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一〇:泣く聖獣




 指示されたものを持ち帰ると、蛇川(へびかわ)は別室に寝かされていた。寝台を用意するというのを固辞して、固い床でそのまま横になったらしい。なるべく頑丈な部屋がいいと言うので、歓迎できない客をもてなす(・・・・)ための部屋を当てがったとのことだ。

 やはり変わった男だな、と言う呉壱(ごいち)には曖昧な笑みを返し、吾妻(あがつま)は早速言い付けに従って香の調合を始めた。


 薬研を扱うのに苦心していると、ギンが寄ってきて交代を申し出た。器用な男なので、作業速度がぐんと上がる。

 鴛鴦組のナンバー2とナンバー3が顔を突き合わせて薬研を()っている様を見られたのは、後にも先にもこの時だけだろう。


「これで完成ですかな」


 腕捲りしたギンが顔を上げる。露わになった細身の腕には、前腕の半ばくらいまで鮮やかな和彫りが入れられている。


「そうだな……で、これを枕元に並べる、と」


 右肩上がりのせっかちな文字は、調合した香を六つに均等に分け、小皿に盛って枕元へと並べるようにと書いている。面倒なことに、その小皿の下には何やらの図柄を描かねばならんとのことで、蛇川が床に寝ると言い張ったのはこのためだろう。


 ともあれ、ギンがいてくれて助かった。吾妻の大きく節ばった手は、拳に固めて殴打するには長けておれども細かな作業にはとても向かない。反対に、ギンの細長い指はたいそう器用によく動く。紙に描かれた珍妙な図形は、何倍大かに引き延ばされて、瞬く間に床へと描き写された。


「器用なもんだなあ」


「昔から指先だけは達者やったんですわ。竹トンボやらベーゴマやら自作しては、近所のジャリガキらに売りつけとりましたよって。……ほな、仕上げは兄ィのほうで」


 そう言うと、ギンは乳白色の液体が入った硝子(ガラス)瓶を差し出した。


 もともと、鴛鴦組の中にあってはあまり目立たなかったギンの才能を見出だし、引き立てたのは吾妻だ。


 武闘派集団である鴛鴦組においては、分かりやすい腕力こそが重宝される。

 その中にあってギンのような痩身の男はまず珍しかったし、古流柔術の覚えがあるといっても心許ない腕の細さだ。事実、徒手空拳が得意であるとは言い難い。それで、彼を軽んじる風潮があったのだが、愛想笑いを返すギンの瞳に強い矜持(きょうじ)(ほむら)があるのに気が付いたのが吾妻だった。


 それがきっかけで満ツ前銀次という男に興味を持ち、その心意気に感心し、また銃の知識及びその扱いの巧みさを知り、秘めたる智謀の深さに驚いて、兄弟盃を交わすまでに至った。


「うん、これを額にまぶすんだったか」


 ギンから受け取った硝子瓶を揺すり、蓋を捻り開ける。どこか懐かしい白梅の香りが辺りに漂う。


 瓶を片手に、眠る蛇川のそばに屈み込む。

 薄い目蓋はぴたりと上下で合わせられ、長い睫毛が並んでいる。そこから一直線に伸びる高い鼻梁。平素には深い皺の刻まれた額も、今ばかりは凪いだ海のように落ち着いている。


 思えば、蛇川が眠る姿を無防備に晒しているのは珍しい。彼が昏倒している様を見たことは何度かあるが、安らかな寝息を立てているのを見るのはこれが初めてかもしれない。


 寝ている分には無害な男なんだがな。そんなことを思いながら形のいい額に白梅香を振りかけてやると、蛇川は目を閉じたまま微かに呻いた。すわ起こしたかと身構えるも、どうやらそうではないらしい。

 確かに眠ってはいる。しかし、穏やかだったその寝顔には苦悶の様相が浮かんでいる。見れば額には脂汗が浮かんでいるではないか。もしや、夢を喰われかけでもしているのだろうか。


「――おい、先生」


 迷いながらもその肩に手を掛けた吾妻だったが、ギンの鋭い声に振り返った。


「来よりましたで……」


 ギンは蛇川の枕元を睨みつけている。その視線を辿った吾妻は、思わず小さな声を上げた。


 何か、得体の知れない黒い霞が蛇川の頭上で蠢いていた。

 どこからともなく湧いて出たその霞は、円を描きながら次第に収束し、何かの形を作り上げていく。


 それは獣のようであった。どっしりとした胴体に、しなやかさと強靭さを併せ持つ四本の脚。穴熊のごとき顔には立派な一対の牙が生え、鼻は長く、図説でもお目にかかったことのない獣である。


 その獣は四本脚で蛇川の枕元に立つと、しばらく様子を窺うように目を瞬かせていたが、やがて蛇川の額に長い鼻を差し向けた。


 ――夢を喰われる。


 背筋を震わすその直感に、吾妻が大きく身を乗り出す。相手がヒトならざるものであることは明白だったが、考える前に身体が動く。


 とにかく獣を蛇川から遠ざけねばならない。掴みかからんと伸ばされた吾妻の両腕は、しかし獣の胴を通り抜けた。指には何の手応えすらも感じない。


 我知らず驚愕の声を上げようとした吾妻だったが、しかしその声は喉の半ばで引き攣った音へと変じた。

 耐えがたい悪寒が全身に伝播し、指を震わせる。心臓が大きく脈を打つ。全身を巡る血がひと呼吸の間に凍りついたかのごとき感覚。焦点が定まらなくなり、吾妻は堪らず膝をついた。


「兄ィ!」


 酷い顔色で崩れ落ちた吾妻に、弟分のギンが駆け寄る。獣はその騒ぎを意にも介さず、蛇川の額に鼻をつけて――


 バチン!


 突如、電灯を点けたかのごとき鋭い音が鳴り響いた。それと同時に、鼻を高く掲げた獣が両の前脚を浮かせ、悶える。


 いったい何が起こったというのか。

 ギンに支えられ、まだ全身を震わす吾妻の前で、蛇川の薄い胸が大きく膨らんだ。かと思えば、薄く開いた唇の間から長い長いため息が漏れ、その呼気の尻が掠れた声へと変わっていく。


 おもむろに蛇川が上体を起こす。乱れた髪が顔に散らばる。閉じていた目蓋がゆっくりと開かれ、灰褐色の瞳が虚空を見つめる。


 まるで、固く閉じた蕾から鮮やかな花弁が零れ出すような――あるいは、強張った(さなぎ)の背が一筋に割れ、中から美しい羽根が現れたかのような。

 どこか幻想的な色香さえ漂わせながら、眠りから醒めた蛇川がゆるく(かぶり)を振った。額から垂れた白梅香が雫となって散る。


「騒がしいな……ゆったりと眠る(いとま)もないのか」


「せ、先生」


 思わず呟く吾妻に、緩緩(かんかん)と蛇川が向き直る。腕を押さえる吾妻の姿に何があったかを悟ったか、眉根を寄せて唇を歪めた。


聖獣(せいじゅう)に生身のヒトの身体で触れる奴があるか、莫迦者」


「聖獣……?」


「そうだ。そちらにおわしまするは、遥か中国よりお渡りになられた聖獣、(バク)だ」


 白梅香の残りを腕にかけておけ。そう言うと、蛇川は緩慢な動作で立ち上がった。

 全身についた埃をはたはたと払い、まだ悶えている獣――貘へと向き直る。


 見れば、ギンが描いた床の図柄が淡く光を帯びていた。ただ炭で描かれただけのそれが、今は月光に照らされた雪のごとき色合いに変じている。どういう仕組みかは知れないが、その図柄が貘を捕らえているらしい。


「貘はもともと、悪夢を食べてくれる聖獣だ。悪夢を見た際、どうぞお食べくださいと唱えれば枕元に現れて悪い夢を喰ってくれる。喰われた夢は、二度と見ずに済むという。しかし……」


 不可思議な拘束に捕らわれた貘は、怒り、猛り、暴れ回っている。その顔は醜悪に歪み、歯を剥くその口元からは獰猛な声が漏れている。

 その姿は聖獣からは程遠く、吾妻がかつて目にした鬼とさして変わらなく見えた。彼らは皆一様に怒り、嘆き、哀しみ、恨み、救いを求めて(たけ)っている……


「悪いものを喰らいすぎて腹を壊したな。悪夢の管理者が、その悪夢に呑まれてしまったのだ。半ば自我を喪いながら、しかし己ではどうすることもできず、荒れ狂い、己を呼ばわった者の夢を貪り喰らっているのが今の貘だ。おそらく、花乃以外にも夢を喰らわれ、眠りから醒めなくなった者がいるはずだ」


 言い終えるなり両手を口元へと持っていき、その革手袋を歯で噛んだ。そのまま一気に両手を引き抜く。


 露わになった両手には、無数の目玉が付いていた。血走った大小の目が、彼方此方を睥睨(へいげい)する。


 この目玉こそ、蛇川が己が身に封じた鬼だった。

 これが、この呪縛が、彼を凡庸な骨董屋亭主から遠ざけ、その身を徐々に蝕んでいる。


「己の喰らったものに身を蝕まれ、鬼と化した憐れな聖獣よ。その膿を、僕が取り祓って差し上げる」




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