き消した。
途端、硝子がひび割れたかのような音が鳴り、図柄の効力が消え失せる。光が散り、貘の拘束がついに外れる。そうと見るや、貘はたちまち攻撃に転じた。
熊のごとき巨体を踊らせ、貘が蛇川に襲いかかる。猛烈な突進。直撃すれば全身の骨が砕けるであろうそれを、蛇川は難なく横にかわした。
貘は勢いそのままに壁へとぶつかる。轟音と共に石の壁が砕け、ふたつの部屋が瞬く間にひとつになった。
「おいおい、改装業者はお呼びじゃねえぞ!」
あまりのことに吾妻が頭を抱える。
このままでは、鴛鴦組の事務所三階がぶち抜き一間と化してしまう。がたいのいい男ばかりが詰め込まれたむさ苦しい空間……何のプライバシもない男むさい部屋、それだけは御免だ!
「頼む、先生、早いところやっちまってくれ!」
「ハ、簡単に言ってくれる……」
今しも振り抜かれた牙を身を反らして避けながら、蛇川が鼻を鳴らした。
悪夢に身を蝕まれ、我を喪った貘の攻撃は単調なものだ。縦か横に振られるしかない。膂力が凄まじい分、もしも当たれば一撃で終幕を迎えそうだが、しかしそれは「当たれば」の話。蛇川の集中力をもってすれば、単調な攻撃を避けることなど訳はない。
懐には、鬼を斬り祓い、その魂を元の道へと導いてやれる短剣がある。しかしさすがに聖獣そのものを斬るわけにはいかない。まずは貘の身体から凝り固まった悪夢を斬り離す必要があった。
だが、貘は一瞬たりとも動きを止めてはくれない。突進し、踏み潰さんと脚を振り上げ、それをかわせば長い鼻を鞭のように振るってくる。気を抜いてしまえば鋭い牙に刺し貫かれる。
舌打ちを漏らしながら、蛇川は貘の全身に目を走らせた。
とにかくあの鼻が厄介だ。脚の周りに取り付くのは危険極まりないし、前から向かっては鼻が邪魔をする。ならば背後からと思っても、もし万が一後退されて、尻と壁に挟まれなどしては大変だ。巨大な尻に全身を砕かれるなんてぞっとする。ならば残るは……
「吾妻、手を貸せッ!」
「貸すったって……」
「跳ぶ!」
その一言で蛇川の目的を理解したか、吾妻が小さく頷いた。腕を捲ると、低く腰を下ろして両手を組み、鐙を作る。
「ギン、こっちに来るぞ。離れてろ!」
その言葉が終わらないうちに、蛇川がふたりに向かって駆けてくる。その背後に貘が続く。
全速力で駆けてくると、蛇川は吾妻の二歩手前で強く踏み込んだ。大きく軽やかな跳躍から、右の脚が前へと差し出される。
それを吾妻ががっしりと組んだ両手で受け止め、渾身の力で振り上げる。蛇川の細身の身体は軽々と宙を舞った。そのまま宙空で背を反らせ、曲芸のような宙返りを見せる。
吾妻とギンが慌てて避けた先の壁へと突進し、貘がわずかに静止する。その瞬間、宙を舞っていた蛇川がその背に取り付いた。
脚はもちろん、鼻も牙も届かない位置に取り付かれ、怒り狂った貘が暴れる。振り落とされまいと、蛇川は必死にその体毛にしがみ付いた。
「悪夢とは、ヒトの怒りや恐れ、憎悪、強慾の澱のごときもの……それを何千年も喰らい続けていては、その魂も疲弊しよう」
暴れ牛を御するかのように、蛇川は貘の背の上で腹這いになった。落ちないように身体をぴたりと寄せると、片手で体毛にしがみ付いたまま、もう一方の手を振り上げる。その手に巣食う無数の目玉が、一斉に貘を睨み付ける。
「少し荒療治になるが、許せよ」
言うなり、蛇川は振り上げた右手を貘の胴体へと突き込んだ。
途端、暴れていた貘がひときわ大きく身体を震わせた。その勢いに振り回されて、背に取り付く蛇川が苦悶の表情を浮かべる。大きく震える蛇川の両腕が、そこに込められた尋常でない力を物語っている。
そのまましばらくふたりは格闘を続けていたが、やがて蛇川が気合と共に右腕を引き抜いた。同時に腕力の限界がきたか、貘の背からずるりと落ちる。
相当に体力を削られたと見え、蛇川は仰向けに床に倒れたまま、全身で熱い息を吐いている。そのすぐ隣で、貘が苦しげに四肢をばらばらに足踏みしている。
「おいッ、踏まれるぞ!」
「いい、もう、大丈夫だ……」
慌てて駆け寄ろうとする吾妻を左手で制し、蛇川は手をそのまま懐へと入れた。
取り出した赤銅色の短剣を口元にやると、鞘を咥え、ひと息に引き抜く。一点の曇りもない刀身が露わになり、明滅する電灯の光を反射する。
再び短剣を左手に持つと、蛇川は仰向けになったまま右手を掲げた。
強く握り締めたその手の中で、何かが激しく蠢いている。それにつられて左右に振れる拳の隙間から、何やら黒い粒子が零れていた。
蛇川は大きくため息をつくと、右手を開き、寸瞬の間を置かず左手の短剣を一閃した。刀身は過たず黒い粒子の塊を斬り裂く。
布が引き裂かれたかのような耳障りな音。そこにぞっとするような金切り声が混ざる。女の声、子供の声に、男の声。嗄れた老人の声も聞こえる。思わず吾妻、ギンが揃って耳を塞ぐなか、蛇川の瞳は散っていく霞を見つめている。一瞬の絶叫は、しかししばらく経っても耳朶にこびりついて離れなかった。
「今のは……」
「悪夢の残滓。貘が消化しきれなかった食べカスだ」
大の字になり、荒い息をつく蛇川。閉じられたその瞳から、つぅと一筋の涙が垂れた。虹色に輝くその涙は床で跳ね、硬質な音を響かせる。
その様に目を丸めるギンに、そうか、と吾妻が呟いた。
「お前はあれを見るのは初めてだったな」
「あれは……何なんです? どっかで見たことあるような気もしまっけど」
「鬼の涙だよ」
胸ポケットから敷島を取り出し、魔法マッチ(ライター)で火を点ける。嫌煙家の蛇川はその音だけで顔を顰めたが、しかし疲労が勝るらしく文句までは言わなかった。
「先生があの剣で鬼を斬ってやると、あの涙が流れ出るんだ。ほれ、ウチで流してる宝石あんだろ。あれだよ」
「ああ、道理で! 割のええシノギやと思ってましたけど、まさかこんな入手経路やとは……」
「不思議だよなあ。鬼なんてモン、俺らからすりゃあおどろおどろしくて堪らねえってのに、斬ればあんなに綺麗な石に変じるんだぜ」
目を細めながら吾妻が紫煙を吐き出す。
と、もうひとつ硬い音が響いた。視線を転じれば、貘の巨体がゆっくりと横状に倒れゆくところだった。すわどんな地響きが起こるものかと身構えるも、貘の身体はまるで羽毛のごとき軽やかさで床に倒れ、その輪郭がぼやけたかと思えば、瞬きをするうちに消えてしまう。
呆然とする吾妻の目が、貘が倒れこんだ床に残された何かを見つける。近寄って拾い上げてみれば、完全な球体をした透明の物体だった。掲げて見れば、透き通ったその中に七色の焔がゆらめいている。
「なんだこりゃ。こんなものは俺も初めて見た。先生、聖獣殿が何か落っことして行ったぞ」
「何……?」
「やたらと綺麗な球だ。これも宝石か?」
「見せろ!」
片手をポケットに突っ込んで振り返ると、蛇川が起き上がらんとして踠いていた。既に両手には革手袋が嵌められている。
吾妻には計り知れないことだが、鬼を斬るとそれは大層疲れるのだそうだ。体力の消耗はもちろんながら、精神がいたく疲弊するらしい。
鬼を斬るとは、その霊を断つこと。その成り立ちと理を知り、その総てを抱き、あの世へと導いてやること。疲れるなと言うほうが無茶だと、かつて蛇川が言っていたのを思い出す。
慌てて助け起こすと、礼のひとつも言わずに吾妻の手から透明な球を奪い取った。食い入るようにそれを見つめてから、
「……聖獣の涙だ……」
嘆息と共に、蛇川がうっとりと呟く。灰褐色のその瞳は、球の中の焔を反射して妖艶に煌めいていた。
「綺麗なもんだ。高く売れそうだな」
「莫迦者ッ、誰がやるか!」
「ケチ」
「ケチもクソもあるかッ! これは僕の報酬だ、当然だろう! いいものを得られたから、今回お宅に請求するのは止してやる。それで充分だろう、有難く思え!」
「はい、はい」
少し回復したと思ったらこれだ。キンキンと響く声に、吾妻は参った参ったと両手を上げた。
しかし、これで万事解決とはいかなかった。
貘が正常に戻ってなお、花乃の意識が戻らないのだ。
彼女が眠る寝台傍で控える呉壱の顔には苛立ちが見え始めている。吾妻にとっては、鬼よりも何よりそちらの方が恐ろしい。先程蛇川(と貘)は壁の一部を壊したが、このまま呉壱が癇癪を破裂させればビルそのものが倒壊しかねない。大正の怪物の名は伊達ではない。
「先生……どうするんだ」
「ふむ、想定外だな。どうやら、橋が再び架けられたことにも気付かないほど奥深くへと迷い込んでしまったらしい」
蛇川はくるりと全身で振り返ると、
「あんたが行って連れ戻してやれ」
「……はァ?」
「花乃の眠りの中へ入って、彼女を見つけるんだ」
「入るったってねお前さん。随分気楽に言うけれど」
「案ずるな、僕が入り口まで連れて行ってやる」
「だからって、なんで俺なんだ!」
「親しい人物が呼ばわった方が彼女の耳にも届きやすかろう。親仁殿に行ってもらうがいっとう早いが、さすがにご高齢だからな。となればあんたが適任だ」
真面目ぶって言う蛇川だが、その顔にはにやにや笑いが貼り付いている。吾妻は長い髪を掻き毟りながら項垂れた。
「……先生、この状況を愉しんでんだろ」
「ハハ、まさか! 依然危機的状況に変わりはないのだから真面目も真面目、大真面目だ。ほれ、さっさと横になりたまえ。あんたが眠らんことには始まらん」
なおも渋る吾妻だったが、呉壱から無言の圧力を受けては敵わない。小声で恨み言を呟きながら、指示された通り花乃の隣に横たわった。
「西洋では、寝付きが悪い時には羊の数を数えるというまじないがあるらしいぞ」
「羊なぞ図説でしか見たことがない。そんな得体の知れんもんを数えるくらいなら、赤犬を数えてる方がなんぼかマシだ」
笑いを含んだ蛇川の声にむくれて見せ、吾妻は両手を反対側の腋の下へと突っ込んだ。
ともかく、花乃を助けるが大事だ。蛇川には後で仕返しをすればいい……
寝台傍の椅子に腰掛け、手持ち無沙汰に講談本などを捲っていた蛇川だったが、やがて静かな寝息を耳にして立ち上がった。なんやかやと騒いでいたが、どうやら寝入ったものらしい。
まずは、厚い胸板をゆったりと上下させる吾妻の枕元へ。細かな傷が無数に残る額に顔を近付けると、まるで壊れ物を扱うかのごとき繊細さで軽く唇を触れさせる。
次いで花乃の枕元に寄ると、今度はその額に唇を寄せ、軽く息を吹きかけた。花乃の睫毛が柔らかな吐息に微かに揺れる。
「……それで娘は戻って来れるのか?」
腕に力を入れて起き上がると、蛇川は首を廻らせて呉壱を見た。
「貘は神庭から悪夢をすすり取る。それで僕も見様見真似でやってみたわけですが、さあ、なにぶん初めてのことなので。しかし……」
蛇川は眠る吾妻を見下ろした。
背に鮮やかな鳳凰を背負い、仁義に生きる男は、今はその猛る暴力の渦を内に秘めて静かな眠りの中にいる。
「しかしこの男ならやってくれるでしょう」
「……そうだな」
呉壱の顔に安堵の笑みが浮かぶ。そこには己が片腕である若頭への、全幅の信頼があった。
「白湯と、それから重湯を準備しておくがいいでしょう。戻って来れたとして、彼女の身体が衰弱していることに違いはない。それと……」
たっぷり二時間は過ぎただろうか。
突然鋭く息を吸い込んだかと思うと、吾妻ががばりと上体を起こした。その振動で花乃が呻く。数日ぶりで彼女が見せる、命ある者の反応だった。
「は、花乃!」
「落ち着いて。自分で戻って来るのが肝要だ」
慌てる呉壱を押し留めながら、蛇川が寝台に歩み寄る。
吾妻は額に手を当てて呻いていたが、蛇川がそばに立つと顔を上げた。
「ああ……先生。なんだか随分と久しぶりな気がする」
「無事完遂したらしいな。まずはおめでとうと言っておこうか。どうだった、幽明の境を巡る旅は。彼の世の居心地はよかったかね」
「最悪だったよ。それに」
吾妻はへにゃりと笑って見せると、大きな掌を顔の横で軽く振った。
「振られちまった」
「なに?」
「お嬢に振られた、口を挟む暇もなかった。恋に恋していたいお年頃なんだとよ。……ま、いろいろあったのさ、夢の中で」
寝台から立ち上がり、吾妻はいそいそと敷島を取り出した。呉壱に向かって深々と一礼すると、なるべく蛇川から離れたうえで火をつける。
しばらく面食らっていた蛇川だったが、くさった様子の吾妻を見ていると笑いがこみ上げてきた。
吾妻は、これでなかなか女泣かせの男だ。十七の小娘に振られたとあっては、がくりとくるものもあるのだろう。
ふと花乃に目をやると、吊り気味の目尻から一筋の涙が流れていることに気が付いた。
その涙は何を意味しているのか? 吾妻はただ「振られた」と思っているらしかったが、果たして……
「いい女じゃないか」
小さく呟き、蛇川は今度こそ微笑んだ。
帝都東京はまだ眠りの中にある。花乃はじきに目覚めるだろう。
空が白み始めるのは、もう少し先。
〈 泣く聖獣 了 〉




