番外編 お前は何者だ
「……ニンジン?」
わたくしは、窓の外に立つ橙色の生き物を見つめた。
細長い胴体。
頭頂部から伸びる緑色の葉。
そして、こちらを見つめる二つの目。
「ニンジンですわね」
口にした瞬間、違和感があった。
なぜ、わたくしはそれを知っているのだろう。
この世界には、大根しか存在しない。
野菜も。
動物も。
魔物も。
王族も。
すべて、大根である。
それは常識だった。
わたくしが生まれたときから。
いえ、生まれる前から。
この世界には、大根しか存在しなかった。
「……聖女様」
「はい?」
「ニンジンとは、何でしょう?」
聖女は不思議そうに首をかしげた。
「ニンジンは、ニンジンですわ」
「それは、どういう意味ですの?」
「ニンジンはニンジンでしょう?」
聖女は笑った。
いつもの、あの無邪気な笑顔だった。
だが。
わたくしは、彼女の顔を見つめた。
「……聖女様」
「なんですか?」
「あなた、ニンジンを見たことがございますの?」
「もちろんですわ」
「いつ?」
「……」
聖女の笑顔が、止まった。
「いつ……?」
彼女は、考え始めた。
昨日?
一昨日?
幼少期?
記憶をたどる。
だが、どこにもない。
ニンジンを見た記憶がない。
食べた記憶もない。
絵本にも。
歴史書にも。
神話にも。
ニンジンという言葉が登場したことすら、一度もなかった。
なのに。
なぜ、自分はニンジンをニンジンだと理解できるのだろう。
「……王子殿下」
聖女が、震える声で呼びかけた。
「わたくしたちは……ニンジンというものを、知っていたのでしょうか?」
王子は答えなかった。
彼は、窓の外を見つめていた。
橙色の生き物が、ゆっくりと口を開いた。
「ごきげんよう」
声は、聞き慣れたものだった。
王族が使う、上品な発音。
貴族が学ぶ、正確な文法。
それなのに。
「……なぜ、しゃべれる?」
王子がつぶやいた。
ニンジンは微笑んだ。
「あなた方も、しゃべるではありませんか」
「我々は大根だ」
「ええ」
「大根がしゃべるのは当然だ」
「そうですわね」
「だが、お前はニンジンだ」
「はい」
「なぜ、しゃべれる?」
ニンジンは、少しだけ首をかしげた。
「……なぜ、しゃべれないと思ったのです?」
王子は口を閉じた。
その問いに、答えられなかった。
大根がしゃべるのは当然。
ニンジンがしゃべるのは異常。
その境界線は、いったいどこにある?
誰が決めた?
なぜ、決められている?
そして。
なぜ、自分はそのルールを疑ったことすらなかったのか。
「……悪役令嬢」
王子が、わたくしを見た。
「お前は、何者だ?」
「悪役令嬢ですわ」
「そういうことではない!」
「では、何をお尋ねですの?」
「お前は……この世界を、どう理解している?」
わたくしは、考えた。
この世界には、大根しか存在しない。
それは事実だ。
けれど、目の前にはニンジンがいる。
それも事実だ。
二つの事実は、矛盾している。
ならば。
どちらかが、間違っているのだろうか。
「……王子殿下」
「なんだ」
「ひとつ、よろしいでしょうか」
「言ってみろ」
「わたくしたちは、本当に大根ですの?」
沈黙。
その瞬間。
王城の鐘が鳴った。
一回。
二回。
三回。
そして、四回目の鐘が鳴る前に、音が途切れた。
窓の外で、ニンジンが笑った。
「……ようやく、気づきましたか」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
上品な王族の声ではない。
もっと古い。
もっと深い。
何百年も、何千年も前から存在しているような声だった。
「あなた方は、大根ではありません」
王子が叫んだ。
「では、我々は何だ!」
ニンジンは答えた。
「それを知れば、あなた方は、もう元には戻れない」
わたくしは、ゆっくりと立ち上がった。
「……結構ですわ」
「ほう?」
「知らないまま生きるより、知ったうえで畑を耕したいですもの」
ニンジンは、初めて笑うのをやめた。
そして。
その顔から、目が消えた。
口が消えた。
葉が消えた。
最後に、橙色の胴体だけが残った。
ただのニンジンだった。
床に転がったそれを、誰も拾わなかった。
聖女が、震える声で尋ねた。
「……悪役令嬢様」
「はい」
「わたくしたちは、何なのでしょう?」
わたくしは答えなかった。
答えられなかった。
なぜなら。
床に転がるニンジンを見つめているうちに、ひとつの記憶が蘇ったからだ。
前世。
わたくしは、人間だった。
今世。
私はうさぎだったはず、、、
少なくとも、そう思っていた。
けれど。
その記憶の中に、ニンジンが一本も存在しなかったとしたら?
わたくしは、何を食べて生きていたのだろう。
そもそも。
わたくしは、本当に人間だったのだろうか。
窓の外で、風が吹いた。
畑の大根たちが、一斉に葉を揺らした。
まるで。
誰かに、笑われているかのように。
その夜、わたくしは夢を見た。
真っ暗な部屋。
白い壁。
四角い窓。
そして、壁に掛けられた一枚の紙。
そこには、こう書かれていた。
『この世界に、大根以外の野菜は存在しません』
その下に、小さく。
『設定変更は管理者のみ可能です』
目が覚めた。
朝だった。
いつもの朝。
いつもの畑。
いつもの大根。
わたくしは、窓の外を見た。
一本の大根が、こちらを向いていた。
目はない。
口もない。
ただ、葉が風に揺れている。
わたくしは、静かに尋ねた。
「……あなたは、何を知っているの?」
大根は答えなかった。
当然だ。
大根なのだから。
わたくしは、ほっと息をついた。
そして、朝食の準備を始めた。
今日は、大根の味噌汁にしよう。
……そう思ったとき。
台所の隅に、見覚えのない野菜が置かれているのに気づいた。
白い胴体。
緑色の葉。
大根によく似ている。
けれど。
表面には、黒い文字で、こう書かれていた。
『あなたは、まだ大根だと思っているのですか?』




