第29話 小さな変化
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一瞬だけ足元の感覚が消え、次に地面を踏んだときには、さっきまで遠くに見えていた大木が目の前に立っていた。丘の上を抜ける風に枝葉が揺れ、その音まで聞こえる。
「……できた」
肩の上でセレスが首を伸ばし、俺たちがいた場所を振り返る。
「何じゃ。普通に跳べるではないか」
「俺もそう思った」
川を渡ったときより、かなり距離があった。魔力を使った感覚にも余裕がある。
これならもっと先へ行けるかもしれない。
俺は丘の向こうへ目を凝らした。森の切れ目の先に、岩肌の露出した小さな崖が見える。
「あそこはどうだ?」
「待て」
跳ぼうとしたところで、セレスに止められた。
「今度は見えん場所へ跳んでみるか」
「え? 見えない場所にも跳べるのか?」
「何を驚いておる。転移先が見えておる必要などないぞ」
セレスが俺の顔を覗き込む。
「……アルト。お前、今までどうやって転移先を決めておった?」
「どうって……行きたいところを見て、そこに跳ぶ感じで」
セレスが俺の顔を見上げた。
「それじゃな」
「何が?」
「お前が最初にろくに転移できんかった理由じゃよ」
最初というのは、王城から逃げたときのことだろう。
あのとき思い浮かべたのは、王都へ来る途中で通った街道だった。ただ、街道のどこへ出るのかまでは考えていなかった。
「転移は、目で見た場所へ跳ぶ魔法ではない。どこへ跳ぶのかを頭の中で定め、そこへ向けて魔力を練るのじゃ」
「でも、今はちゃんと跳べたぞ」
「目の前にある場所なら、頭の中で思い浮かべるまでもないからの。お前は見えている場所を、そのまま転移先にしておったのじゃろう」
言われてみれば、その通りだった。
兵から逃げたときも、森の中で転移を使ったときも、先に目で逃げ場所を探していた。転移先を決めてから見るのではなく、見つけた場所へ跳んでいた。
「最初のときは、街道のどこに出るかまで考えてなかった」
「それじゃろうな。行き先が曖昧だったから、途中で術が切れたんじゃろ」
「それで、王城のすぐそばだったのか」
「おそらくな」
「セレスは見えない場所にも跳べたのか?」
「当然じゃ。何度も行ったことのある場所なら、いちいち見えておる必要はない。もっとも、距離が伸びればそれだけ魔力も要るがな」
「どのくらい遠くまで?」
「その時の魔力量次第じゃよ。今のお前なら、相当な距離でも届くと思うがの」
相当な距離と聞いて、真っ先に浮かんだのはアルディアだった。
「だったら、アルディアまで跳べないのか?」
「お前が今のアルディアをきちんと思い浮かべられるならな」
「今の……」
街並みなら覚えている。孤児院の建物も、その前の道も、子供の頃によく走った路地も。ただ、俺が離れた頃の景色と今が同じとは限らない。
それ以前に、見えない場所へ跳んだことすらない。
「……まだ無理そうだ」
「じゃろうな。いきなりアルディアまで跳ぼうとするな。まずは近いところからじゃ」
セレスはそう言って、丘を下る方へ顔を向けた。
「さっき通った川を思い浮かべてみろ。橋から離れたところで、お前が立っておった場所じゃ」
「戻るのか?」
「練習じゃ。跳べたら、またここへ戻ればよい」
俺は目を閉じた。
さっきまでいた川辺。水の音。向こう岸に見えていた岩。俺が立っていたのは、少し土のえぐれた場所だったはずだ。
そこへ跳ぶ。
そう考えて魔力を動かそうとしたが、どうにもまとまらない。川を思い浮かべれば岩の位置が曖昧になり、岩を思い出そうとすれば今度は自分がどこに立っていたのかが怪しくなる。
「……駄目だ」
目を開けると、大木はさっきと同じところに立っていた。
「何を考えておった?」
「川と、岩と……あと、立ってた場所」
「全部一度に思い出そうとしたのか?」
「だって、ちゃんと場所を決めないと駄目なんだろ?」
「決めるのと、周りの木や石まで全部思い出すのは違うぞ。お前がそこに立っておるところを思い浮かべてみろ」
「俺が?」
「そうじゃ。どこへ行くのか分かればよい」
もう一度目を閉じる。
川辺に立っている自分を思い浮かべてみる。足元の土や木の本数までは考えない。さっき向こう岸から振り返ったとき、自分たちがいた辺りは確かに見えていた。
魔力を動かすと、身体が一瞬だけ引かれた。けれど足元の感覚は消えず、目を開けても大木はまだ横にある。
「惜しいのう」
「分かるのか?」
「発動しかけておったからな。最初よりはましじゃ」
「全然跳べてないけど」
「すぐにできれば苦労せんわ」
それから何度か試した。
結局、見えない場所へは一度も跳べなかったが、目を開けて丘の下にある木を狙えば、何の問題もなくその脇へ出られるようになった。
俺は大木の幹に手をつき、息を整えた。
「見えてるところなら、遠くても大丈夫なんだな」
「今のところはそうらしいの。魔力もまだ余裕がある」
「何か変な感じだな。できるのに、できないっていうか」
「力を持っているだけじゃからな」
セレスが俺の肩を前脚で軽く叩いた。
「魔法は魔力を流せば終わりではない。何をどう使うかまで含めて魔法じゃよ」
「……今まであんまり教えてくれなかったじゃないか」
「逃げながら転移の講義をしろと?」
「それは無理か」
「じゃろう」
少し休んでから、俺たちはまたアルディアの方角へ進んだ。
見通しのいい場所では転移を使い、木が密集しているところでは歩く。まだ見えない場所には跳べないが、崖や沢を回り込まずに済むだけでも、昨日までとはかなり違った。
何度目かの転移を終えたあと、セレスが遠くの山並みを眺めながら言った。
「わしに魔力さえあればのう。どこへなりと跳べるのじゃが」
「じゃあ、やってみろよ」
「できるならとっくにやっておるわ」
そう言いながら、セレスは俺の肩から地面へ降りた。
「まあ、試すだけなら――」
言いかけたまま動かなくなる。
「セレス?」
前脚を地面についたまま、何かを確かめるように首を傾けている。やがてもう一度、転移を使おうとしたらしいが、何も起こらなかった。
「どうした?」
「……今、あった」
「何が?」
セレスがこちらを向く。
「魔力じゃ」
「魔力って……お前の?」
「他に誰がおる」
セレスはもう一度試したが、黒い身体はその場から動かない。
「駄目じゃな。少なすぎる。これでは転移どころか、まともな魔法は何も使えん」
「でも、あるんだよな?」
「ああ」
俺はしゃがみ込み、セレスを見る。
魔王城で黒蜥蜴になってから、セレスは一度も魔法を使えていない。
「俺の中にある力が戻ったんじゃないのか?」
「それは分からん」
「でも、お前の力なんだろ?」
「元はな。じゃが、この身体に出てきた魔力が同じものとは限らんじゃろ」
セレス自身、この黒蜥蜴の身体が何なのか分かっていない。
「じゃあ、この身体が魔力を作り始めたとか?」
「その可能性もある。秘術の影響が今になって出たのかもしれん」
「俺の方は?」
自分の中へ意識を向ける。魔力は相変わらず大きすぎて、少しくらい減っていたところで俺には分かりそうもない。
「……変わってないと思う」
「これだけ僅かでは、仮にお前から戻っておったとしても分からんじゃろうな」
セレスは、また自分の中の魔力を確かめていた。
「そんなに気になるのか?」
「当たり前じゃろ。昨日までなかったものが、今日はあるのじゃぞ」
「昨日までは、本当に何もなかった?」
「……そのつもりじゃった。今までは、何も感じんかったからの」
そう言って、もう一度転移魔法を使おうとする。
やはり転移は起こらない。
それでもセレスは動かず、もう一度自分の中を探った。
「……あるのう」
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