第73話 命の時間
大神官室を出ると、ナディアは施療院へ引き返した。
「随分と遠回りさせたね」
「私が聞きたかったことだもの。遠回りじゃないわ」
「ならよかった。じゃあ今度こそ、治癒と鎮静の話をしようか」
渡り廊下を進み、施療院へ入ったところで、若い神官がナディアを呼び止めた。
「神官長。北門の荷場で腕を挟まれた方が運ばれてきました。骨が折れているかもしれません」
「出血は?」
「擦り傷だけです。指は動きますが、腫れが強くなっています」
ナディアは頷き、俺たちを振り返った。
「悪いけど、話は少し後になるね」
「治療するところ、私たちも見てていいかしら」
セレスがすぐに尋ねた。
「邪魔はしないわ。話だけじゃなくて、実際にどう使うのかも知っておきたいの」
「あたしは構わないよ。あとは本人がいいと言えばね」
若い神官の後を追って、廊下の奥にある部屋へ入った。
低い寝台に、中年の男が腰掛けていた。
左の袖は肘の上まで切り開かれ、前腕が布を敷いた台へ載せられている。
手首から肘にかけて紫色の痣が広がり、真ん中が大きく腫れていた。擦れた皮膚からは、まだ細く血が滲んでいる。
男の隣には、荷場から付き添ってきたらしい若者が立っていた。
「何に挟まれたんだい?」
ナディアは男の腕へ触れる前に尋ねた。
「荷車だ。車輪を外そうと持ち上げたら、支えが外れた」
「指は動かせるかい?」
男がゆっくりと指を曲げる。
「痺れは?」
「ない。けど、動かすと腕の奥まで痛む」
ナディアは指先の色と温かさを確かめてから、腫れの周りへ少しずつ触れていった。
男の肩に力が入り、息が何度か止まる。
「骨が折れてるね。幸い、大きくはズレてないよ」
「治るか?」
「治るよ。ただ、今日ここで元通りとはいかないよ。しばらくは腕を使えないね」
「使えないって、仕事が――」
「無理すれば、かえって仕事に戻るのが遅くなるだけだよ」
男は口を閉じた。
隣の若者が、任せろと言うように男の肩へ手を置いた。
ナディアは男へ、俺たちが治癒と鎮静について話を聞きに来たことを伝えた。
「治療の邪魔はさせないよ。見られたくなければ、外で待たせるけど」
男は一度俺たちを眺めた。
「俺は構わないよ。治してもらえるなら、それでいい」
俺たちは寝台から離れた壁際へ寄った。
若い神官が、男の腕についた血と土を湯で洗い流す。
薬草を浸した布で傷の周りを拭くと、ナディアは台の横へ椅子を寄せた。
男の腕を両手で包み、目を閉じる。
唇が小さく動いた。
柔らかく淡い黄色い光が、ナディアの掌から男の腕へ広がった。
光は腫れたところだけでなく、指先から肘の上までを薄く覆っている。
擦り傷の表面に薄い皮膚が張り、滲んでいた血が止まった。紫色の痣も、膨らんだ腕も、そのまま残っていた。
男が歯を食いしばる。
光が消えた時には、男の額に汗が滲んでいた。
「腕の奥が、熱いな」
「治ろうとしてるからね。指を動かしてみな」
男が指を開き、また握った。
「さっきよりは動くな。まだ痛いけど」
「分かってるよ。まだ終わりじゃないからね」
若い神官が擦り傷へ薬草を浸した布を当てる。
ナディアが細長い板を腕の両側へ添えると、若い神官がその上から布を巻いていく。
肘から手首までが、2枚の板で固定された。
板がずれないことを確かめると、ナディアはもう一度、男の腕へ両手をかざした。
今度は淡い藍色の光が滲んだ。
村で、ルークの掌に広がったものと同じ色だった。
男は一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。
強張っていた肩が下がり、寝台の縁を掴んでいた右手も緩んでいく。
光が消えても、腕の腫れは残っている。
「どうだい?」
「痛むのは痛む。けど、さっきみたいに脈打つたびに響く感じはない」
「それくらいでいい。今日は腕を胸より高くして休みな。3日後にもう一度見せにおいで。指が痺れたり、色が変わったりしたら、それを待たずに来ること」
男は固定された腕を抱えるようにして立ち上がった。
「仕事には、いつから戻れる?」
「最低でも10日は休みな。10日経ったら、働いていいか見せにおいで。痛みが引いても、勝手に板を外すんじゃないよ」
男は何か言い返しかけたが、隣の若者に背中を押され、そのまま部屋を出ていった。
戸が閉まると、ナディアは使った布を一つにまとめた。
「待たせたね。今のが、あたしたちの施療だよ」
ルークは自分の掌を開いた。
皮の剥けていたところには、薄い新しい皮膚が張っている。
「最後のは、俺が村でやってもらったのと同じだな」
「鎮静魔法だね。手はもう痛まないのかい?」
「強く握ると少しだけな」
「なら、まだ治り切ってないね。痛むほど握るんじゃないよ」
ルークは手を閉じかけ、途中で止めた。
レオンが尋ねた。
「最初の治癒魔法で、折れた骨はどこまで治ったんですか?」
「傷口を塞いで、骨が自分で繋がっていけるところまでは整えたよ。あとは、あの人の身体が治していく」
「治癒魔法を続けても、今日のうちに治し切ることはできないの?」
セレスの問いに、ナディアは首を横に振った。
「あたしには無理だね。神聖大陸には、骨までその場で繋げられる人もいるそうだけど、こっちの治癒魔法はそこまでは届かないよ」
「だから、あそこでやめたの?」
「やめたんじゃないよ。あそこから先は、あの人の身体の仕事なんだ」
ナディアは、男が出ていった戸を示した。
「治癒魔法で、自分で治っていけるところまで整える。それが、こっちの治療だよ」
「最後の鎮静魔法も、身体が治るのを助けるため?」
「痛みと熱で眠れなければ、身体もろくに休めないからね」
「でも、鎮めすぎれば、治ろうとする働きまで弱くなる」
「そういうこと。だから、眠れるくらいには鎮める。でも、傷を忘れるほどには鎮めない」
「必要な働きは残して、休ませる分だけ鎮めるのね」
「そうできれば、だよ。きれいに分けられるわけじゃない」
ナディアは、男が座っていた寝台へ手を置いた。
「顔を見て、息を聞いて、身体から余計な力が抜けるところを探す。眠れそうなら、そこで止める。同じ怪我でも、痛み方も疲れ方も違うからね」
「魔力の扱い方だけを切り取っても、足りないのね」
「目の前の人を見ずに使える魔法じゃないからね」
「3日後も、同じ施療をするんですか?」
レオンの問いに、ナディアは首を横に振った。
「状態を見てからだね。骨が自分で繋がっているなら、余計なことはしない。痛みが強すぎるなら鎮めるし、治る力が足りなければ、もう一度手を貸す。その時に必要な力を使うのさ」
「治癒魔法とは、反対のことをしているように見えたわ」
「そうだよ。片方は身体を働かせて、片方は休ませる」
「でも、どちらも治すためのものなのね」
「身体を働かせるだけじゃ休めないし、休ませるだけじゃ傷は治らないからね」
「私たちは、片方を光属性、もう片方を闇属性と分けて考えていたわ」
「こっちじゃ、治癒と鎮静で分けるだけさ。どっちも施療に使うものだからね」
ナディアは、台に残っていた予備の板を持ち上げた。
「それに、あの人を治すのは魔法だけじゃない。板で固定して、食べて、眠って、時間をかける。どれが欠けても、治るものも治らないよ」
ナディアは板を台へ戻した。
「兄さんから聞いたろう? 神様は旅を見守っても、代わりに歩いてはくれない。施療も同じさ。あの人が治るまでの時間を、あたしたちが代わりに過ごすことはできないんだよ」
魔力の動かし方だけでは足りない。
たぶん、ナディアが言っているのはそういうことだ。
今の俺には、まだ全部は分からない。
それでも、いつか分かる時が来る。なぜか、そんな気がした。
気づけば俺は、分かったような顔で頷いていた。
ハキームから聞いた、旅を見守る神の話が、もう一度頭に浮かんだ。
古い石と今の町。死者と生者。黄色い光と藍色の光。
俺たちが別々に置いていたものは、この大陸ではどれも同じ暮らしの中にあった。
俺たちが光と闇の間に引いていた境目は、あの腕の上にはなかった。
2つの光は、もう消えている。
それでも、男の腕が治るのはこれからだ。
食べて、眠って、痛む腕を使わずに過ごす。
その時間を重ねた先で、ようやく元のように動かせるようになる。
魔法が消えた後も、施療は男の身体の中で続いていく。
セレスは、男の腕が置かれていた台を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「……命は、時間なのね」
ナディアが、わずかに目を見開いた。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。




