第42話 黒龍の山
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「分かった。お前にも沢の音は聞こえてないんだな?」
先の岩場へ向けていた目を戻すと、セレスは俺の顔のすぐ横でうなずいた。
「うむ。水はあれほど流れておるのにのう」
岩の縁へ寄ると、すぐ下で沢の水が白く砕けていた。あれだけの飛沫が上がっているのに音がしないのはおかしい。俺は縁から離れて、下の斜面を振り返った。木々の切れ目には、さっき通った岩場が見えている。
「いったん戻ろう。あそこでは聞こえてたよな」
セレスが背嚢の肩紐をつかんだのを確かめ、元の岩場へ跳び戻る。足が着くなり谷底から水音が聞こえてきて、思わず大きく息を吐いた。
「……やっぱり。ここなら聞こえるな」
セレスも顔を上げ、今しがた離れた岩場を見ていた。俺はそちらへ向けていた身体を少しずらしてみたが、水音は聞こえたままだった。
「風のせいだったのかな。音が向こうへ流されてたとか」
谷から吹いてくる風が髪を乱し、俺は額に張りついた毛を指で払った。さっきの場所で、風がどちらへ吹いていたかまでは覚えていない。
「それにしても、向こうの方が水には近かったぞ」
セレスは肩から首を伸ばして沢を見下ろすと、俺の方へ顔を向けた。
「おぬしが砂利を踏む音まで聞こえておったのに、水音だけ聞こえんとはな」
「ああ。それで気づいたんだ。急に自分の足元の音がよく聞こえて」
あの岩場の脇では、沢が段差を落ちて白く砕けている。木や岩に遮られていたわけでもないし、ここより静かになるとは思えなかった。
「誰かが魔法でも使ってるのかな」
口にしてから、俺は岩場の周りを見回した。木の陰や向かいの斜面にも人影はないが、姿を見せずにこちらを窺っている奴がいたらと思うと、落ち着かない。
「だとしたら、何のためじゃ?」
「それは……分からないけど」
自分の足音を消すならともかく、沢の音だけ消して何になるんだろう。俺たちを狙っているなら、黙ってあの音に紛れていた方がよさそうだ。
「黒龍ヴォイドは、静寂をもたらすとも言われておるな」
思わず尾根へ目を向けてから、俺はセレスへ顔を戻した。
「そういうことを言うと、出るかもしれないだろ」
声を落として返した俺をよそに、セレスはまた山の上を見ている。俺もついそちらを確かめてしまい、岩の間の暗がりが目についた。あんなところにも隙間があったのかと覗いたが、ここからでは奥まで見えない。
「……本当に、黒龍のせいだと思うか?」
「分からん。ただ、この山におるのは確実じゃからな」
俺は背嚢の肩紐を握り直し、登るつもりだった斜面から目を離した。
「沢沿いはやめよう。あっちから回れないか?」
右手の斜面には草地が続いていた。途中で岩に遮られているものの、少し下へ出れば、その裏を通れそうだ。
セレスは首を伸ばしてしばらく眺め、俺の肩を軽くつついた。
「あの木の脇まで下りれば、先が見えそうじゃな」
◇
草地へ跳ぶと、靴が柔らかい土へ沈んだ。踏み直して身体を支えたところで、肩の服が後ろへ引かれる。
「セレス。つかまるのはいいけど、服、破れるぞ」
「おぬしこそ、肩に力が入りすぎじゃ」
言われて肩を下げようとしたら、首の脇までこわばっていた。セレスが乗っていない方の肩だけ回すと、背嚢がずれて、ずいぶん重く感じた。
「お前があんなこと言うからだろ」
「聞いた話を言っただけじゃ。黙っておった方がよかったか?」
返す言葉を探しながら、背嚢を持ち上げて背負い直した。あとから聞かされるのも、それはそれで文句を言った気がする。
「……次は、もうちょっと早く言ってくれ」
セレスは何も言わず、服をつかむ力を少しだけ弱めた。
木の脇まで下りると、大岩の裏には歩ける幅があった。腰ほどの高さまで伸びた草を手で分け、岩肌に沿って回り込む。葉についた水が指へ移り、思ったより冷たくて外套の端で拭った。
大岩の裏から出ると、靴に絡む草が途切れ、ようやく歩きやすくなった。隣の尾根へ向かって登れそうだが、上を振り返ると、先ほどの岩場がやけに高いところに見える。
「せっかくあそこまで登ったのにな」
「言い出したのはおぬしじゃぞ」
「分かってるよ。ちょっと言ってみただけだろ」
向こうの岩場に立つ場所を定め、セレスにつかまるよう告げて跳んだ。二度目に降り立った岩場は風が強く、外套を押さえても、開いた胸元から冷たい空気が入り込んできた。
「うわ、寒っ」
セレスが俺の襟元へ顔を埋めるので、顎に鱗が当たった。くすぐったさに首を引くと、今度は顎の下を鼻先で押される。
「おぬし、襟をもう少し立ててくれんか」
「俺も風を防ぎたいんだけど」
そう言いながら留め具を締め直し、セレスのいる左側を少し立ててやった。尻尾まで襟の内側へ押し込もうとするので、落ちないよう指を添える。
「入れるか?」
「……無理そうじゃな」
セレスが身体を戻すまで待ち、風に背を向けた。肩の上でようやく落ち着いたらしく、爪が服をつかみ直す。
「このくらいでよい。助かった」
「じゃあ、しばらくその向きでいてくれ。何度も動かれると気になるからな」
鼻先が頬に触れたと思ったら、セレスが目を細めて俺を見ていた。
「落ちんよ」
「分かってる」
添えていた手をどけて背嚢を担ぎ直すと、セレスは襟の縁に前脚を掛け、顔だけ外へ出した。岩の陰を選んで進むと、先には上へ張り出した足場が見えた。
斜面から突き出た岩に手を掛け、片足を載せて身体を引き上げる。上から吹きつける風が外套の裾をはためかせ、岩に腹を寄せたまま、セレスがつかまっているのを確かめる。
「あと少しじゃ。右に足を置けるところがあるぞ」
爪先で窪みを捉えて踏ん張ると、顔が岩の上へ出た。眼下には、木々の茂る谷が深く落ち込んでいる。俺は両足を載せられるところまで這い上がり、膝の土を払いながら立ち上がった。
「ふう……。ここなら、谷の先までよく見えるな」
冷えた指を握り開きしながら谷へ目をやると、さっきまで頭上にあった木々が斜面の下に広がっていた。セレスも襟から首を出し、俺の頬の横で鼻先を動かしている。
「さっきの沢は、どの辺りじゃ?」
俺は木々の切れ目を探したが、途中で幾つもの岩を回り込んだせいで、水の流れは見えなくなっていた。
「あの木の向こうだと思う。もう、かなり離れたよ」
セレスはしばらくその辺りを見てから、前方の尾根へ向き直った。俺も同じ方へ目をやったが、途中の岩の隙間が気になり、奥に何もいないのを確かめてしまう。
「アルト。もう少し上じゃ」
「ああ、見えた」
尾根へ続く斜面に、平らな岩場が張り出していた。その手前にも木の根元に立てるところがあり、一度そちらへ出れば先の足場を確かめられそうだ。
あの尾根を越えれば、向こうは魔族領だ。できれば上から、どこまで下りられそうか見ておきたい。
「まず、あの木の脇へ行こう。つかまってろ」
セレスが服をつかみ直し、俺も風に膨らむ外套を押さえた。木の根元の、土が露出している場所へ目を据える。
「そこの者、待て」
俺は魔力を動かすのをやめ、声のした方へ身体を向けた。すぐ近くで呼ばれたように聞こえたのに、岩の上にも、脇の斜面にも誰もいない。
「誰だ?」
剣の柄へ右手を掛け、岩陰にも目を走らせた。さっき確かめた隙間には、向こう側から薄く光が差しているだけだ。
左肩でセレスが動き、俺はそちらへ手を添えた。顔を覗こうとしたが、セレスは俺の手の上に前脚を載せ、じっと前を見ている。
もう一度声を掛けようと口を開くと、それより先に返事があった。
「珍しい来訪者だな」
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