第52話 聖樹への道
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「何がじゃ?」
セレスは、俺が何に引っかかったのか分からないのか首を傾げた。
「聖樹だよ。俺が教えられたのは、そこはもともと人族の土地だったって話だ。魔族が奪って、そのまま占領してるって」
孤児院でも、勇者として王都へ呼ばれてからも、聖樹は人族が取り戻すべき場所だと教えられてきた。それを疑うような話を聞いた覚えはない。
セレスは俺の顔を見たあと、前脚でベッドを一度掻いた。
「……おぬしらでは、そんな話になっておるのか?」
「違うのか?」
「違うも何も、聖樹の周りはわしらが昔から暮らしてきた土地じゃ。わしの知る限り、人族の土地だった時代など一度もない」
「でも、人族が聖樹へ行ってた記録は残ってるぞ。ずっと昔から」
「そりゃ残っておるじゃろうな。行っておったことと、人族の土地だったことは別じゃ」
そう言われると、返す言葉がなかった。
「昔は人族の巡礼者もよく来ておったぞ。わしらも普通に迎えておったし、向こうも魔族だからと妙に警戒するようなことはなかった」
「……巡礼に来てた?」
「そう言っておる」
「聖樹へ続く道には宿も食堂もあったし、巡礼者相手に商いをする者もおった。遠くから来る人族のために道を直すことだってあったぞ」
「魔族が?」
「何を驚いておる。あの頃はこちらの方が道も町も整っておったくらいじゃ」
人族が魔族領を歩き、その途中で魔族の宿に泊まって飯を食う。戦場としてしかこの土地を知らなかった俺には、なかなか信じられなかった。
今だって、人族だと知られないよう耳を隠して町を歩いているくらいだ。
「じゃあ、その頃は戦ってなかったのか?」
「小競り合いまでなかったとは言わんぞ。国同士で揉めることもあったし、人族と争った時代もある。ただ、顔を見れば殺し合うような関係が昔から続いておったわけではない」
セレスは小さな翼を畳み直した。
「商人も行き来していたし、こちらから人族領へ行く者もおった。聖樹へ来る巡礼者だけが特別だったわけでもない」
「今とは全然違うじゃないか」
「三十五年も戦っておれば変わるものもあるじゃろう」
それだけの時間があれば、戦争が始まる前を知らない人間だって増える。
俺もそうだ。
生まれたときにはもう人族と魔族は戦っていて、魔族は敵だった。誰かにそう決められたという感覚さえなく、最初からそういう世界なのだと思っていた。
「でも俺は、魔族が先に人族領へ攻めてきたって……」
「逆じゃ。最初に軍を寄越したのは人族じゃ」
聞き間違えたのかと思った。
「……そんなの、聞いたことないぞ」
「わしに言われても知らん。おぬしらが何を教えられておったかまで、わしが知るわけなかろう」
「でも、お前たちの方ではそう伝わってるってだけかもしれないだろ」
口にしてから、セレスの顔を見る。
こいつが嘘をついているとは思わない。少なくとも、俺を言いくるめるために昔の話を作るような奴ではない。それでも、今まで教えられてきたことを全部捨てて、こっちが正しいとすぐ決めることもできなかった。
「まあ、そう思いたければ思えばよい」
セレスは前脚の爪でベッドの布を引っかいた。
「わしは人族側の古い記録を全部読んだわけではない。向こうで何が残り、何が消えたのかも知らん。ただ、わしが生きてきた間のことまで、おぬしに合わせて変える気はないぞ」
「……戦争が始まった頃も知ってるのか?」
「当たり前じゃ。わしを何歳だと思っておる」
「百六十」
「即答するでない」
俺は少し笑った。
百六十歳のこいつにとって、三十五年前は歴史の本の話ではない。自分が生きていた時代の話だ。
「じゃあ、本当に人族の軍が先に来た?」
「そうじゃ」
今まで信じていた話と、目の前にいるセレスの記憶。その二つが、同時に正しいはずはない。
俺は膝の上で手を組み直した。
魔王を倒せば戦争が終わる。勇者になってから、それを疑ったことは一度もなかった。魔王が人族を滅ぼそうとしているのだから、倒すしかない。それが俺の役目だった。
けれど、戦争の始まりから違っていたとしたら。
「……何で人族は聖樹を欲しがったんだ?」
「知らん。信仰のためという話は聞いたことがあるが、それだけかどうかまでは分からん」
「お前たちは?」
「欲しがる、という言い方がまず妙じゃな」
「どういうことだ?」
セレスは窓の外へ目をやった。
「聖樹は誰か一人の持ち物ではない。あの周りの国も、勝手に枝を切ったり、根元を掘り返したりはせん。落ちた枝や葉を使うことはあっても、生きておる聖樹を傷つけるようなことはせんかった」
「国が違っても?」
「聖樹の近くへ国同士の争いを持ち込むのも禁じておった。あれを自分のものにしようなどと考えれば、他の国が黙っておらん」
人族では、聖樹は取り戻すものだと教えられてきた。
けれどセレスたちは、そもそも誰かのものだとは考えていなかったらしい。
「そんなに大事なのか?」
「大事じゃ。あれは、この辺りだけを支えておる木ではない」
「どういうことだ?」
「大陸を巡る魔力にも関わっておる。弱れば、森も川も変わる。人族領だって無事では済まん」
「木一本で?」
「聖樹をただの木と一緒にするでない」
人族にとっての聖樹は、女神の恩恵を示す神聖な場所だと教えられてきた。だから取り戻さなければならない。
セレスの話は、根本から違っている。
「お前が魔王になったのも、それが関係してる?」
「もちろんじゃ。人族の軍が聖樹へ向かっておるのに、自分の国だけ守って知らぬ顔などできん」
「じゃあ、俺は……」
言いかけて、自分でもその先が分からなくなった。
「何じゃ?」
「俺は何のために、お前を倒したんだろうな」
「それをわしに聞くのか?」
「だよな」
「少なくとも、倒した本人に聞くことではないのう」
「じゃあ誰に聞けばいいんだよ」
「そんなことは知らん」
たぶん、誰かに聞けば答えが出るような話でもない。
セレスの話だけで人族が間違っていたと決める気はない。それでも、何も知らなかった頃と同じように、教えられたことをそのまま信じることも、もうできそうになかった。
「……ちゃんと知りたい」
「聖樹のことか?」
「それも。戦争のことも。俺が何を知らないまま戦ってたのか」
セレスは何も言わず、こちらを見たまま翼を畳んだ。
そのとき、階下から怒鳴るような声が響いた。
廊下を何人かが走り抜け、窓の外でも通りにいた人たちが同じ方向へ動き始める。
「何だ?」
立ち上がって窓へ寄ると、宿の前を駆けていく男が、向かいの店に向かって叫んだ。
「東の街道だ! 人族軍がこっちへ向かってる!」
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