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第3話:別離と誓い

ベルシュテイン公爵領の北端、険しい岩山が連なる国境地帯。

 そこは、かつて我がベルシュテイン家が武勲を立てて守り抜いた地であり、今や隣国――軍事国家ザルツブルクの野欲に晒される最前線となっていた。


「報告を。ザルツブルク軍の現時点での布陣、および兵站の状況は?」


冷え込みの厳しい前線本部の天幕。私は地図の上に視線を落としたまま、傍らに控えるオーディンに問いかけた。

 あれからさらに半年。オーディンは驚異的な速度で「実戦」に適応していた。かつての痩せこけた少年の面影は消え、引き締まった長身と、無駄のない筋肉を纏った若き狩人の風貌へと変貌を遂げている。


「敵主力は峡谷の出口に集結。数は我が軍の三倍。……ですが、兵站が伸び切っています。彼らはこの寒さを読み違えた。食料の備蓄、燃料、すべてが不足しています」


オーディンは淀みなく答え、地図の一点を指差した。

 その指先は、私が頭の中で導き出した「急所」と寸分違わず重なる。


「合理的ね。……なら、答えは一つ。正面からぶつかる必要はない。私たちは時間を稼ぎ、彼らが自滅するのを待てばいい」


私は冷徹に断言した。だが、それには条件がある。

 敵の猛攻を一時的に食い止め、注意を逸らす「囮」が必要だ。それも、ザルツブルクの精鋭騎士団を翻弄し、死地を駆け抜けるほどの圧倒的な武力と知略を持った存在が。


天幕の中に沈黙が流れる。

 護衛の騎士たちは顔を見合わせた。三倍の敵を相手に囮を務めるなど、死を意味するに等しい。

 だが、私の隣に立つ青年――オーディンだけは、静かに私の言葉を待っていた。


「……オーディン。あなたに、最も生存率の低い任務を託すわ」


「拝命します。それが、貴女の望む『成果』に繋がるのであれば」


迷いのない返声。

 私は彼を見上げた。銀色の髪が、松明の光を浴びて鈍く輝いている。

 かつて市場で買い取った時は、私の顎までしかなかった背丈が、今や見上げるほどに高い。


「勘違いしないで。これは、ベルシュテイン家の資産を守るための最適解よ。……死なれたら、私の投資が焦げ付くことになる。それだけは、許さないわ」


私の言葉は、どこまでも事務的で、冷たい。

 だが、オーディンはその言葉の裏側にある、私自身も気づかないほどの「微かな震え」を敏感に感じ取ったようだった。

 彼は不意に、私の前に膝をつき、その大きな手で私の冷えた指先を包み込んだ。


「イシュタル様。あんたはいつも、損得で俺を測る。……それでいい。俺は、あんたの帳簿の中で一番価値のある『財産』でありたい」


彼は私の指先に、深く、刻印を残すような口づけを落とした。


「俺は東方の部族の血を引く者。……死地こそが、俺の真価を発揮する場所だ。ザルツブルクの連中を地獄の底まで引きずり回して、必ず帰ってきます。その時は――」


オーディンは顔を上げ、金の瞳で私を射抜いた。

 その眼差しは、もはや従者のものではない。獲物を追い詰める捕食者の、あるいはすべてを飲み込もうとする熱狂的な信者のそれだった。


「その時は、俺を『道具』ではなく、一人の『男』として、報酬をいただけますか?」


「……生意気ね。生き残ってから言いなさい。望み通りの対価を考えておいてあげるわ」


私は動揺を隠すように、強気な笑みを浮かべた。

 それが、彼との最後になるかもしれないと、心のどこかで恐れながら。


翌朝、オーディンはわずかな精鋭を率いて、霧の立ち込める戦場へと消えていった。

 彼の背中が見えなくなるまで、私は見送ることを自分に禁じた。感情に流されるのは非合理的だ。私は私の戦場――本陣での指揮に戻らなければならない。



戦況は、私の読み通りに進んだ。

 オーディンの「囮」としての働きは、敵軍に「ベルシュテインの悪魔」と恐れられるほどの戦果を上げた。敵主力は彼を追って山岳地帯へと深入りし、折からの大雪と補給の途絶によって壊滅。ベルシュテイン公爵領は、最小限の損害で守り抜かれた。


だが。

 戦いの終わりと共に届いた報せは、私の期待したものではなかった。


「……オーディン殿の部隊、急流に飲み込まれ、行方不明……?」


報告書を握りしめる私の手が、止まらない。

 そんなはずはない。彼は合理的で、生存本能に優れ、そして何より私への「忠誠」を盾に、死を拒んでいたはずだ。


「イシュタル様、捜索隊を出しますが、この雪では……」


「……不要よ。非効率な捜索はやめなさい。死体が見つからないなら、生存の可能性を前提に、次の戦略を立てるだけだわ」


私は冷徹な声を絞り出した。

 周囲の騎士たちは、私のあまりの冷酷さに顔を強張らせた。実の弟のように育てた配下が死んだというのに、この女はまだ帳簿の心配をしているのか、と。


だが、彼らには見えなかっただろう。

 机の下で、爪が食い込むほどに握りしめられた私の拳を。

 そして、執務室に一人残された夜。

 左頬の傷跡をなぞりながら、彼の手の温もりを求めて、音もなく流された私の涙を。


「……嘘つき。死ぬまで働くって、言ったじゃない」


それから、長い年月が流れた。

 ベルシュテイン公爵家は、私の政治手腕によって「帝国の盾」と呼ばれるほどの繁栄を遂げた。

 一方で、私の顔の傷は消えず、私の心はさらに厚い氷の壁で覆われていった。

 世間は私を「冷血な女公爵」と呼び、婚期の過ぎた「鉄の処女」と揶揄する。


だが、私は待ち続けていた。

 私の合理的で完璧な帳簿に、唯一残された「未回収の投資案件」。

 あの金の瞳を持つ「牙」が、利子をつけて私の元へ帰還する、その日を。


そして、十年目の春。

 沈黙を破り、大陸全土に激震が走る。

 東方の異民族を束ね、隣国ザルツブルクを一夜にして踏みにじった「若き砂漠の覇王」の噂。

 その男は、銀色の髪と金の瞳を持ち、誰よりも苛烈に、一人の女を探し求めているという。


私は、執務室の窓から遠い東の空を見上げた。

 風の中に、懐かしい、そして恐ろしいほどに情熱的な、あの少年の声が混じっているような気がした。


(……来なさい、オーディン。あなたの主が、ここで待っているわ)


私の指先は、期待に、あるいは予感に、微かに震えていた。

 史上最も非合理で、最も甘美な「回収の時」が、すぐそこまで迫っていた。

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