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第74話 皆の命

ナディアはすぐには何も言わなかった。


「今の、もう一度言ってくれるかい?」


「命は、時間。と」


セレスは男が腕を置いていた台を指した。


「魔法をかけ終えた後も、あの人の腕は治り続けるでしょう? 食べて、眠って、身体が自分で傷を治していく。そのために必要なのが時間なら、命というのは、身体の中にある力だけではなくて、その人が過ごしていく時間そのものなのかもしれないと思ったの」


「驚いたね。治療を一度見ただけで、そこに辿り着くとは思わなかったよ」


「合っているの?」


「半分はね」


「残りの半分は?」


セレスが身を乗り出すと、ナディアは使った布を若い神官へ預けた。


「その前に、あんたたちは冒険者だろう? なら、見ておいた方がいいものがある」


ナディアはそのまま部屋を出た。


何を始めるのか分からないまま、俺たちも後を追った。

廊下の先にある戸を抜けると、白い建物に囲まれた中庭へ出た。

壁際には香草の鉢が並び、井戸のそばでは、洗い終えた布が何枚も風に揺れている。


ナディアは中庭の中央まで進み、ルークを振り返った。


「ルーク。ちょっと身体を貸してくれるかい?」


「お、いいぜ!」


ルークは間を置かず、ナディアの前へ出た。


「せめて、何をするのかくらい聞きなさいよ」


「面白そうな気配がしたんだよ」


ナディアは笑い、井戸の向こうにある壁を示した。


「じゃあ、まずはあの壁まで歩いて、戻っておいで」


「それだけか?」


ルークは首を傾げたが、言われたとおり壁まで歩き、すぐに戻ってきた。


「これでいいのか?」


「もう一度。今度は少し身体を重くするよ。痛くはしないから、同じように歩いてみな」


ナディアが右手を上げた。


唇が小さく動き、淡い藍色の光が指先から滲んだ。


光は細い靄のように伸び、ルークの肩から全身へ薄く広がった。


ルークは同じように歩き出そうとして、眉を寄せた。


最初の一歩は、靴底を石畳に擦りながら、さっきの半分ほどしか進まなかった。

二歩目も変わらなかった。ルークは歩幅を広げようとしたが、足は思ったところまで動かなかった。


「何だ、これ」


ルークは腕を振って勢いをつけ、もう一度足を踏み出した。だが、その腕まで重そうだった。壁まで半分も進まないうちに、とうとう足を止めた。


「頭は普通なのに、身体だけ泥の中にいるみたいだぞ」


いつものルークなら、盾を持っていてもすぐに往復できる距離だ。

どこかを痛めた様子も、意識が霞んだ様子もない。

それなのに、身体だけがルークの意思についてこなくなったように見えた。


「戻ってこられそうかい?」


「戻れるけど、日が暮れるぞ」


ナディアが笑って右手を下ろすと、ルークを覆っていた藍色の光が消えた。


ルークはその場で両肩を回し、膝を何度か曲げると、今度は普段どおりの足取りで戻ってきた。


「今のは気持ち悪いな」


「これが、デバフと呼ばれているものだよ」


聞いたことのない言葉だった。


「デバフ?」


レオンが聞き返した。


「敵の力や反応を落とす魔法を、そうまとめて呼ぶ術者がいるんだ。広く使われている言葉じゃないけどね」


「身体強化の反対みたいなものか?」


ルークが聞いた。


「見える結果だけならね。ただ、難しさは比べものにならないよ」


「身体を強くする魔法なら、受ける側だって、もっと速く動きたい、もっと力を出したいと思ってる。相手も望んでいることなら、魔法は通りやすいんだ」


「敵は、弱くなりたいとは思わないものね」


「そういうことさ。人の身体は、外から入ってくる魔力を押し返す。ルークはあたしに身体を貸すつもりでいた。それでも、動くための働きだけを狙って鎮めるのは簡単じゃない」


「今のも鎮静魔法なの?」


「同じ鎮静魔法だよ。さっきは痛みと熱を鎮めた。今は、動くための働きまで鎮めた。それだけの違いさ」


「それ、戦ってる最中に今のをかけられたら、かなり厄介だな」


「かけられればね。嫌がる相手に通すのは難しいよ」


「あんたはできるのか?」


ルークが尋ねると、ナディアはあっさり頷いた。


「昔は、嫌がる相手にかけるのが仕事だったからね」


「仕事って、何をしてたんだ?」


「冒険者だよ。デバフの使い手は珍しかったからね、人が相手でも魔獣が相手でも、随分と重宝されたものさ」


「何ランクまで上がったんだ?」


「Sだよ。外にいた頃は、『宵凪』なんて呼ばれてた」


井戸のそばで、風を受けた布が大きく鳴った。

誰もすぐには言葉を返せなかった。


「……宵凪?」


レオンの声が僅かに上ずった。


その名なら、俺も知っている。


敵の動きを奪い、仲間に勝機をもたらす闇属性の使い手。

町へ迫った魔獣の群れを鎮め、討伐隊を勝利へ導いた元Sランク冒険者。


けれど、ある時を境に、その名は冒険者の記録から途絶えていた。


「魔獣の群れを一人で止めて、討伐隊を立て直した『宵凪』か?」


俺が聞き返すと、ナディアは首を横に振った。


「一人で全部止めたわけじゃないさ。仲間が仕留めるまで、動きを鈍らせていただけだよ」


「十分おかしいだろ」


ルークが言うと、ナディアは声を上げて笑った。


「急に姿を消したって聞いてたぞ」


「人聞きが悪いね。帰ってきただけだよ」


ナディアは施療院の白い建物を見回した。


「ここはあたしの故郷だ。神官の家に生まれて、若い頃に大陸を出た。冒険者を辞めた後、ここへ戻ってきた。それだけさ」


ある日を境に消息を絶ったSランクが、大神殿の施療院で骨折した男の腕に板を添えていた。


神聖大陸へ向かう商人を探すだけでも、俺たちは大神殿の力を借りなければならなかった。

冒険者を辞め、『宵凪』の名も使わずにここへ戻れば、外の誰にも見つけられるはずがない。


「治癒と鎮静の話を聞きに来て、元Sランクが出てくるとは、さすがに意外すぎる」


俺が言うと、ナディアも肩を竦めた。


「あたしも、こっちへ帰ってから『宵凪』を知ってる客に会うとは思わなかったよ」


「私たちも冒険者だもの。知っていても不思議ではないでしょう?」


「幽冥まで来る冒険者が珍しいんだよ」


ナディアは中庭の端にある長椅子へ腰を下ろした。


俺たちも向かいの長椅子へ座った。


「あたしがどこへ消えたのかは、誰も知らない。それでも、外で過ごしたあたしの時間を、会ったこともないあんたたちが覚えていた。命が時間だって話の残り半分はそこだよ」


「死んだ後も、誰かが覚えている限り、その人の命は残るということ?」


「残るよ。ただ、生きている時と同じ形で残るわけじゃない。眠っている間は自分という意識が途切れていても、目を覚ませば同じ身体を持った自分として、時間の続きを生きられる。次の時間を迎えるのは、変わらず本人だ」


「でも、死んだ時はその続きへ戻れない、ということですか」


レオンが言った。


「そうだね。死ねば、同じ身体を持った自分として、その続きを生きることはもうない。流れていく時間を、その人自身が確かめることもない。それが死だよ」


ハキームは、死は長い夜に入るようなものだ、と話していた。


眠りには、同じ自分で迎える朝がある。死には、それがない。


「でも、生きた時間までなくなるわけじゃないのね」


「残った者が覚えているからね。その人が言ったこと、したこと、その人から受け取ったものを、別の誰かが次へ渡していく。その時から、一人の命は、その人だけのものじゃなくなるのさ」


「皆の命になる」


セレスが呟いた。


「この大陸では、そう考えているよ」


「だから、よく生きろってことか?」


ルークが尋ねる。


「死出の旅を穏やかにするためだけじゃない。死んだ後、自分の時間を誰かに持っていてもらうためでもある。立派な名前を残せって話じゃないよ。良い友でいる。良い隣人でいる。良い親でいる。覚えている者が、また誰かへ渡したいと思える時間を生きろってことさ」


さっきは、分かったような顔で頷いただけだった。


けれど今度は、ナディアの話に少しだけ手が届いた気がした。


戦い方も、危険な場所から帰るための判断も、俺が最初から持っていたものではない。

教わった言葉を覚え、誰かの動きを真似しながら、今の自分を作ってきた。


出会ってきた人たちの時間が、俺の中にも残っている。


ナディアの話を聞きながら、北の大峡谷を思い出した。


あそこに残った建物が、どの文明のものなのかは、もう誰にも分からない。

そこで暮らした人々が、どんな言葉を話し、何を食べ、誰と暮らしていたのかも分からない。


それでも、その人たちが生きた時間は、壁になり、道になり、畑の水路を曲げている。


ヨナの言ったとおり、今を生きる者も、いずれあの景色の一部になるのだろう。


そこで誰が生きていたのか忘れられた後も、その跡は大地に残り、そこに暮らす皆の命の一部になっていくのかもしれない。


「旅を終えた魂が、いつか別の命として戻ってくるという話とも繋がるのね」


セレスの問いに、ナディアが頷いた。


「前の名前も記憶も持ち帰らないから、誰が誰として戻ったのかは分からないけどね。神殿では、生まれてくる者は皆の遠い子であり、また皆の遠い母だったかもしれないと教える。だからこそ、今ここにいる命を、その者の時間として大事にするんだよ」


「さっきルークに使った魔法は、身体の時間を遅くしたの?」


「時間を動かしたわけじゃないよ。触れたのは、ルークの身体が生きるために続けている働きさ。動く、熱を作る、傷を塞ぐ。そうした働きを強めるのが、他の大陸で光属性と呼ばれている魔法。逆に鎮めるのが、闇属性と呼ばれている魔法だよ」


「私にも、その魔法を学ぶことはできるかしら」


「学ぶことはできるよ。ただ、今日ここで教えられるようなものじゃないね」


「命の働きを鎮める魔法だから?」


「そうだよ。何を、どこまで鎮めていいのか。命を知らないまま、手順だけ覚えて使えるものじゃない」


「でも、他人の動きを速くしたり、力を引き出したりする補助魔法も、身体に働きかけるものでしょう?」


「そうだね。身体に働きかける点は同じだよ。ただ、速く動きたい、もっと力を出したいという補助なら、受ける側もそれを望んでいる。術者は、その望みを後押しすればいい。治癒や鎮静はそうはいかない。身体が生きるために続けている働きそのものへ触れるからね。手順だけを切り取って教えられるものじゃないよ」


セレスが僅かに唇を尖らせると、ナディアが笑った。


「神聖大陸へ行くんだろう? なら、まずは向こうで光の基礎をきちんと学びな。今日の話を、今すぐ全部分かろうとしなくていいよ」


「随分と気の長い宿題ね」


「命を扱うんだ。急いで身につける方が危ないさ」


「分かったわ。今は、ここまでにしておく」


その時、渡り廊下から若い神官が中庭へ入ってきた。


「神官長。受付からお知らせです。神聖大陸と取引している商人が見つかったそうです」


俺たちは一斉に神官を見た。


思わず腰が浮いた。


「4人とも乗せてくれるのか?」


「はい。4人とも乗せられるそうです。明朝、西の大きな港へ向かう商隊が出ます。港まで3日ほどで、そこから商人の船に乗り、神聖大陸の西岸へ向かう予定です」


「船に乗ってからは、何日くらいかかるんだ?」


ルークが身を乗り出した。


「順調なら2日ほどです。両大陸の間は近いのですが、向かい合う岸は断崖で上陸できません。西側へ回り込むため、直線で渡るより日数がかかります」


「僕たちの荷物も載せられますか?」


「荷物の量にもよりますが、問題ないそうです。費用や商隊へ加わる条件は、受付で商人本人からお聞きください」


「分かった。すぐに行く」


俺が立ち上がると、ルークも続いた。


「やっと神聖大陸か。随分遠回りしたけど、あと5日ならもうひと息だな」


ナディアも立ち上がり、セレスへ声を掛けた。


「その宿題の続きは、神聖大陸に着いてからだね」


「ええ。向こうで光属性を学んだら、今日の言葉をもう一度考えてみるわ」


ナディアが笑って頷いた。


俺たちは若い神官と一緒に受付へ向かい、商人から費用と商隊へ加わる条件を聞いた。

その場で、明朝から同行することを決めた。


これで、神聖大陸へ向かう道が決まった。


幽冥大陸で過ごしたのは、ほんの数日だった。


それでも、古い石の上で見た景色と、そこで聞いた言葉を持って、俺たちは神聖大陸へ向かう。


たぶん、誰かの時間が皆の命になるというのは、そういうことなのだろう。

ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!

筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;

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