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第4話:凱旋、あるいは略奪

十年という月日は、残酷なまでに世界を塗り替える。

 かつて弱小領地として隣国の脅威に怯えていたベルシュテイン公爵領は、今や帝国の経済を支える中枢となっていた。私の執務室には、毎日山のような陳情書と、それ以上に忌々しい「婚姻の申し込み」が届けられる。


「閣下、ザルツブルクを一夜で陥落させたという『東方の覇王』からの使者が到着いたしました。……謁見の間でお待ちです」


老執事の声に、私は手にしていた万年筆を置いた。

 大陸全土を震え上がらせているその男の名前は、公式にはまだ明かされていない。だが、私の胸の奥に澱のように溜まっていた「直感」という名の非合理な確信が、激しく警鐘を鳴らしていた。


「……通しなさい。ただし、私の護衛は最小限でいいわ。無駄な戦力誇示は、交渉において隙を見せるだけよ」


私は鏡も見ずに立ち上がった。

 ネイビーのドレスに身を包み、左頬の火傷の痕をあえて強調するように髪をアップにまとめる。これが私の正装だ。媚びる必要も、隠す必要もない。私は私のままで、この領地を、民を、そして自分自身を守り抜いてきたのだから。


重厚な扉が開かれ、謁見の間へと足を踏み入れる。

 そこには、異国の豪奢な装束に身を包んだ一団がいた。中心に立つ男は、深紅の外套を羽織り、背を向けて窓の外を眺めている。


「ベルシュテイン公爵令嬢、イシュタルです。……我が領へ、どのような御用かしら、覇王の使者殿」


私の冷徹な声が室内に響く。

 男が、ゆっくりと振り返った。


その瞬間、私の呼吸が止まった。


そこにいたのは、かつての「少年」ではなかった。

 精悍に引き締まった顎のライン、以前よりもさらに深く、鋭利な光を放つ金の瞳。銀色の髪は長く伸び、乱暴に後ろで束ねられている。

 何より、全身から放たれる圧倒的な覇気。それは数多の戦場を潜り抜け、死の淵から這い上がってきた者だけが持つ、王者の威圧感だった。


「……久しぶりですね、イシュタル。以前より、少し痩せましたか?」


低く、地響きのように心地よい声音。

 オーディン。

 行方不明になっていた十年間、私の帳簿から消えることのなかった「最大の未回収案件」が、そこに立っていた。


「……合理的ではないわね」

 私は震える声を抑え込み、努めて冷淡に言い放った。

「戦死したはずの配下が、隣国を滅ぼした王として現れるなんて。確率論で言えば、奇跡というよりは質の悪い冗談よ」


「冗談なものですか。俺はあの日、あんたに『報酬をいただけるか』と聞いた。その答えを貰うために、地獄から戻ってきたんだ」


オーディンが一歩、また一歩と私に近づく。

 私の護衛たちが剣の柄に手をかけたが、オーディンが軽く指を鳴らすと、彼の背後に控えていた異民族の戦士たちが一斉に殺気を放った。その場が凍り付く。


「……下がっていなさい。これは、私と彼の『商談』よ」


私は騎士たちを制し、真っ向から彼を見据えた。

 オーディンは私の目の前で立ち止まると、不敵な笑みを浮かべた。その顔は恐ろしいほどに美しく、かつての面影を残しながらも、完全に別人のような色気を纏っている。


「商談、ですか。相変わらず、あんたはすべてを取引で片付けようとする」


「当然でしょう。私はベルシュテインの当主よ」


「なら、取引しましょう。俺は今、ザルツブルクの旧領と、東方の広大な資源、そして大陸最強の騎馬軍団を所有している。……これらすべてを、ベルシュテイン公爵家に譲渡する。対価は一つだけだ」


オーディンは、私の左頬にそっと手を伸ばした。

 かつて少年だった彼が、熱を吸い取ると言った、その傷跡。

 彼は慈しむように、そして所有を誇示するように、親指でその火傷の痕をなぞった。


「あんたのすべてを、俺に。……イシュタル、あんたを俺の『妃』として買い取りに来た」


「……っ、馬鹿げてるわ。公爵家と一国の王の婚姻なんて、政治的調整にどれだけのコストがかかると思っているの」


「コストなら俺が払う。反対する貴族がいるなら、その首を跳ねて予算を削減してやろう。あんたが教えたんだろう? 『無能は切り捨てろ』と」


彼は私の腰を引き寄せ、逃げ場を塞ぐように抱きしめた。

 鉄と砂の匂い、そして確固たる意志を持った男の体温が、私の理性をじわじわと侵食していく。


「あんたは俺を『最強の牙』に育てた。……今さら、飼い犬に戻るつもりはない。俺はあんたを食らい、あんたを閉じ込め、一生かけて俺の執着を注ぎ込むつもりだ」


「……私は、あなたの道具ではないわ。オーディン」


「ああ、わかっている。あんたは俺の神だ。……だが神様、あんたも俺がいない十年間、寂しくて泣いていたんだろう? その傷跡が、俺を求めて疼くと白状しろ」


耳元で囁かれる熱い吐息。

 合理的であるはずの私の脳内計算機が、激しく火花を散らして沈黙した。

 抗わなければならない。だが、彼の手のひらから伝わる圧倒的な独占欲が、十年間の孤独で干からびていた私の心を、甘すぎる毒で満たしていく。


「……利子が、高すぎるわよ。この、強欲な奴隷いぬ


「ええ。たっぷり払っていただきますよ、お嬢様」


オーディンは残酷なほどに美しい笑みを浮かべ、私の唇を奪った。

 それは凱旋という名の、略奪の始まりだった。

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