第53話 人族軍が来る
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。
「東の街道だ! 人族軍がこっちへ向かってる!」
男の声が通りへ消えていくと、宿の中まで急に騒がしくなった。階段を下りる足音が重なり、隣の部屋では何かを鞄へ詰め込む音がする。
俺は窓から身を引いた。
「セレス、出るぞ」
「ああ」
セレスを外套の内側へ入れ、フードを深くかぶって階段を下りる。
宿の一階では、主人が客に何かを説明していた。聞こえてくるのは東の街道、人族軍、避難という言葉ばかりだ。
外へ出ると、店先に並んでいた籠や布を抱えて中へ運ぶ者がいた。家から荷車を引き出している者もいる。通りの向こうでは、母親らしい女が子供の手を引き、もう片方の手で大きな袋を抱えていた。
昨日まで、逃げてきた人たちを受け入れる側だった町なのに、今は逃げる準備を始めている。
「どこで見たんだ?」
門の近くに人だかりができている。俺も少し離れたところから話を聞く。
知らせを持ってきた男は、息を整えながら東の方を指した。
「街道沿いの丘を越えた先だ。歩兵だけじゃない。騎馬も何騎か見えたし、荷車もついてた」
「数は?」
「分からん。百や二百ではきかん」
「そんなにいるのか」
誰かが漏らした。
男が見たという丘から、ここまでどれくらいかかるかを考える。町へ来るまでに通った街道は広く、荷車でも速度はそれほど落ちない。軍勢なら途中で足を止めることもあるだろうが、すでにこちらへ向けて動いているなら、のんびり構えてはいられない。
「見たのはいつだ?」
俺が口を挟むと、男がこちらを向いた。
「一刻も経ってない。俺は近道を走ってきたから奴らはもう少しかかるだろ」
「街道をそのまま進んでた?」
「ああ。真っ直ぐこっちへ向かってた」
「何か目印になるような物は見えたか?」
「遠くてよくは見えなかったが、人族の兵だ。それだけは間違いない」
町の者が何人か顔を見合わせた。
騎馬だけなら偵察かもしれないが、荷車まで伴っているなら、それなりの人数が動いているはずだ。だからといって、この町を攻めに来ると決まったわけではない。通過するだけかもしれないし、食料や水を求めて立ち寄るだけかもしれない。
いや……、ここは最悪の事態を想定するべきだ。それに、ここにいる者たちにとっては、目的を確かめてからでは遅すぎる。
「西へ向かうぞ!」
誰かの声が飛んだ。
「歩ける者から先に! 荷物は最低限にしろ!」
人だかりが崩れ、今度はそれぞれが家や宿へ散っていく。
「わしらも準備した方がよさそうじゃな」
外套の中からセレスの声がした。
「そうだな」
「西へ抜けるのか?」
「とにかく、いったん町から離れよう。街道を外れてから考える」
俺たちは宿へ戻ると、荷物をまとめた。とは言え、もともとそれほど多くはない。
俺とセレスが町を出るだけなら難しくない。歩いてもいいし、町から離れてしまえば転移も使える。わざわざ人族軍へ近づく理由もない。
俺は追われている身だ。勇者だった俺の顔を知っている兵がいないとも限らない。もし、ここで見つかれば面倒だけでは済まされない。そのうえ、この町の人たちに人族だと知られるのも良くない。
荷物を背負ってもう一度外へ出ると、通りは西へ向かう人たちで混雑していた。
そこで、見覚えのある親子が目に入った。
昨日、門の前で水を受け取っていた二人だ。母親は背中に荷物を背負い、子供にも小さな袋を持たせている。まだ町へ来たばかりだというのに……。
少し先では、空いた建物へ運び込まれていた毛布が、今度は荷車に積み直されていた。毛布の束を抱えた男の横で、別の避難民がほどいたばかりの荷物をもう一度紐で縛っている。
「来たばかりなのに、また逃げるのか……」
小さく漏らすと、外套の中でセレスが動いた。
「戦の最中は、逃げた先が安全とは限らんよ」
セレスはそれだけ言うと、外套の中で黙った。
町の西側へ向かう列はすでにできていたが、進み方は想像以上に遅い。避難してきた者まで合わせれば、町にいる人数は普段よりずっと多い。荷車に乗れる人数にも限りがあるし、歩くのが遅い老人や怪我人もいる。
「間に合うか?」
近くで人を誘導していた男に聞くと、相手は一瞬だけ俺を見た。
「分からん。とにかく動ける者から出すしかない」
「動けない人は?」
男は、次に来た荷車へ向かって手を振った。
「そっちは二人乗れる! 怪我人を先に!」
男は、答えないまま怪我人の方へ向き直った。
俺もそれ以上は聞かなかった。
「アルト」
「分かってる。俺たちがここにいても仕方ない」
そう答えて歩き出したものの、数歩進んだところで後ろを振り返った。
人族軍が何をしに来るのかも分からない以上、ここに残る理由はない。
それでも、あの男が答えなかったことが引っかかっていた。
「人族の軍が来たからって、町を襲うとは限らないよな」
「そうじゃな」
セレスはすぐに答えた。
「この街道を通るだけかもしれんし、補給が目的かもしれん。わしにも分からん」
「だったら、みんな逃げなくても……」
「そう思えるのは、おぬしが人族だからじゃろう」
俺は答えず、西へ延びる人の列を見た。
勇者として戦っていた頃なら、人族軍が近くにいるだけで心強かった。
けれど、この町の人たちにとっては逆だ。
家を捨て、荷物を抱え、子供の手を引いて逃げなければならない相手が人族軍だった。
「……それでも、何をしに来たのか分からないうちから、人族軍を敵だとは思えない」
「誰もそう思えとは言っておらん」
「分かってる」
外套越しに、小さな前脚が胸元へ当たった。
町の西門が近づくにつれ、人の流れはさらに詰まっていた。荷車同士が道を譲り合い、歩く者はその間を抜けていく。
俺は列の端へ寄り、後ろを振り返った。
東の空には、まだ軍の姿は見えない。
そのとき、東門の方から馬が一頭駆けてきた。乗っていた男が速度を落とす前から叫んでいる。
「急げ! もう東の丘を越えたぞ!」
西門へ向かう列のあちこちから声が上がった。
「そんなに早いのかよ……」
最初に聞いた場所から考えれば、予想より速い。軍全体ではなく、先に出た部隊だけが近づいているのかもしれない。
列を急かす声があちこちから上がったが、歩く速さが急に変わるわけではない。
目の前で、年寄りの女が荷物を抱え直した。その隣では、まだ小さな子供を連れた男が空いた荷車を探して辺りを見回している。怪我人を乗せた車はもう西門を出ていた。
母親の腕の中で子供が泣き始めたが、あやす余裕もないのか、母親は何度も西門の向こうを見ていた。
「まだ、こんなに残ってるのか」
俺がそう言っても、セレスは何も返さなかった。
しばらくして、遠くから低い響きが重なってきた。耳を澄ますと、何頭もの馬が街道を駆ける蹄の音だった。
列の後ろにいた何人かも東を振り返る。
俺たちだけなら、今からでも逃げられる。
セレスを連れて西へ出て、町から離れたところで転移すればいい。
蹄の響きが、さっきより近い。
俺は西門へ向かう列の中で足を止め、東を振り返った。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!
「☆☆☆☆☆」からの評価やブックマークをしていただけると、今後の創作の大きな励みになります。




