第82話 正しさとは
確認待ちの印を押した受領係が記録室へ入ってきたのは、それから一刻もしないうちだった。
40歳前後の男で、右手の人差し指に黒いインクが染みついている。
ダグラスの前まで来ると、一礼してから、机上に開かれた受領簿を見た。
北街道崩落報告。その欄に押された、確認待ちの印。
「この印を押したのは、お前か」
ダグラスが尋ねる。
男の視線が止まった。
「はい。私です」
「何を確認するつもりだった」
「報告の内容です。東部観測所から崩落の報告が届いた後、北部から来た定期便が予定どおり到着したとの連絡が入りました。街道が通れないのであれば、定期便が遅れずに着くのは不自然です。内容が食い違っているとして、照会へ回しました」
「それで、危険情報にも回さなかったのか」
ルークの声は荒くなかった。
男は受領簿を見たまま、すぐには答えなかった。
「……確認が取れるまで、配布を保留するよう指示が付いていました」
「その指示は、どこにある」
「原本と一緒に、保留綴りへ収めています」
ダグラスが顎を動かす。
男は記録室の奥へ向かい、普段使っている書架ではなく、壁際の戸棚を開いた。
中から薄い書類の束を一つ抜き取り、机まで戻ってくる。
東部観測所から届いた北街道の崩落報告は、そこにあった。
送付控えと同じ件名。同じ頁数。同じ崩落地点。
通行できない区間を示した地図まで、そのまま残っている。
捨てられてもいなければ、書き換えられてもいない。
ただ、表紙の次に、見覚えのない一枚が挟まっていた。
北部定期便、予定時刻に到着。輸送への支障なし。
その連絡を根拠に、崩落報告の内容を外部へ照会し、回答があるまで危険情報への配布を保留するよう記されている。
末尾に個人の署名はない。
本部内の回付に使われる印だけが押されていた。
「この定期便が、崩落地点を通ったのはいつだ?」
俺が聞くと、男は連絡票を確かめた。
「通過時刻の記載はありません」
「北街道を通ったとは、どこかに書いてあるか?」
男の指が、紙の上で止まる。
「……書かれていません」
書かれているのは、北部から来た定期便が、予定どおり到着したという結果だけだ。
崩落の前に通過していても、別の道へ迂回していても、同じ連絡になる。
「それで、崩落してないことになるのか」
ルークが言った。
男は連絡票を置いた。
「ですから、確認が必要だと判断しました。私は、崩落がなかったと決めたわけではありません」
「確認は取れたのか」
「まだです」
「地震の翌日から、今日までずっとか」
ダグラスの問いに、男は答えなかった。
ルークが、机上の崩落報告へ手を伸ばす。
崩落地点を示す地図の上で、その指が止まった。
「俺たちは、ここで3人を拾った」
男は地図へ目を落とした。
「救助の報告は、聞いています」
「1人は足を傷めてた。水も食い物も、馬と一緒に谷へ落ちた。通ってきた足場まで崩れて、戻ることもできなかった。あと一晩遅けりゃ、3人とも帰ってこなかったかもしれねえ」
「……承知しています」
「何を待ってた」
「街道の状況が確定するのを待っていました」
「崩れたって報告は、もう届いてただろ」
「それと食い違う連絡も届いていました」
「この紙には、どこを、いつ通ったかも書いてない。それで、崩れたって報告だけ止めたのか」
男はしばらく黙っていた。
「危険情報を出せば、北街道を使う荷は止まります」
さっきまでと変わらない声だった。
「食料も、薬も、燃料もです。崩落が誤報であれば、街道を止めたことで困る者が出ます。私は現場を見ていません。届いた一つの報告だけを正しいと決める権限もありません」
「なら、両方出せばよかっただろ」
「街道が崩れたって報告が来た。定期便は予定どおり着いた。どっちもそのまま出せばいい。分からねえからって、片方だけ止めるなよ」
「止めたのではありません。確認を待っただけです」
「その間、注意書きには載らなかっただろ」
男は言葉を返さなかった。
「危険情報に載せれば、未確認でも荷を止める者は出ます。そのために薬が届かず、別の誰かが死んだら、どうするのですか」
「載せなくても人は動いた。崩れた道へな」
男は目を逸らさない。
ルークも、地図から指を離さなかった。
「どっちなら死なせていいかなんて、俺に聞くな。どっちも死なせねえために、分かってることを全部出せって言ってる」
「同じ報告と、同じ連絡票が来たら」
ルークが一度、言葉を切った。
「あんたは、また同じ処理をするのか」
「します」
返事は早かった。
「内容が食い違って見える以上、照会へ回します。配布を保留するよう指示があれば、それにも従います」
ルークの手が、連絡票の端を握った。
紙がわずかに歪む。
「ルーク」
声をかけると、ルークは俺を見た。
「分かってる」
ルークは連絡票から手を離した。
「嘘だと分かるものは、どこにもねえ。だから腹が立つんだろうが」
観測所は、見たままを報告した。
定期便は、予定どおり着いたと連絡した。
受領係は、食い違って見える二つを照会に回した。
北街道は崩れていないと書いた者はいない。
崩落報告を捨てた者もいない。
ただ、確認が終わるまで放置された。
それだけで、エルンストが受け取るはずだった注意書きから、崩落は消えた。
俺は、配布を保留するよう記された回付票を指した。
「確認待ちでも、危険情報へ回すことはできないんですか」
「できるぞ。未確認と付けたうえで、先に注意を出せばいい」
ダグラスは回付票を手に取った。
「外への照会と、現場への注意は別の処理だ。この印だけで危険情報を止める権限はない。少なくとも、俺は認めていない」
男の表情が、初めて崩れた。
「ですが、それは総本部で使われている印です。配布を保留すると、はっきり書かれていました」
「誰から受け取った」
「朝の回付箱に入っていました。原本は残し、照会には写しを回しています」
「照会先はどこだ」
「私には分かりません」
ダグラスの眉が寄る。
「宛先も分からずに回したのか」
「写しは、外部への照会を扱う担当へ渡しました。どこへ照会するかを決めるのは、そちらです」
「では、私はどうすればよかったんです」
男がダグラスへ向き直った。
「受領簿へ記載し、原本を残し、総本部の印がある指示に従いました。その印に権限があるかを、受領のたびに私が疑うのですか」
ダグラスは、すぐには答えなかった。
「俺に上げろ」
「総本部の印がある指示を、グランドマスターへですか」
「そうだ」
ダグラスは回付票を机へ戻した。
「だが、そうしていいとお前に伝わっていなかったなら、そこは俺の落ち度だ。総本部の印に従ったお前一人に、責任を押しつけるつもりもない」
男は何も言わなかった。
「ただし、その結果、3人が死にかけた。その事実まで、正しい手順で片付けることはできん」
この男一人を処分しても、次に同じ回付票を受け取った者は、きっと同じ処理をする。
もし、これが意図してやられたのなら、狙ったのは原本ではない。
紙を受け取った人間に、自分の仕事として手を止めさせることだ。
「受領後の記録を、最初から話せ。回付箱で見つけた時刻、照会に出した時刻、その場にいた人間。覚えていることは全部だ」
「分かりました」
男が受領記録を開く。
俺は、通常の記録から外れた残り6件の件名を指した。
「同じ指示が付いた報告は、ほかにもあるか」
男は上から順に件名を追った。
途中で、その目が止まる。
「……あります」
「何件だ」
「私が扱ったのは、あと2件です。どちらも、観測所の報告と、操業や輸送に支障はないという外からの連絡が食い違っているとして、照会へ回しました」
「その2件の原本はどこだ?」
「保留綴りにあるはずです」
「残る4件は、誰が扱った?」
「私の担当ではありません」
ダグラスは記録室の職員を呼び、6件すべてについて、受領後の回付記録と原本の所在を確かめるよう命じた。
確認には時間がかかった。
先に揃ったのは、原本ではなく、書類の動きを記した補助簿だった。
6件とも、受領後に外部照会へ回されている。
北街道の報告を含め、その記載を書いた職員は一人ではない。
日付も、担当も違っていた。
照会中。
その二文字だけが、7件すべてに残っている。
誰へ何を確かめたのか。その欄は、どれも空白だった。
「7件全部か」
ルークが言った。
「ああ」
ダグラスは、補助簿と北街道の回付票を見比べた。
北街道だけなら、杜撰な処理だった可能性は残る。
別の日に、別の職員が扱った報告まで、同じところで止まっている。
偶然で片付けるには、形が揃いすぎていた。
「同じ人間が動かしていると思うか」
「そこまでは分かりません。けど、誰かが同じやり方を使ってる可能性は高いですね」
「なら、誰がその回付票を作り、誰が照会を止めているのかを探せ」
ダグラスは北街道の原本を閉じた。
「これは俺が預かる。写しを作り、北街道の崩落を危険情報へ回せ。残る6件は、原本の所在を確かめるまで書架も回付記録も動かすな」
職員たちが動き出す。
受領係の男も立ち上がりかけたが、ダグラスに止められた。
「お前は残れ。北街道の報告を受け取った日から、順に話してもらう」
「分かりました」
男はもう一度、受領記録へ目を落とした。
ルークがその横顔を見てから、俺を見る。
「正しい手順、ね」
「便利な言葉だな」
北街道の原本は、本部に残っていた。
残る6件の原本も、保留綴りから見つかった。
すべて、照会中。
誰へ何を照会し、どんな回答を待っているのか。
その記録だけが、7件とも抜け落ちていた。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
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