第30話 勇者の街
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転移の練習を始めてから五日目の午後、森を抜けた先の丘から、ようやくアルディアの街並みが見えた。
ここまでの間、街道を避けて森や野原を進み、川や谷は転移で越えた。見晴らしのいい場所では転移で距離を稼ぐこともあった。見えている場所へ跳ぶだけなら、もう立ち止まって考え込むこともない。それでもアルディアまでの道のりは長く、町や宿を使えない分、夜はずっと野営だった。
肩に乗っていたセレスが、俺の顔の横から街を眺める。
「あれがアルディアか」
「ああ」
「随分と家が多いのう」
「前はあそこまで家はなかったんだけどな」
街の手前に広がる一角を指す。俺が暮らしていた頃は畑だった場所にも屋根が並び、その向こうには見覚えのない建物がいくつも増えている。一方で、街の奥に残る古い建物や、そこから続く屋根の並びには覚えがあった。
まずは街へ入る人の流れを確かめようと、丘を下りながら門の見える場所まで近づいた。
橋で聞いた話は本当だったらしい。門の前には何人もの兵が立ち、入ってくる旅人を一人ずつ止めている。荷車の脇では、兵が男の顔と手元の紙を見比べていた。別の兵は旅人に帽子を取らせ、後ろに並ぶ者にも顔を上げるよう言っている。
「あれでは普通に入るのは無理じゃな」
「だな」
俺は周囲に誰もいないことを確かめ、声を落とした。
「セレス。悪いけど、ここでは隠れていてくれ」
「わしまでか?」
「できるだけ目立ちたくないんだ」
「まあ、そうじゃろうな」
セレスは肩から降りると、外套の内側へ潜り込んだ。
門から離れ、街の外を回る。しばらく進むと、少し高くなった場所から街外れの一角が見えた。建物の裏に小さな空き地があり、積まれた木箱のそばにも人はいない。
外套の中からセレスが顔だけを出した。
「あそこなら跳べるのではないか?」
「そうだな」
しばらく空き地の様子を見て、人が来ないのを確かめてから、その場所へ意識を向けた。
次に足をついたときには、木箱がすぐ横にあった。
そのまま建物の陰へ入り、表の通りを覗く。
人の多い通りは避け、人通りの少ない道を選んで歩いた。すれ違う相手がこちらを見るたび、顔を覚えられたのではないか、この街で俺を知っていた人間ではないかと考えてしまう。
店が入れ替わっているところもあれば、細かった道が広くなっているところもある。
大通りの向こうには、昔からあった店の看板も見えた。寄って確かめたい気持ちはあったが、今は近づけない。
それでも、子供の頃に使っていた裏道は残っていた。
通りを二つ越えたところで、掲示板の前に何人か集まっているのが見えた。
一番上には、新しい手配書が貼られていた。
紙の上半分には、若い男の顔が大きく描かれている。線は粗いし、細かいところはあまり似ていない。それでも、黒い髪とその顔を見れば、自分の人相書きだと分かる。
その下には、大きな文字で名前があった。
元勇者アルト。
似たような手配書は、王都を離れてから何度も見ている。
その前で、荷物を抱えた男が隣の老人に話しかけていた。
「本当に、魔王が勇者様の身体を奪ったんですかね」
「王都からのお達しにはそう書いてあるんだろ。だったら、そうなんじゃないか」
「でも、勇者様って、この街にいたんでしょう?」
老人が少し得意そうに頷く。
「ああ。孤児院の子だった。勇者だって分かったときは、そりゃあ大騒ぎだったぞ」
「そんなに騒ぎになったんですか?」
「そりゃ、すげえなんてもんじゃなかったぜ。なあ!」
少し離れたところにいた年配の男が振り向く。
「ああ。勇者だって分かった日は、街中その話でもちきりだったからな」
「子供の頃から強かったんですか?」
「私、森に出た魔物を一人で倒したって聞いたことあるわよ」
「それだけじゃないぞ。川に落ちた子供を助けたって話もあっただろ」
「商人の馬車が魔物に襲われたとき、剣一本で追い払ったとも聞いたな」
魔物を一人で倒した? 商人の馬車を守った? そんなことをした覚えはない。
老人が眉を寄せる。
「おいおい。そんな話、俺は知らんぞ」
「でも、みんなそう言ってたわよ」
「話なんて、広がるうちに変わるもんだ」
男が笑った。
「じゃあ、もっとすごい話もありそうですね」
「探せばいくらでも出てくるんじゃないか」
周りの何人かも笑っている。
自分の子供の頃の話なのに、知らない話が混ざっている。いつの間に、こんな話になったんだろう。
老人が掲示板へ目を戻した。
「それにしても、魔王を倒した直後に身体を奪われるとはな。あの子も気の毒なもんだ」
「じゃあ、本当の勇者様はどうなったんです?」
「さあな。でも身体を取られたっていうなら……もう、勇者様はおらんのだろう」
さっきまで笑っていた男も、今度は何も言わなかった。
俺は人の少ない路地へ入り、掲示板から離れた。
外套の隙間からセレスが顔を出す。
「随分と立派な幼少期だったようじゃな」
「やってないからな。魔物なんて追い払ってないし、倒してなんかない」
「川に落ちた子供を助けたのは?」
「それは……」
セレスが外套の隙間から俺を見上げる。
「覚えがあるのか?」
「一回だけな。川で遊んでた子が流されて、それを引っ張り上げたことはある」
「では、それは本当ではないか」
「でも、別に大したことじゃないよ」
「勇者ともなると、知らぬ間に昔まで立派になるのじゃな」
「嬉しくないけどな」
セレスが小さく笑ったので、外套の上から軽く押さえる。
「あんまり喋るな」
「分かっておるわ」
向こうから話し声が聞こえると、セレスはまた外套の中へ引っ込んだ。
あの人たちは、俺を悪く言っていたわけじゃない。王都からそう聞かされているなら、信じるのも無理はない。
昔なら、この辺りで人の目を避けながら歩くなんて考えもしなかった。知っている顔を見つければ声をかけていたし、向こうから呼ばれれば立ち止まった。
裏道を抜け、古い井戸のある角を曲がる。井戸は新しい石で組み直されていたが、その先の細い道は昔のままだった。
この道を真っ直ぐ行けば孤児院がある。
孤児院に近づくにつれ、塀の低い家や大きく枝を張った木、道脇の石垣など、昔のまま残っているものが増えていった。
道の向こうから子供が二人走ってきたので、俺は顔を伏せて脇へ避けた。二人は俺を見ることもなく通り過ぎ、そのまま角の向こうへ消えていく。
やがて、道の先に見覚えのある塀が現れた。
建物は昔より少しくたびれて見えた。屋根の一部は新しくなっているし、門も俺がいた頃とは違う。それでも、間違えるはずがない。
孤児院だ。
「セレス」
「何じゃ?」
「あそこだ」
セレスが外套から顔だけを出し、しばらく孤児院を眺める。
「……思ったより小さいのう」
「そうか?」
「もっと大きいと思っておった」
少し離れたところから周囲を見たが、兵の姿はなかった。
門の向こうから子供たちの声が聞こえてくる。
俺は門の前まで行った。
当時からいる人が残っていれば、あの頃のことを聞ける。その代わり、向こうも俺の顔を覚えているはずだ。
門に手をかけたところで、後ろから声がした。
「アルト?」
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