第1話:合理主義者の「先行投資」
鏡の中に映る自分は、客観的に見て「完成された機能美」を備えていると思う。
夜の海を溶かし込んだような深いネイビーの髪は、作業の邪魔にならぬようタイトな夜会巻きに纏められ、知的で冷徹な印象を与える。切れ長の双眸は鋭い意志を宿し、その視線だけで並の役人は委縮して口を閉ざす。
そして、左の頬。
かつての馬車転落事故で刻まれた火傷の痕は、白い肌の上で無骨な紋章のように這っている。
社交界の淑女たちが、これを「消えない呪い」や「女の終わり」と呼んで憐れむのは知っている。だが、私、イシュタル・ベルシュテインに言わせれば、これは「無能な求婚者を一瞬で選別できる、極めて効率的なフィルター」に過ぎない。
「イシュタル……君との婚約を白紙に戻したい。……その顔を見るたび、あの日を思い出して、夜も眠れんのだ」
半年前、元婚約者の伯爵嫡男はそう吐き捨てて去っていった。
私は彼が部屋を出たコンマ数秒後には机に向かい、「無能な夫の機嫌を伺うコスト」がゼロになったことを喜び、空いた時間に次の領地予算案を書き込んだ。
私に必要なのは、私を「女」として愛でる軟弱な伴侶ではない。
借金まみれのベルシュテイン公爵家を立て直し、領民を飢えさせぬための圧倒的な「戦力」だ。
その日、私は領都の裏路地、非公式の奴隷市場に足を踏み入れていた。
護衛を引き連れ、湿った石畳を歩く。目的は、公爵家の「暗部」となり、私の指先一つで戦場を駆ける忠実な配下の調達だ。
「……どれも、在庫の無駄ね」
並んでいるのは、瞳に光のない男たちばかり。精神が壊れているか、あるいは卑屈に媚びを売るか。再教育のコストが見合わない。
踵を返そうとした、その時だった。
「……待ちな。そこの、顔のイカつい女」
一番奥、光も届かない檻の隅から、掠れた声が響いた。
見れば、そこにはボロ布を纏った少年がいた。砂漠の民特有の褐色の肌、そして深い闇の中でも発光しているかのような、異質な金の瞳。
体中、鞭の跡だらけで、片足は不自然な方向に曲がっている。明らかに死に体だ。
「……私を呼んだの? 死にかけの坊や」
私は檻に近づき、屈みこんだ。
案内人が慌てて割って入る。
「ああ、申し訳ございませんイシュタル様! こいつは東方の反乱部族の生き残りで、気性が荒すぎて売り物にならない代物でして。明日には処分する予定なんです」
「処分? 資源の浪費ね」
私は鉄格子の隙間から、少年の顎を扇でクイと持ち上げた。
至近距離で見る金の瞳。それは、磨けばどんな宝石よりも輝き、そして何より鋭い「牙」になることを確信させた。少年は私の顔の傷を正面から凝視し、あざ笑うでも怯えるでもなく、ただその奥にある私の「魂」を計るように見つめ返してきた。
「名前は?」
「……名前なんて、捨てた。今は……零だ」
「そう。なら、今日からあなたは『オーディン』よ」
私は立ち上がり、案内人に冷淡な声を投げた。
「金貨三十枚。この『ゴミ』を私が買い取るわ」
「は、はあ!? 三十枚!? こんな死にかけ、銀貨数枚の価値もありませんよ!」
「黙りなさい。私は価値のないものに一銭も払わない主義よ。これは私の『投資』に対する適正価格。……文句があるかしら?」
私の有無を言わさぬ口調と、冷たい双眸の圧力に、案内人は平伏した。
◆
屋敷に連れ帰ったオーディンに、私はまず最高級の治療魔術師と、栄養のある食事を与えた。
三日後、ようやく起き上がれるようになった彼は、私の執務室に呼び出された。
汚れを落とした彼の姿は、驚くほど美しかった。褐色の肌に映える銀色の髪、そして理知的な光を湛えた金の瞳。まだ少年だが、骨格はしっかりとしており、数年もすれば恐ろしいほどの美青年に成長するだろう。
彼は部屋に入るなり、迷うことなく床に膝をついた。
「……何故、俺を拾った」
「勘違いしないで。私は慈善活動に興味はないわ」
私は羽ペンを置き、彼を冷徹に見据えた。
「あなたのその瞳、そして生きようとする執念。それは政治の場でも戦場でも、何にも代えがたい武器になる。私は、将来的にベルシュテイン家を支える最強の『牙』を、安いうちに買い叩いただけよ」
オーディンは少しの間、呆然と私を見上げていたが、やがて視線を私の頬の傷へと移した。
普通の人間なら目を逸らすか、同情の光を浮かべる場面だ。
だが、彼はその傷跡に、まるで神聖なものを見るような羨望を浮かべて言った。
「その傷……あんたが一人で戦ってきた証なんだな。……強くて、綺麗だ。俺も、その傷の一部になりたい」
……思わず、予算書を叩く手が止まった。
何を言い出すのか、この子供は。
「合理的に考えて、その言葉に意味はないわ。媚びを売るなら、もう少し論理的な賛辞を覚えなさい」
「媚びじゃない。あんたは俺を『道具』と言ったが、同時に『価値がある』とも言った。……この命、あんたが買った通りだ。好きに使い潰せ、イシュタル」
「ええ、そうさせてもらうわ。死ぬまで働いてもらうから、覚悟しなさい」
私は、彼に最初のリテラシー教育を始めるよう侍従に命じた。
今の私はまだ知らない。
この時、私が「合理的」だと思って下した決断が、将来、最も非合理で、熱狂的な「愛」という名の執着に変わることを。
そして、数年後。
私の前に跪くのは、もはや「捨て駒の少年」ではなく、大陸全土を震撼させる「魔王の如き美貌の王」であることを、この時の私はまだ、知る由もなかったのだ。




