第43話 黯龍ヴォイド
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「人族の勇者が、魔王を連れているとはな」
頭上から続いた声に、セレスが肩の上で身を乗り出した。落ちないように手を添える俺をよそに、声のした岩陰へ首を伸ばしている。
「な!? わかるのか?」
「それくらいはな。原初の龍だからな」
逃げるならさっき通った岩場へ戻ろうと、足場を探していた俺も声のした方を振り仰いだ。肩の爪がぎゅっと食い込み、セレスが俺の耳元で息を呑む。
「原初の龍? ということは、おぬしが黒龍ヴォイドか」
張り出した岩の陰から、黒い首がゆっくりと現れた。低く伏せていた頭を持ち上げると、その下で前脚が動き、岩の縁に長い爪が並ぶ。奥にある胴は影に隠れ、どこまで続いているのか見えなかった。
「そう呼ばれているらしいな。我が名は黯龍ヴォイド」
見上げたまま、柄にかけていた手を離す。
黒龍ヴォイドに出会っても、戦おうとは考えるな。勇者として教えられた言葉が頭に浮かんだ。セレスを倒すために散々剣を振らされた俺でも、黒龍についてだけは、どう勝つかなんて一度も教えられていない。ただ、戦いを挑むな。それだけだった。
肩の上でセレスが、小さく「黯龍」と繰り返した。知っていたのかと目を向けても、あいつも戸惑った顔で俺を見るばかりだ。
山の冷たい風が外套を膨らませ、裾が膝の裏を打った。気づけば、さっきまで外套を叩いていた風の音まで聞こえなくなっていた。
顎を引いて息を整えようとすると、ヴォイドがこちらを覗き込むように頭を下げた。思わず足に力が入った俺の前で、その大きな頭が止まる。
「それで、何用だ」
セレスと目を合わせても、代わりに答えてはくれない。俺は乾いた喉を一度鳴らしてから、山の向こうを示した。
「魔族領へ行くところなんだ。街道を通れないから、山を越えようと思って」
「勇者が、魔族領へ?」
「……今は、人族に追われてる」
そう答えても、ヴォイドは続きを待っているようだった。俺はヴォイドを見て言った。
「魔王を倒せば戦争は終わるって教わってきた。でも、終わってない。俺は魔族のことも、魔王のことも、ほとんど知らないまま戦ってた。だから今度は、自分で確かめたいんだ」
言い終えてから肩のセレスへ目をやったが、あいつは何も言わなかった。ヴォイドは俺の顔から、その小さな身体へ目を移す。
「それで、魔王と連れ立っておるのか」
「それが理由というわけではないがの。わしも帰りたいのでな。こやつには、もうしばらく付き合ってもらう」
まるで俺の方が連れていかれるみたいな言い方だが、向こうへ着いたら、実際にそうなるんだろう。その言い方には文句をつけたかったが、それより肩に食い込む爪の方が痛かった。
「セレス、痛い」
「む」
爪が少し緩んだので、俺は外套を引き直した。平気そうな声を出しているくせに、尻尾はまだ俺の首に回ったままだ。
「お前が黒龍の話なんかするから」
声を落として言うと、セレスは俺の耳元へ顔を寄せた。
「それを言うなら、おぬしも出るかもしれんと言うておったじゃろう」
言い返そうとしたところで、ヴォイドの目が細められた。聞こえていたのか。反射的に背筋を伸ばしたが、ヴォイドの目は俺ではなく、肩のセレスへ向いていた。
「おぬしの身体をなす魔力……気になるな」
セレスは片方の前脚を持ち上げ、黒い鱗を見つめたが、すぐに顔を上げた。
「この身体が何なのか、分かるのか?」
「うむ。もう少し近くまで来てくれるか」
ヴォイドがそう言うと、セレスが今にも肩から飛び降りそうに身を乗り出したので、俺は掌を差し出した。すると、セレスはすぐに乗り移り、指の付け根に前脚をかけた。俺はヴォイドへ腕を伸ばす。
「わしは元からこの姿だったわけではない。魔族じゃ。死ぬ前に転生の秘術を使ったのだが……」
そこで口を閉じたセレスの背中を見て、俺は添えていた手の位置を変えた。俺も黙って聞いているわけにはいかなかった。
「術の途中で、俺が斬ったんだ」
声に出すと、鎧越しに刃が食い込んだ感触まで戻ってくる。あの広間で魔法陣が広がったとき、何をする気なのかも確かめずに剣を振り抜いた。止めなければ、次に死ぬのはこちらだと思っていた。
セレスが振り向いたので、俺は途中で逸らしかけた目を戻した。
「術が終わる前に、身体がもたなんだのじゃ。気づいたときには、この姿になっておった」
セレスは一度だけ俺を見ると、すぐヴォイドへ向き直った。
「元の力もほとんど使えぬ。こやつの方へ移ってしまってな」
「勇者へ?」
俺が頷くと、ヴォイドは少し顔を寄せた。支えている腕を引きそうになり、肘を固めて踏みとどまる。
「セレスが倒れたあと、いきなり魔力が入ってきたんだ。押し返そうとしても駄目で、そのまま気を失った。俺にも、何が起きたのかは……」
岩場から岩場へ跳ぶたびに使ってきた魔力なのに、どうして俺のものになったのかも答えられず、差し出した手へ視線が落ちた。
ヴォイドはしばらく黙っていたが、やがてセレスへ視線を戻した。
「転生の秘術か。あれには、我の魔力が使われている」
死ぬ前に別の器へ逃げる術だとは聞いていたが、黒龍の力を使っていたのか。
「おぬしの魔力を?」
「うむ。もっとも、我が与えた覚えはないがな」
思わず腕を引くと、セレスが俺の親指にしがみついた。
「アルト、動かすでない」
「ああ、悪い」
空いていた手を下へ添え直す。セレスは足場を確かめるように一度踏み、それからヴォイドを見据えた。
「では、この姿になったのも、その力を使ったせいなのか? 少なくとも、こんな姿になる術ではなかったはずじゃ」
「その身体……我の魔力で形づくられておるな」
「と言うことは、黒龍の魔力で創られた身体と言うことか?」
セレスが勢いよくヴォルドに尋ねる。
「そうだな。我の魔力であるのは確かだ。だが、我は創った覚えはない」
腹が減れば俺の食べ物を欲しがるし、眠くなれば肩で寝る。その身体が魔力でできているなんて、考えたこともなかった。俺の手に触れている腹や脚まで急に頼りなく思えて、支える指を寄せる。
「ちょっと待ってくれ。魔力でできてるって……セレスの身体は、大丈夫なのか」
ヴォイドが俺を見たので、うまく言えなかった言葉を探した。
「この前から背中も変わってるだろ。まだ何か起きるのか?」
手の中でセレスが首をひねる。呆れられるかと思ったが、あいつは何も言わずにヴォイドの返事を待った。
「術を見たわけではないからな。もう少し、よく見せてみよ。妙なものが混じっている」
セレスが俺の指先へ進みかけたので、両手を寄せて場所を作った。小さな身体を受け止めるつもりが、指を丸めすぎたらしく、セレスが俺を振り向いた。
「今の身体のことを聞きたいだけじゃ。そう固くなるでない」
言いながら、セレスは邪魔な指を押しのける。
「お前が乗り出すからだろ。落としたら文句を言うくせに」
「それは言うな」
いつもの調子で返されて、ようやく息を吐けた。けれど、セレスはもうこちらを見ていなかった。
ヴォイドの顔には、鱗の間に走る細い溝まで見える。顔を近づけて見られているだけなのに、足の裏が岩に貼りついたようで、半歩下がることさえためらわれた。顎から落ちた汗が手の甲に当たっても、拭うわけにはいかない。
セレスは前脚を揃え、じっとしている。普段なら、まだかと急かすくらいはするだろうに、目の前の龍を見上げたまま、口を結んでいた。
やがてヴォイドがわずかに頭を傾けると、セレスの尻尾が俺の手の縁を叩いた。
「で、何が混じっておる?」
俺も口を開きかけると、ヴォイドが不意に鼻先を引いた。
「これは……」
聞き返しかけたセレスが口をつぐみ、俺も息を潜めた。ヴォイドは何事か考えてから、独り言のように呟く。
「……珀龍の力まで混じっているな」
聞き覚えのある名が出て、俺は手の上のセレスを見下ろした。
「はくりゅう……白龍のことか? セレス、お前、知ってたのか?」
「知らぬ。わしは転生の術を使っただけじゃ。白龍など……」
セレスは胸元の鱗を前脚で押さえたが、すぐに顔を上げた。俺の指にかかる爪に力が入り、その痛みに声を上げそうになって、どうにかこらえる。
ヴォイドがわずかに目を細める。
「ネビュラめ……どういうつもりだ」
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