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第5話:計算外の甘い結末

ベルシュテイン公爵邸の最上階。かつてオーディンを「飼育」していた北棟とは対極にある、最も日当たりが良く、最も警備が厳重な主寝室。

 そこは今、隣国の王にして、私の「夫」となったオーディンの私室へと作り替えられていた。


「……オーディン。いつまでそうしているつもり? 今日の閣議の資料に目を通さなければならないの。非効率的な拘束はやめなさい」


私は豪華な天蓋付きのベッドの上で、背後から抱きしめられたまま、精一杯の冷徹な声を絞り出した。

 だが、私の腰に回された屈強な腕は、離れるどころかさらに力を強める。


「閣議なら中止させました。ベルシュテインの官僚たちは優秀だ、一日くらい主がいなくても領地は回る。それより今は、俺の『報酬』の支払い時間でしょう、イシュタル」


耳元に寄せられた低い声が、私の鼓膜を甘く震わせる。

 十年前の、あの掠れた少年の声ではない。大陸を平らげた王としての、余裕と独占欲に満ちた男の響きだ。


「……勝手な判断ね。政治的コストを考えなさいと言ったはずよ」


「考えた結果です。あんたの疲労蓄積による能率低下を防ぐには、俺による直接的な休養(癒やし)の付与が最も合理的だ」


オーディンは私の肩に顔を埋め、深く呼吸した。

 彼は私が教えた「論理」を、私を甘やかすためだけに、都合よく歪めて使いこなしている。皮肉なものね。私が育てた「牙」は、私自身を捕らえ、逃がさないための檻になってしまった。


「……っ」


不意に、彼の指先が私の左頬――あの醜い火傷の痕を、羽毛でなぞるように愛撫した。

 かつては忌まわしい事故の象徴であり、その後は敵を威圧する盾だったこの傷が、彼の前ではただの「愛の標的」に成り下がる。


「この傷……本当に、愛おしい。あんたが一人で戦い、俺を待っていた証だ」


「……ただの古傷よ。感傷に浸るのは時間の無駄だわ」


「無駄ではありません。俺にとっては、どんな宝石よりも価値がある。……ねえ、イシュタル。あんたは俺に『死ぬまで道具として働け』と言った。覚えていますか?」


オーディンは私を仰向けに倒し、上から覆いかぶさるようにして金の瞳で私を射抜いた。

 逃げ場のない視線。私は、彼の瞳の中に映る、頬を赤らめた自分の無様な姿を見せつけられる。


「覚えているわ。……それがどうしたの」


「俺は今、王だ。誰の道具でもない。……だが、あんたにだけは、一生飼われてやる。その代わり、あんたも俺に飼われろ。対等な、愛の共犯者として」


彼はそう言うと、私の頬の傷跡に、熱い口づけを落とした。

 一つ、また一つ。

 呪いを解く儀式のように丁寧な、それでいて逃亡を許さない略奪者のキス。


「……っ、ふ、……あ、……オーディン……」


冷徹だったはずの思考が、甘い熱に溶かされて霧散していく。

 計算機は壊れ、損得勘定は沈黙した。

 今、この瞬間、私を満たしているのは、領地の繁栄でも権力でもない。かつて市場の泥の中から拾い上げた「投資対象」から注がれる、あまりにも非合理で、あまりにも情熱的な、ただの愛だった。


「……後悔しても、知らないわよ。私は、可愛げのない女よ。……仕事は辞めないし、あなたの思い通りにはならないわ」


私は精一杯の虚勢を張って、彼の銀色の髪に指を絡めた。

 オーディンは、獲物を手に入れた獣のように、満足げに喉を鳴らして笑った。


「望むところだ。……あんたが俺に教えたんだろう? 『投資した分は、骨までしゃぶり尽くせ』と。……今夜は、一睡もさせませんよ。私の、美しいお嬢様イシュタル


カーテンの隙間から差し込む月光が、重なり合う二人の影を照らし出す。

 ベルシュテインの「鉄の女」は、その夜、最強の「牙」に喉元を噛み切られるような、甘美な敗北を認めた。


翌朝。

 公爵邸の官僚たちは、いつになく顔色の良い、そして首元を高い襟のドレスで完璧に隠した主の姿を見て、不審そうに首を傾げた。

 その背後で、若き王が勝ち誇ったような笑みを浮かべて控えている理由を、誰も問うことはできなかった。


合理的で隙のない私の人生に、最大かつ最高の「計算違い」が入り込んだ。

 だが、この未回収だった投資案件の「利子」を味わい尽くすのも、悪くない。


私は新しい帳簿を開き、最初の一行にこう書き込んだ。

 ――『愛の運用。期間:終身。期待リターン:無限大』と。

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