第45話 見知らぬ少女
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ヴォイドと別れて山を下り始めてから、どれくらい歩いただろう。
岩ばかりだった斜面にも低い木が増え、吹きつける風も少しずつ弱くなっていた。もう山の中腹は過ぎたはずだが、日が落ちるまでに麓へ着くのは難しそうだ。
「セレス。さっきから当たってる」
左肩へ声をかけると、黒い頭がこちらを向いた。
「何がじゃ?」
「翼」
頬に触れていた翼の先を指で押し戻すと、セレスは嫌そうに身体を捻った。
「触るでない。くすぐったい」
「じゃあちゃんと畳んでくれよ」
「できればやっておるわ」
片方だけ動かそうとしたらしい翼が二枚とも開き、今度は耳にぶつかった。
「……全然できてないじゃないか」
「急にこんなに大きくなったものを、いきなり上手く扱えるか!」
言い分は分かるが、ずっと肩に乗せられている俺にも少しくらい文句を言わせてほしい。
空を見上げると、陽はもう山の稜線近くまで落ちていた。
「今日はこの辺で寝る場所を探すか」
「わしも賛成じゃ。さすがに腹も減った」
「肩に乗っているだけなのにな」
「うるさいわ!」
しばらく下ったところで、岩肌が浅く窪んでいる場所を見つけた。
背嚢を下ろして岩に腰を下ろすと、そのまましばらく立つ気になれなかった。
「アルト、飯」
「分かってるよ」
肩から降りたセレスだけは元気だった。
小さな火を起こし、残っていたパンを取り出す。一口かじって顔を上げると、セレスがこちらのパンをじっと見ていた。
「自分の分、もう食べただろ」
「おぬしの方が大きかった」
「同じくらいだって」
結局、端を少しちぎって渡すと、セレスは当然のように受け取った。
食べ終えたあと、セレスは火のそばで何度も場所を変えていた。片方の翼が岩に当たり、避けると今度は反対側が押しつぶされるらしい。
「貸してみろよ」
翼へ手を伸ばすと、前脚で指を払われた。
「だから触るでないと言っておろう」
「じゃあ、そのまま寝るのか?」
「今考えておる」
セレスが片方だけ持ち上げようとして、また二枚とも翼が開いた。
笑いそうになって口元を押さえると睨まれたので、何も言わず背嚢を岩壁との隙間へ挟み、畳んだ布も置いてやった。セレスはそこへ移動すると、翼の当たらない向きを探して身体を丸めた。
夜になると、山の空気は一気に冷えた。
火を小さくして横になると、セレスが外套の中へ入ってくる。翼が邪魔なのか何度も位置を変えた末、俺の腕のすぐ横で落ち着いた。
「そんなところにいると、寝返り打ったとき踏みつぶすぞ」
「そこは勇者の力でなんとかせよ」
「それ、勇者は関係なくないか?」
返事はない。もう寝るつもりらしい。
外套の端を少しだけセレスの方へ寄せる。
黝龍。
昼間、ヴォイドはこいつをそう呼んだ。名前がついたところで、セレスが何になったのか分からないことに変わりはない。
外套の中で丸くなっているセレスを一度見て、俺も目を閉じた。
◇
翌朝、すぐ横に何かいる気配で目が覚めた。
ぼんやりしたまま顔を向けると、最初に髪が見えた。その下には肩があり、腕がある。
知らない女の子が、俺のすぐ隣で寝ていた。
「……え?」
しかも服を着ていない。
一気に目が覚め、後ろへ身体を引いた拍子に背中を岩壁へぶつけた。
「いっ……!」
その音で少女が身じろぎする。
「ん……何じゃ、朝からうるさいのう」
聞き覚えのある声だった。
俺は慌てて顔をそらす。
「だ、誰だ!?」
「誰って……、わしじゃ」
「……は?」
横目で一瞬だけ確かめたが、どう見ても知らない顔だった。それでも、声も話し方も知っている。
「……セレス?」
「他に誰がおる」
そう答えながら起き上がろうとしたセレスの動きが止まった。岩へついた自分の手を見て、指を一本ずつ動かしている。
「……なんじゃ、これ」
もう片方の手、腕と確かめ、自分の身体へ視線を落とそうとした。
「待て!」
近くにあった外套をつかみ、そのままセレスへ放る。
「何をする!」
「とにかくそれ巻け!」
「なぜじゃ!」
「いいから!」
外套を押しつけられたセレスは、自分の身体を見てようやく事情を理解したらしい。慌てて引き寄せたものの、久しぶりの手が思うように動かないのか、端を何度か取り落とした。
「とにかく服を何とかしろ!」
「何とかってどうするのじゃ! わしは服など持っておらんぞ!」
「俺だって、お前が着られる服なんて持ってないよ!」
「役に立たんのう!」
「こんなこと想定して旅してる奴がいるか!」
顔を背けたまま外套の留め具の位置を教える。何度か手間取った末に留め具が留まったのを確かめ、ようやく振り向いた。
やっぱり知らない少女にしか見えない。魔王城で戦ったセレスは全身鎧に包まれていて、顔も知らなければ元の姿と比べようもなかった。
「……小さい」
セレスが自分の手や足を見回しながら呟いた。
「何が?」
「わしじゃ! 何でこんなにちんちくりんなのじゃ!」
「俺に言われても知らないよ」
「わしはもっとこう、ボンキュッボンのナイスバデーな美女じゃ!」
外套の上から両手で大げさな曲線を描こうとしたので、また顔をそらした。
「何じゃ、その反応は!」
「そう言われても、俺はお前の元の姿なんて知らないからな」
「なら今しっかり見ておけ!」
「ばっ! 何言ってんだよ。その格好で言うな!」
俺が言い終わる前に、セレスの身体が外套の中へ沈んだ。
「え?」
さっきまで少女がいた場所には外套だけが残り、その下でもぞもぞと何かが動いている。やがて隙間から、見慣れた黒い頭が出てきた。
「……戻った?」
「らしいのう」
俺はすぐにしゃがみ込んだ。
「痛いところはないか?」
「別にない。翼も……あるのう」
セレスは前脚を動かし、背中の翼も確かめる。それから自分の前脚を見下ろした。
「いったい何じゃったんじゃ……」
パンをかじりながら昨夜からのことを思い返してみても、姿が変わる直前の手がかりは何もなかった。
「お前、人の姿になる前に何かしたのか?」
「しておらんわ。わしとて、なぜこうなったのかは分からんのじゃ」
「魔法を使ったとか」
「寝ておったと言っておろうが」
「だよな……」
気になるとすれば、昨日ヴォイドに黝龍と名付けられたときのことだ。あのとき流れ込んだ魔力が関係しているのかもしれないが、今の俺たちには確かめる方法がない。
パンの包みを背嚢へ押し込みかけて、別の問題に気づいた。
「でも、それだと困るな」
「何がじゃ?」
「またいつ人になるか分からないってことだろ?」
セレスも黙った。
「……それもそうじゃな」
「町の中で急に変わったりしたら――」
「縁起でもないことを言うでない」
「いや、考えとかないと駄目だろ。それに服も――」
「それ以上言うな!」
「もういい。取りあえず出発するぞ」
◇
山を下るにつれて傾斜は緩くなり、岩ばかりだった足元にも土が増えてきた。低木の間を抜けるたびに木々の数も多くなり、昼前には見上げるほどの樹木が斜面を覆うようになっていた。
「ようやく山も終わりか」
「まだ少しあるぞ。じゃが、ここまで来れば麓も近いじゃろう」
肩の上のセレスが前方を覗き込む。
さらに下ると、斜面の先に深い森が見えてきた。山裾に沿って左右へ広がり、その向こうまではここからでは見通せない。
「あれを抜けるのか?」
「そうじゃな。この辺りまで来れば、もう魔族領に入っておるはずじゃ」
セレスに言われ、斜面の先を見直した。
「……もう?」
「何じゃ。看板でも立っておると思ったか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
前にここへ入ったときは仲間と魔王城を目指していたのに、今はその魔王を肩に乗せて同じ土地へ入ろうとしている。考えてみれば、随分と妙な話だ。
「アルト」
「ん?」
「耳」
セレスの視線が俺の横顔へ向いている。
「ああ……」
自分の耳に触れる。魔族の耳は俺たちより長く尖っているから、そこを見られれば人族だと気づかれるかもしれない。
「人気のあるところへ行く前に、どうにかした方がよさそうだな」
「そうじゃな。おぬしが勇者だと騒がれたら、わしまで巻き添えを食う」
「元魔王がそれ言うか?」
「勝手に元扱いするでない」
森の中へ目を向ける。
今のところ人影はなく、道らしいものも見当たらない。街や村がどこにあるのかも、ここからでは分からなかった。
「とりあえず、この森を抜けてから考えるか」
「それまでに人に会わなければよいがな」
「そういうこと言うな」
俺はそのまま森へ足を踏み入れた。
山の斜面とは違い、地面には厚く落ち葉が積もっている。頭上では木々の枝が重なり、数歩進んだだけで背後の山は見えなくなった。
「随分深そうだな」
「この辺りは昔から森が多い。と言っても、わしも詳しく知っておるわけではないぞ」
「魔王なのに?」
「魔王なら魔族領の森を隅から隅まで知っておるとでも思うたか?」
「ちょっとくらい期待した」
「勝手に期待するでない」
言いながら足元の枝を跨ぐ。
そのとき、少し離れたところで何かが折れる音がした。
足を止めると、セレスも同時に顔を上げた。風はほとんどない。
もう一度、今度はさっきより近いところで枝が鳴った。
「……アルト」
「ああ」
俺は森の奥へ目を向けた。
木々の間で何かが動いた。
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