第75話 切り分けられた岸
翌朝、俺たちは大神殿の南門前で、神聖大陸へ向かう商隊に加わった。
荷車は5台。幽冥大陸南西部の港へ運ばれる荷に混じって、俺たちの革袋も積まれている。
昨夜のうちに、神聖大陸へ向かう日程と到着予定の港を、大神殿から知らせてもらった。
宛先は、セレスの父親と冒険者ギルド、商業ギルド、それに神聖大陸のアークノルト辺境伯家だ。
南門を抜けて最初の坂へ差しかかっても、セレスは荷台の後ろに座ったまま、町の方を見ていた。
俺も荷台から振り返ると、白い外壁の内側に、施療院の平らな屋根と大神殿の門塔が見える。
「名残惜しいか?」
「少しだけ。数日しかいなかったのに、ここへ来たのが随分前のことみたいね」
「少しだけって顔じゃないけどな」
「そうね。見れば見るほど、常識の方が怪しくなっていくんだもの」
街道が次の丘へ差しかかると、白い外壁も門塔も見えなくなった。
古い石の混じる道は、緩やかな丘の間を西南西へ延びている。
◇
3日目の午後、丘を渡る風に潮気が混じった。
海はまだ見えない。それでも、潮と濡れた木の匂いは、荒漠大陸を出た港と同じだった。
丘を越えると、深い入り江の奥に帆柱が集まっている。
平らな屋根の白い石倉庫が水際まで並び、その前を荷を担いだ人々が絶えず行き交う。
漁船に混じって、2本の帆柱を持つ商船も幾隻か停まっていた。
幽冥大陸へ流れ着いた漁村とは比べものにならない。
それでも、幾重にも帆柱が重なる荒漠大陸の港ほど大きくはなかった。
俺たちを乗せる船は、入り江の外側に近い桟橋へ繋がれていた。
荒漠大陸から乗った貨物船より一回り小さく、客室も寝台もない。
甲板の下には積荷を片側へ寄せ、4人が横になれるだけの場所が空けられている。
その日は港近くの宿へ荷を置き、水と食料を買い足した。
日が沈んでも、入り江から荷を運ぶ声と、船体を叩く波の音が宿まで届いた。
◇
船が港を出たのは、翌朝だった。
風を孕んだ帆が船体を沖へ運んでいく。入り江の奥に重なっていた倉庫と帆柱は、白い岬の陰へ一つずつ消えていった。
俺たちは甲板に残り、遠ざかる幽冥大陸を見ていた。
「南の岸は、海からは見えないのか?」
ルークが近くにいた船長へ尋ねる。
「岬に隠れてるだけだ。回れば、嫌でも目に入る」
船長は船尾へ戻り、船員たちへ短く指示を飛ばした。
船は岬から距離を取り、ゆっくりと南へ進んでいく。
岬の先端を回った。
視界が開けた瞬間、海面がそのまま天へ向かって立ち上がったように見えた。
白い断崖が、船の左手を埋め尽くしている。
誰も、すぐには言葉が出なかった。
海面から始まる岩壁は、見上げても上端が霞んで見えない。東へ延びる白い壁は、空と海の間を塞いだまま、視界の果てへ溶けている。
波に濡れた崖下や、大きく崩れた場所では、白い岩肌の奥から青黒い層が覗いていた。
崖下に散らばる岩も、風雨に削られた凹凸も、壁全体の中では細かなざらつきにしか見えない。
断崖の前を横切る海鳥は、翼を広げても小さな黒い点にしか見えなかった。
遥か上では、大地が断崖の縁で突然途切れている。
あの大峡谷は、大地に開いた巨大な裂け目だった。
今、目の前にあるのは、大地そのものの端だ。
最初に口を開いたのは、ルークだった。
「……あれが、南壁か」
俺も壁の続く先へ目を凝らしたが、白い断崖は視界の外まで延びている。
「どこまで続いてるんだ?」
「ここからずっと東だ。向かいの神聖大陸も、北側は似たようなもんだ」
船長が俺たちの後ろから言う。
セレスが船首へ向き直った。
「神聖大陸の壁も、もう見えるの?」
「ああ。正面に白い崖が見えるだろう」
俺たちも船首側へ並んだ。
海と空の境に、遠い断崖が淡く浮かんでいる。
「あれが神聖大陸の北壁だ。真っ直ぐ渡るだけなら半日もかからん。けど、あっちも船を着ける場所がない。港は北壁の西端を回った先だ」
俺は船の左手後方へ伸びる南壁と、遠くに霞む北壁を見比べた。
間近に見る南壁の凹凸は、巨大な断面に後からついた傷にしか見えない。あの断面そのものがどうして生まれたのかは、想像もつかなかった。
神様が大地へ巨大な剣を振り下ろし、幽冥と神聖を切り分けた跡だと言われた方が、まだ納得できる。
船は南壁を左手後方へ置き、北壁へ向かって海峡を南へ進んだ。
前方で、霞んでいた北壁が少しずつ高さを増していく。
昼を過ぎる頃、船は北壁に沿って西へ向きを変えた。
日が傾く頃には、左手に神聖大陸の北壁、右手の水平線に幽冥大陸の南壁が延びている。
俺たちは、神様の剣が大地に残した跡を、船で辿っているようだった。
◇
翌朝も海は穏やかだった。
船は神聖大陸の北壁に沿い、その西端へ向かっている。
「そっちの端を押さえてくれ」
積荷を覆う布の向こうから、船員の声が飛んできた。
俺は布の端を掴む。
「ここでいいか?」
「もう少し船尾側だ。そこで引いてくれ」
言われた位置まで引くと、反対側でレオンが縄を輪へ通した。
風に煽られていた布が木箱の上へ張りつき、船員が素早く結び目を作る。
客に仕事はさせられないと言われたのは、出港した朝だけだった。
俺たちが縄の扱いも、荷の固定も知っていると分かってからは、船員たちが手の空いている者へ声を掛けてくる。
甲板の前方では、ルークが船員に混じって帆綱を引いていた。
「そんなに張り切っても、昼食は増えないそうよ」
藍色の上着の袖を捲り、使い終えた覆いを畳んでいたセレスが言った。
「いつの間に聞いたんだよ」
「あなたが最初の綱を引いている間に」
セレスがおかしそうに笑った。
ルークは何も言わず、次の帆綱へ手を伸ばす。
俺も押さえていた布を船員へ渡し、立ち上がる。
船首の左手には、白い断崖がまだ続いている。
「崖の上、白いものが並んでるぞ」
俺の声に、レオンとセレスが船首へ顔を向ける。ルークも帆綱を船員へ返し、手すりのそばまで来た。
海から一気にせり上がる岩壁の上端は、細い緑色の線で縁取られていた。そのさらに上に、柱とも塔ともつかない白い構造物が、等間隔に並んでいる。
崩れたところからは、幽冥大陸の南壁と同じ青黒い層が覗いていた。
「あの白いものは、何かしら」
「境塔だ」
船長が俺たちの後ろから答えた。
「北壁の縁は禁足地になってる。あの塔が境を示してるんだ。決められた祭礼か、神官の見回りでもなけりゃ、塔より海側へは入れない」
ルークが、視界の先まで続く白い列を見渡した。
「随分と広いんだな」
「北壁は、神の御業が地上に残った場所だとされてるからな。町も畑も、あの塔より海側には作られん」
セレスは白い境塔の列から、その下に続く断崖へ視線を移した。
「同じように見える壁なのに、幽冥とは扱いがまるで違うのね」
「あそこが北壁の西端だ。回り込んだら帆を畳むぞ」
船長の声に応え、船員たちが持ち場へ散っていった。
西へ延びていた北壁は、緑の斜面が海まで下りてくるところで終わっていた。
船が岬を回ると、大小幾つもの入り江が開けた。
海上からは、幽冥大陸と同じ白い建物に見えていた。
岸へ近づくほど、その違いがはっきりしてくる。
丘へ続く家々の屋根は緩く傾き、倉庫の入口には丸いアーチが架かっている。
港から延びる道の両側には白い柱が同じ間隔で並び、その奥には三角形の屋根を載せた建物が見えた。
船は幾つかの入り江を通り過ぎ、石積みの防波堤に守られた小さな港へ進んでいく。
短い桟橋には漁船が身を寄せ、水面の奥では干された大きな網が風を受けて揺れていた。
「あそこが港か?」
俺が入り江の奥を指すと、船長が頷く。
「そうだ。大きな船は入れないが、この船なら問題ない」
帆が次々に畳まれ、船の速さが落ちていく。
海面を切る音が弱まるにつれ、魚を選り分ける女たちの声や、桟橋を走る足音が近づいてきた。
セレスは足元へ置いた覆いを畳み終えると、捲っていた藍色の袖を戻し、襟元を整える。
「急にお嬢様らしくなったな」
俺が言うと、セレスは澄ました顔で袖口を直した。
「急ではないわ。どこから見ても、ずっとお嬢様でしょう?」
「さっきまで袖を捲って働いてたけどな」
「働き者のお嬢様よ」
セレスはそう言って、最後に髪を手で整えた。
船員が投げた係留索を、桟橋の男たちが受け取る。
船体が一度大きく揺れ、桟橋へ船腹を寄せた。
俺たちは革袋を担ぎ、商人に続いて船を下りる。
詰所から出てきた役人が、手元の書類と俺たちを見比べた。
「荒漠大陸からお越しの冒険者4名ですね」
「ああ。幽冥大陸の大神殿から、知らせは届いてるか?」
「届いております。お迎えの方も、今朝からお待ちです」
役人が港の入口を示した。
白い外套を着た男が、黒塗りの馬車の前に立っている。
俺たちが近づくと、胸へ手を当てて一礼した。
「アークノルト辺境伯家の者です。皆様をお迎えに参りました」
「本家から迎えが来るとは思わなかったわ」
セレスは外套の男へ丁寧に礼を返した。
「随分待たせてしまったかしら」
「いいえ。私どもが早く着きすぎただけです」
男が馬車の扉を開けた。その中央には、荒漠大陸で見たアークノルト家のものとよく似た紋章が刻まれている。
「お祖父様は?」
「お屋敷で皆様をお待ちです」
「そう。ありがとう」
セレスはいつもと変わらない声で答えた。
それでも馬車へ乗り込む前に、一度だけ大きく息を吸った。
「行きましょう」
今度こそ、ここが神聖大陸だった。
白い柱の並ぶ道の先で、セレスの祖父が待っている。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
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