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第2話:教育と飼育

ベルシュテイン公爵邸の北棟、陽当たりの悪い一室がオーディンの新しい「檻」となった。もっとも、鉄格子はない。代わりに用意したのは、山のような書物と、領内随一の剣術指南役、そして私の容赦ない「期待」という名の重圧だ。


あれから一ヶ月。

 オーディンの回復力は、私の合理的な予測を遥かに上回っていた。折れていた足は魔術と接骨で繋がり、痩せこけていた頬には健康的な肉がつき始めている。


「……イシュタル様、本日の進捗報告です」


執務室のドアを叩き、入ってきた少年の姿に、私は一瞬だけペンを止めた。

 支給した上質な暗緑色の隊服を纏った彼は、もはや市場の泥にまみれていた野良犬ではない。銀色の髪は短く切り揃えられ、褐色の肌とのコントラストが、彼の異国情緒あふれる美しさを際立たせている。


「読みなさい」


「はい。帝国の公用語、および北方諸国の主要三言語の基礎習得を完了。剣術においては、騎士団の若手三名を同時に相手取り、五分以内で制圧。……それから、貴女が命じた『毒物への耐性訓練』も、予定通り一段階目を終了しました」


淡々と述べるその声には、一切の迷いがない。

 私は手元の書類に視線を落としたまま、鼻で笑った。


「一ヶ月でそれだけ? 投資効率としては、まあ及第点ね。だが、私の『牙』になるなら、騎士団の若手程度で苦戦していてはどうしようもないわ。次は団長クラスを倒す算段を立てなさい」


「了解しました。明日の朝までには、攻略法をまとめます」


普通なら「無茶を言うな」と反発するか、あるいは恐怖に震える場面だ。

 だが、オーディンは表情一つ変えず、むしろその金の瞳を満足げに細めた。彼は、私が彼に「過酷な要求」をすればするほど、自分が私の役に立っているという実感を深めているようだった。


これこそが、私が彼に期待した「非合理な忠誠心」だ。

 金や名誉で動く男は、より高い金や名誉を提示されれば裏切る。だが、自分の存在意義を他者に預けた「狂信者」は、死ぬまで裏切らない。


「ところで……イシュタル様」


報告を終えたはずの彼が、一歩、私のデスクに近づいた。


「何かしら。時間は貴重よ」


「その……頬の火傷、今日は少し赤いようです。昨夜も遅くまで、執務をされていたのでは?」


私は無意識に左頬に指を這わせた。

 鏡を見ずともわかる。疲労が溜まると、古傷が疼くことがあるのだ。


「それがあなたの業務に関係あること? さっさと訓練に戻りなさい」


「関係あります。貴女は私の『主』だ。道具の維持管理は持ち主の責任ですが、持ち主の健康を守るのは、道具の義務でしょう」


彼はそう言うと、私の制止も聞かず、デスクの横に跪いた。

 そして、温かい手のひらを、私の左頬にそっと添えたのだ。


心臓が、妙な音を立てた。

 他人にこの傷を見られることはあっても、触れられることなど、あの日以来一度もなかった。元婚約者ですら、汚いものを見るように視線を逸らしていたというのに。


「……離しなさい」


「嫌です。冷やしたほうがいい。……俺が、この熱を吸い取ってやれたらいいのに」


オーディンの瞳は、熱烈な崇拝を湛えて私を射抜いていた。

 その瞳には、私の傷への嫌悪も、過剰な憐憫もない。ただ、そこにある「強さの証」を誇らしく思っているような、そんな不可解な光。


「イシュタル様。あんたは俺を『牙』だと言った。なら、あんたを傷つけるすべてのもの……それがたとえ過去の記憶であっても、俺が噛み砕いてやる」


「……随分な大口ね。文字もろくに書けなかった子供の分際で」


「今は書けます。あんたの……名前も、愛の言葉も」


さらりと言ってのける少年に、私は毒気を抜かれた。

 合理的であるはずの私の脳内計算機が、彼の行動を測りかねてエラーを吐き出している。

 彼に施しているのは、暗殺や諜報、政治工作の教育であって、このような気障な台詞を吐く教育はしていないはずだ。


「……生意気な口を。いいわ、それだけ自信があるなら、来週の領内演習に同行しなさい。私の『牙』が、どこまで本物か見極めてあげる」


「御心のままに。……必ず、あんたが世界で一番正しい投資をしたと、証明してみせる」


彼は私の頬から手を離すと、その指先に、誓いを立てるように唇を寄せた。

 柔らかな感触が、火傷の痕に残る。

 彼が部屋を出て行った後も、そこだけが熱を帯びたように熱い。


私は乱れた呼吸を整えるため、冷めた紅茶を口にした。

 オーディンは、間違いなく成長している。それも、私の想像を絶する速度で。

 身体能力、知能、そして――私に対する、狂気じみた執着心。


これほどのリターンが見込める投資は、一生に一度あるかないかだろう。

 だが、そのリターンが「領地の繁栄」だけでなく、私の「人生そのもの」を要求してくる可能性を、この時の私はまだ、誤差の範囲として切り捨てていた。



数日後、ベルシュテイン公爵領の国境付近で、隣国による小規模な挑発行為が確認された。

 私は、戦況の分析と次の一手へのシミュレーションを開始する。

 隣国の狙い、我が軍の戦力、そして――。


「オーディン。あなたの初陣を、少し早める必要があるかもしれないわ」


「待っていました」


背後で控える影のような少年が、獰猛な肉食獣のように笑う。

 その笑みは美しく、そしてどこか、不吉なほどに完成されていた。


私は手元の駒を、地図の上の最前線へと進めた。

 これが、世界を揺るがす戦乱の、そして二人の運命を分かつ「別離」への序曲になるとも知らずに。

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