第41話 アルヴァレス山脈
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山の麓へ入ると、踏み跡はすぐに細くなった。木の根をまたぎ、肩へ伸びてきた枝を払いながら進んでいると、セレスが首の横へ顔を寄せてくる。
「さっきから、顔に葉が当たるんじゃが」
「少し引っ込んでろよ。俺にも当たってるんだから」
セレスはぶつぶつ言いながら背嚢の肩紐へ下がったが、木々が途切れると、また首を伸ばした。前を見たいのは分かるものの、俺が顔を向けるたびに鼻先へぶつかりそうになる。
次の枝を手で押さえてくぐると、木々の切れ目から岩肌の露出した場所が見えた。上は平らで、低い草が風に揺れている。
木の根に片足を掛けて覗くと、手前の枝に隠れていた端まで見えた。あの草の脇に立つことにして、セレスを左肩へ戻す。
「つかまってろ。上へ跳ぶぞ」
セレスの爪が服をつかんだところで、岩場に立つ自分を思い浮かべた。魔力を動かした直後には岩場の上に立っていて、下には、さっきまで頭上を覆っていた木々が広がっている。
セレスが肩から身を乗り出したので、落ちないよう手を添えた。
「おお。よく見えるのう」
「まだ途中だからな」
「分かっておる。少しくらい眺めてもよかろう」
俺も下へ目を向けた。辿ってきた踏み跡は枝葉に埋もれ、どこを歩いていたのか分からない。林の向こうには畑や街道も見えたが、ここから人影までは見分けられなかった。
背嚢のずれを直しているうちに、セレスはもう上の斜面を眺めている。
「あの岩の上なら、先まで見渡せそうじゃ」
指した先には、斜面から突き出すように大岩があった。脇の低木が大きく揺れているのが気になったが、立てる場所は広い。
「風が強そうだけどな」
「少しくらい吹かれたところで、転がり落ちたりはせん」
そこへ跳んだ途端、強い風が吹きつけ、外套が大きくあおられた。裾を押さえて顔を上げると、谷の奥から吹き上げてくる風に髪まで乱される。セレスは俺の首に身体を寄せ、さっきよりずっと低く伏せていた。
「景色はどうだ?」
セレスの尻尾が、外套の襟へ潜り込んだ。
「……向こうの陰へ行かんか」
「もういいのかよ」
返事の代わりに肩をつつかれ、俺は笑いながら岩の裏へ回った。風を避けられる場所まで来て、ようやく外套の裾を押さえていた手を離す。
そこからは、谷を挟んだ斜面に幾つか足場を見つけられた。草の生えた平地へ跳び、少し歩いて次の岩場へ出る。腰の高さほどある段差はよじ登ったが、切り立った崖を下りて登り直すようなことはなかった。
正面の尾根さえなかなか近づいてこない。魔族領へ抜けるにはまだ先が長そうだ。上へ出るたびに、下からは見えなかった斜面がその先へと続いていた。
「山って、上から見ると余計に大きく見えないか?」
俺が言うと、セレスもしばらく上を眺めてから、足元の谷へ目を戻した。
「越えるつもりで見るからじゃろ。眺めるだけなら、なかなかよいぞ」
「お前、本当に眺めてるだけだもんな」
「次の足場も探しておるわ」
俺は向かいの斜面にある岩棚を指差す。少し上にあるその場所は、先にも歩けそうな幅の岩場が続いていた。あそこまで出れば、しばらくは尾根に沿って進めそうだ。
跳んだ先で、靴の脇を小石が転がった。
上を向くと、頭上の斜面を幾つもの石が跳ねている。さらに奥で岩が擦れ、土ごと剝がれた大きな塊がこちらへ落ちてきた。
「まずい! セレス、つかまれ!」
俺はセレスをかばって左肩へ手を添え、谷側へ身体をひねった。さっきまでいた岩場が目に入るなり、そこへ跳び戻る。
足が岩を踏むのとほとんど同時に、背後で凄まじい音が響いた。振り返ると、さっきまで立っていた岩棚が土煙に包まれ、大きな岩が縁を越えて木々をなぎ倒しながら落ちていく。
「……危なかった」
大きく息を吐いたが、セレスをかばう手にはまだ力が入っていた。
「アルト。何も見えん」
「ああ、悪い。大丈夫か?」
手をどけると、セレスが俺を見上げた。
「わしは何ともない。おぬしは?」
「俺も平気だよ」
セレスは俺の手を一度見てから、崩れた斜面へ顔を向けた。まだ落ちてくる小石があり、木にぶつかるたびに枝葉が揺れている。少し待ったが、まだ上の方では時折土がこぼれていた。
「あそこはやめておくか」
「そうじゃな。右へ回れそうじゃぞ」
そう言われ、右を見ると、少し下に草の生えた斜面が続いていた。そっちから登り直すことにして、俺は谷を見下ろす縁から離れた。
◇
崩れた斜面を離れ、沢へ続く谷の上に出たところで休むことにした。風を遮る岩があり、その脇なら荷物を広げても問題なさそうだった。
セレスを岩の上へ下ろし、俺は背嚢を足元へ置く。背中を向けて歩き出したセレスは、荷物を開ける音を聞くなり戻って来た。
「もう腹が減ったのか?」
「おぬしが出すからじゃ。何か食うのじゃろ?」
岩の端へ行っていたくせに、食料を包んだ布を広げる頃には、俺の膝の横に座り込んでいる。パンをちぎって前へ置き、コップに水を少し注いでやった。
「いいよな。ずっと俺に乗ってきて、飯まで出てくるんだから」
「助かっておるぞ」
セレスはパンをくわえたが、すぐに下へ置いた。
「もう少し小さくできんか」
「注文が多いな」
差し出した手の上へ、鼻先でパンを押してくる。仕方なく幾つかに分けて返すと、今度は文句を言わずに食べ始めた。
俺も岩へ背中を預け、足を伸ばした。外套の留め具を緩めながら谷の向こうへ目をやると、木々の間に街が見えた。
随分小さく見えるが、あれがアルディアだろう。
孤児院のある辺りを探してみたが、遠すぎて見当もつかなかった。
あの兵たちは、今日も街を回っているんだろうか。
「それ、食わんのなら寄越せ」
街へ向けていた目を戻すと、セレスが俺の手を見ていた。
「食べるよ。お前の分はもう渡しただろ」
持ったままになっていたパンを、口元へ運ぶ。
「いつまで持っておるのかと思ってな」
セレスは自分のパンへ顔を戻した。俺も一口かじったが、思ったよりぱさぱさで、噛んでいるうちに口の中が乾いてくる。
「……み、水」
飲み込もうとして喉につかえ、俺は慌てて水袋をつかんだ。
ようやく喉を通したところで、セレスがこちらを見上げた。
「おぬしの方も、小さくしてやろうか」
「うるさい」
そう言ったものの、またすぐに喉へ引っかかりそうになり、俺はもう一口、水を飲んだ。セレスは涼しい顔で、俺が分けた最後の欠片を食べていた。
残りのパンをしまい、しばらくぼおっとそのまま座っていた。谷の下から水の音が聞こえてくる。岩の切れ目を流れる沢が、木々の隙間から見えた。
「次はあっちを通ろう。水も補給できそうだ」
「さっきの斜面よりはよさそうじゃな」
荷物をまとめて立ち上がると、セレスが器用に肩まで登ってきた。
◇
沢の近くまで下りると、岩の間から流れ出す水を水袋に入れる。指にかかる冷たい水が妙に心地よかった。セレスはしぶきが掛からない場所まで下がり、俺が栓を閉めるのを待っていた。
ここからは沢に沿って登れそうだった。向こう岸の乾いた岩場へ跳び、斜面を横切るように進む。沢は岩の段差を落ちるたびに白く砕け、下から聞こえる水音も大きくなっていった。
岩壁が左側から張り出し、横向きでなければ通れそうになかった。岩に手を添えて足を運ぶと、靴の縁から砂利がこぼれ、すぐ下の沢へ落ちていく。
「セレス、少し右へ移ってくれ。そこだと岩にぶつかる」
首の後ろを爪がかすめ、俺はくすぐったさに顎を引いた。セレスが右肩へ移り終えるまで待ち、冷たい岩肌に身体を寄せる。
「よいぞ。もう当たらん」
岩の角を回ると、沢の向こうに広い岩場が見えた。そこへ跳んで両足を踏みしめ、ようやく背筋を伸ばす。
「ふう。やっとまともに立てるな」
セレスも左肩へ戻り、伏せていた身体を起こした。外套についた砂を払って顔を上げると、枝葉の向こう、尾根の近くに岩が張り出している。
「あそこまで出てみよう。向こう側が見えるかもしれない」
足を踏み替えたとき、砂利を擦る音がはっきり聞こえた。俺はもう一度足元を見てから、沢へ目を向ける。
「……あれ?」
気づくとさっきまで耳についていた水音がしない。岩場の縁まで寄って下を覗いたが、水は変わらず流れ、岩へぶつかって白く泡立っていた。飛沫まで見える距離なのに、音だけが聞こえない。
「セレス。川の音、聞こえるか?」
肩の上で爪が服をつかんだ。セレスも沢を見下ろしていたが、やがて顔を上げ、俺が指した岩場へ目を向ける。
「……アルト。先へ跳ぶのは待て」
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