第79話 神の扉
「セヴェリオ様?」
セレスの声で、セヴェリオはようやく顔を上げた。
俺たちへ向けた視線が、ベルナードのところで止まる。
そこで一度、深く息を吸った。
「ベルナード。学校と寄宿舎は、先ほどの指示どおりにお願いします」
「はい。猊下は?」
「私は大礼拝堂を確認します」
声は落ち着いていた。
それでも、さっきまで床を見ていた時の顔が、頭から離れなかった。
セヴェリオはそれだけ告げると、先に部屋を出た。
ベルナードは閉じた扉を一度だけ見てから、俺たちへ向き直る。
「行きましょう」
俺たちは、セヴェリオの指示どおり、ベルナードの後を追って学校へ向かった。
◇
学校へ続く回廊には、すでに人が集まり始めていた。
壁の目地から落ちた白い粉が床へ散り、倒れた花瓶の水が、その上を細く流れている。
神官たちが慌ただしげに行き交っていた。
それでも、廊下の中央には人が通るための道が残されている。
「西の寄宿舎から見ます」
ベルナードが歩きながら言う。
「あなたたち4人は、怪我人の搬送と危険な場所の確認を」
「分かりました」
俺が答えると、ベルナードは先に校舎の脇へ向かった。
中庭へ出ると、寄宿舎ごとに学生が集められていた。
16、17歳ほどの学生が帳面を手に、名前を呼んでいる。
呼ばれた子供は返事をし、自分より幼い子を連れて、被害のない回廊の下へ移っていった。
回廊の奥から運ばれてきた毛布や水差しは、10歳ほどの子供たちの手を経て、怪我人のいる場所へ回されている。
中庭の端で、セレスと同じくらいの年頃の少女が、9歳ほどの少年の隣へ膝をついていた。
少年は右腕を胸元へ寄せ、歯を食いしばっている。
少女は自分の帯布を使い、少年の腕が揺れないよう支えていた。
ベルナードが近づくと、少女は顔を上げた。
「西の寄宿舎は、在寮者を全員確認しました。この子は、棚が倒れた時に腕を打ったようです」
「神官には?」
「先生が施療院へ知らせています」
「分かりました。神官が来るまで、このまま見ていてください」
セレスが少年の前へしゃがみ込んだ。
「救護を手伝わせて」
少女は一度だけセレスを見て、それから頷いた。
「お願いします」
「腕を動かすと痛む?」
少年が小さく頷く。
「じゃあ、神官が来るまで無理に動かさないでいましょう」
セレスは帯布がずれないよう、少年の肘の下へ手を添えた。
俺とルーク、レオンの3人は、校舎の奥へ続く通路へ回った。
倒れた棚と書箱が、廊下を塞いでいる。
棚の向こうから、教師の声がした。
教室に取り残された学生を、まだこちらへ通せないらしい。
「持ち上げるぞ」
ルークが棚の端へ肩を入れた。
「待った」
レオンが、棚の上を見た。
扉の上から壁際へ走った亀裂の先で、石が浮いている。
「横へ押し込むと、上が落ちるかもしれない。通れる幅だけ作ろう」
「分かった。俺がこっちを支える」
ルークが棚の手前を持ち上げ、俺は床へ散った書箱を引き抜いた。
レオンは棚の脚へ木箱を噛ませ、持ち上げた棚が戻らないように支える。
人ひとりが通れる隙間ができた。
教師が先にくぐり、その後から年少の学生たちが出てくる。
最後の子が中庭へ着くまで、ルークは棚から手を離さなかった。
「もう大丈夫です!」
教師が言う。
ルークはようやく息を吐き、棚から肩を抜いた。
「次だな」
中庭へ戻ると、施療院から来た神官が少年の前へ膝をついていた。
先ほどの少女は、棚が倒れた時に何があったのかを、途切れずに説明している。
セレスは神官へ場所を譲った。
「ここからは、私が診ます」
「お願いします」
少年が担架へ移されるのを見届けてから、セレスは立ち上がった。
◇
西の寄宿舎の立ち入りが止められ、怪我人の搬送も終わった頃には、日が山の向こうへ傾いていた。
ベルナードが最後の人数確認を終えたところで、セヴェリオが中庭へ姿を見せた。
「こちらは、ひとまず落ち着きました」
ベルナードが報告する。
「そうですか。皆さんも、ありがとうございました」
セヴェリオは俺たち4人へ向き直った。
「セレスティア嬢。入学前に、ひとつお見せしたいものがあります」
「私に?」
「皆さんにもです。こちらへ」
セヴェリオは、大礼拝堂へ続く回廊を歩き出した。
校舎から離れるにつれて、さっきまでの呼び声と足音が後ろへ遠ざかっていく。
大礼拝堂の脇を抜け、その裏手へ回ると、白い壁の途中に格子戸があった。
セヴェリオは鍵を外し、戸を開ける。
「この先は、史料の講義で使う庭です。ふだんは、許可を受けた者しか入れません」
戸の内側は、三方を白い回廊と石壁に囲まれた小さな中庭だった。
北の一面だけは、神聖大陸の北岸をなす山の岩肌で閉ざされている。
その岩壁の中央に、扉があった。
周りの石より明るい、白とも銀ともつかない扉だった。
石畳から俺の腰ほど上で始まり、その下には敷居もない。足元まで、岩壁が続いている。
遠くから見る限りでは、岩壁に刻まれた大きな意匠にも見えた。
近くへ行くと、そんな見方はできなかった。
左右と上は岩の中へ途切れなく呑まれ、後から嵌めたのなら残るはずの継ぎ目がない。
その一方で、下端の縁には、岩の奥へ続く確かな厚みがあった。岩に文様を刻んだのではない。
扉そのものが、岩の中まで続いている。
石とも硝子とも違う、素材の分からない表面が、エルゼリオン侯爵家で見た封印扉を思い起こさせた。
だが、細い紋様が幾重にも刻まれたその扉は、似ているという一言では収まらない。
岩壁に呑まれているのに、庭へ入った瞬間から、目はその扉から離せずにいる。
風雨に削られた岩には細かな亀裂が走っているのに、その彫りだけは欠けも曇りもしていない。
目の前のものを、岩に刻まれた飾りと呼ぶには無理があった。
俺だけではない。
レオンもルークも、その一見普通で存在感だけが異様な扉を前に、言葉もなく立ち尽くしていた。
セレスもまた、足を止めたまま動かない。
セヴェリオが、その前で足を止めた。
「これが、大聖堂の『神の扉』です」
セレスは、すぐには言葉を口にしなかった。
腰の高さで途切れる下端を見て、岩へ呑まれた左右へ視線を移す。
細い紋様を上まで追ってから、ようやく息を吐いた。
セヴェリオは、その沈黙を急かさなかった。
「最も古い記録にも、すでにここにあったとだけ記されています。誰が造ったのか。何のためにあるのか。私たちは知りません」
セレスは、もう一度、扉の下端を見た。
「この向こうは、どうなっているのですか?」
「分かりません。開いた記録がないのです」
「それでも、神の扉と呼ぶのですね」
「ええ。そう呼んで、守ってきました」
セヴェリオは、扉の白い面に目を戻した。
「『神の扉』という呼び名は、代々受け継がれてきました。ですが、その正体は誰にも分かりません。それでも、開いたことがないからといって、ただの飾りだと断じることもできないのです。少なくとも大聖堂は、そう考えてきました」
「記録を集め、調べ、失わないよう守ってきた。それでも、まだ答えはないのです」
セレスは、すぐには答えなかった。
「昨日、セレスティア嬢は、命について、まだ知らないとおっしゃった」
セヴェリオの声は、静かだった。
「ならば、こちらも知らないことを隠したまま、教えを始めるわけにはいきません」
一度、俺たち4人を見渡してから続ける。
「エルゼリオン家の扉を開く手立てを求める方に、大聖堂にも、答えを得られないまま扉の前に立ち続けてきた者たちがいることを、先に知っていただきたかったのです」
セレスは、もう一度扉を見上げた。
「分かりました。開かなかったことと、問いを手放すことは、同じではないのですね」
「急いでいるからといって、分かったつもりにはなりたくありません。見せていただき、ありがとうございました」
◇
宿へ戻り、夕食を終えた頃には、窓の外がすっかり暗くなっていた。
明日から、セレスは大聖堂で本格的に神聖魔法を学ぶことになる。
では、俺たちは?だ。
「改めて思い出したことがある」
俺が言うと、ルークが怪訝そうにこちらを見た。
「お?なんだ?」
「俺たちには時間がない」
「え?なんて?」
「……今更?」
ルークとセレスがそれぞれ反応を返す。
レオンは目を閉じたまま何も言わない。
「セレスが学んでいる3か月間、何をして待ってるのか考えてなかった」
「……確かに」
「確かに、目の前のことに追われて、一山越えた気になっていたかもしれないね」
ルークの言葉を受け、レオンが確かめるように言葉をつなぐ。
扉のことも、神聖魔法のことも、今の俺たちには必要だ。
けれど、セレスがここで学ぶ間にも、世界の異常は進んでいく。
「セレスが大聖堂に残るなら、俺たちは別れて動こう」
レオンが頷いた。
「僕は一度科学大陸に戻ろうと思う」
「観測のためか?」
「うん。父を通して、各地の観測記録を集め直したい。グランドオーダーが始まった時の見積もりを、今もそのまま信じるわけにはいかないだろう?」
「なら、俺とルークは荒漠へ戻る」
「本部への報告か?」
レオンの問いに、俺は頷いた。
「神聖で起きたことを伝える。それから、禁書庫の調査を止めずに進められるよう、次の手も整えておく」
ルークが腕を組む。
「報告だけなら、お前ひとりでもできるだろ」
「じゃあ、ルークは他にやることあるのか?」
「なら、行くしかねえな」
ルークは迷わず頷いた。
セレスが、小さく吹き出し、慌てて表情を戻した。
「そうね、3か月後に、ここで会いましょう。その時に、皆が見つけたものを聞かせて」
「約束だ」
窓の外で、遅い鐘が鳴った。
俺たちは、3か月後にまたこの地に戻ることを確認して、それぞれ別の大陸へ向かった。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
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