第72話 死とともにある大陸
大峡谷から戻った翌日も、俺たちは町の周りを歩いた。
西の丘には、宿の主人が話していたとおり、長い壁だけが残っている。
途切れた壁の間には畑へ下りる道が通され、日当たりのいい壁の上では、香草を入れた籠が幾つも干されている。
南の放牧地では、白い石柱を繋ぐように柵が組まれ、その中で羊が草を食んでいた。
羊飼いに尋ねても、柱が元は何だったのかは分からない。ただ、先代が柵を作った時にはもうそこに立っていて、動かそうとしても動かなかったという。
見に行く先々で、過去文明の残骸が暮らしの中へ取り込まれていた。
どれも大峡谷で見た建造物ほど俺たちを圧倒するものではない。
けれど、一度あの断崖を見た後では、道から覗く石も、家を支える壁も、土の下に沈む別の時代の端に見えた。
足元の土を一枚剥がせば、俺たちの知らない文明が、すぐそこから現れる。
今の町も、積み重なった時代の一番上を薄く覆っているだけなのかもしれなかった。
そうして迎えた3日目の昼前、俺たちはもう一度、大神殿の門をくぐった。
◇
受付の神官に名前を告げると、俺たちは大神殿の東側にある施療院へ案内された。
白い廊下の両側には幾つもの部屋があり、開いた戸口から薬草を煎じる匂いが流れてくる。
腕を吊った男が家族と話し、別の部屋では、神官が泣く子供の膝へ布を巻いていた。
案内役に勧められ、俺たちは中庭に面した長椅子へ座った。
待っている間にも、藍色の帯を掛けた神官たちが何度も前を通る。
水の入った桶を二人で運ぶ者もいれば、抱えた記録を読みながら早足で歩く者もいた。
この一角だけを見れば、神殿というより町の診療所をそのまま大きくしたような場所だった。
しばらくして、向かいの部屋から一人の女が出てきた。
白い衣の裾には乾いた泥が残り、肩へ掛けた藍色の帯も端が少し擦れている。
女は部屋の中に声を掛けて戸を閉めると、俺たちの前まで来た。
「待たせたね。治癒と鎮静を一緒に聞きたいっていう、外からのお客はあんたたちかい?」
「はい。お時間を取っていただいて、ありがとうございます」
セレスが立ち上がると、女は空いた長椅子を手で示した。
「座ったままでいいよ。北を回って戻ったばかりでね。あたしも、立ったまま堅い挨拶をする元気は残ってないんだ」
女は俺たちの向かいへ腰を下ろした。
「施療院を預かってる神官長のナディアだ。まず、何を知りたい?」
セレスは一度口を開きかけ、俺たちの顔を見た。
「その前に、別のことを聞いてもいい?」
「治癒と鎮静の話じゃなかったのかい?」
「そのつもりだったのだけれど、昨日、北の大峡谷を見てしまって」
「……ああ。何が気になった?」
「地層は下に行くほど古いものでしょう? なのに、ずっと下の層にも、どうやって造ったのか見当もつかない遺跡があったわ。どうしてあんなふうに重なっているのか、大神殿なら何か知っているかしら?」
ナディアはすぐには答えなかった。
「あんたたち、町へ着いてまだ3日だろう?」
「ええ」
「よくあそこまで行ったね」
「昨日、町の人に案内してもらったの」
ナディアは頷いた。
「あれを見た後じゃ、治癒の話から始めても、遺跡の方が気になるだろう?」
「そうね。気になってるわ」
ナディアは立ち上がった。
「先に大神官様のところへ行こうか。あの谷のことなら、あたしよりずっと詳しいよ」
◇
施療院を出たナディアは、大神殿の中央へ続く渡り廊下を進んだ。
「大神官様って、いきなり会えるものなのか?」
ルークが尋ねても、ナディアは振り返らなかった。
「大丈夫、大丈夫。あたしが連れていけば、会ってはくれるさ」
施療院と渡り廊下で繋がった中央棟へ入ってからも、入口で名を告げることも、誰かに取り次ぎを頼むこともない。
すれ違う神官たちはナディアに会釈し、中には北の村の様子を尋ねる者もいた。
ナディアは短く答えながら階段を2階分上り、廊下の突き当たりにある部屋の前で足を止めた。
戸を二度叩き、返事を待たずに開ける。
「兄さん、お客さんだよ」
俺たちがナディアを見た時には、本人はもう部屋の中へ入っていた。
窓際の机に向かっていた男が顔を上げた。
ナディアより幾つか年上に見える。
白い衣も藍色の帯も、廊下にいた神官たちと大きくは違わない。
机の端には巻いた書類が積まれ、その隣に、半分に割った平焼きのパンが置かれていた。
「せめて返事を待ちなさい」
「待ったら、忙しいって断るだろ」
「実際、忙しいんだ」
「だから待たなかったんだよ」
男は何か言い返しかけ、俺たちが戸口に立ったままだと気づいて小さく息を吐いた。
「騒がしくてすまない。ナディアの兄で、大神官を務めているハキームだ。入ってくれ」
ナディアが壁際の椅子を俺たちへ勧めた。
俺たちが席に着くと、ナディアはハキームの机へ歩み寄った。
「この人たち、北の大峡谷を見てきたんだって。治癒の話を始める前に、あの谷のことを聞きたいそうだよ」
ハキームは椅子へ座り直した。
「それで、何が気になったんだい?」
レオンが、地層の示す年代と、そこに埋まる建造物の技術が噛み合っていなかったことを説明した。
ハキームは口を挟まず、最後まで聞いていた。
「結論から言えば、大神殿にも答えはない。ただ、あれを一つの町や、一つの時代の跡だとは考えていないよ」
「いつ頃から、そう考えられているんですか?」
「年代を確かめられるものでは、1000年ほど前の記録が一番古い。その記録を書いた神官も、さらに古い記録を読んだと残している。そちらはもう失われたけれどね」
「その頃には、もう遺跡だったのか」
ルークの問いに、ハキームが頷いた。
「谷の形まで今と同じだったとは限らないよ。崖が崩れれば、隠れていたものが出てくる。反対に、見えていたものが埋まることもある。それでも、上と下では残されたものの造りが違うという記述は、古い記録にも繰り返し出てくる」
「一つの文明が続いたのなら、下から上へ、造り方にも繋がりがあるはずだ。けれど、あの谷にはそれがない。深い層に、今の私たちには造り方も分からないものがある。その上に、もっと素朴な建物が埋まっている場所もある」
「どうして、それぞれの時代が終わったのかも分からない。一つの理由を当てはめようとすると、必ず説明のつかない層が残る」
分からないと、ハキームはあっさり言った。
「私たちが知っているのは、あそこに幾つもの時代を生きた者たちがいて、今の私たちが、その残したものの上で暮らしていることだけだよ」
昨日、大峡谷を見下ろしながらヨナが言った言葉を思い出した。
――あたしたちも、いずれこの風景の一部になるのさ。
あれは諦めではなく、この土地に積み重なった時間を、ヨナなりに受け止めた言葉だったのかもしれない。
ルークが口を開いた。
「それで、町の連中は遺跡をあんなふうに使ってるのか?」
「危険なものや、調べる必要のあるものは大神殿で管理しているよ。それ以外まで、古いというだけで暮らしから切り離していたら、この町は成り立たない。使えるものを使っているだけだよ。先にいた者が置いていったものを、今ここにいる者が使う。私たちにとっては、ごく当たり前のことなんだ」
「置いていったって、旅立った人のものみたいに?」
セレスが尋ねると、ハキームは頷いた。
「そうだよ。誰が何のために造ったのか分からなくても、ここで暮らした者がいて、やがて旅立った。残されたものをどう使うかは、生きている側が考えることだ」
「亡くなった人も、旅立ったと考えるのね」
「この大陸では、死ねばすべてが終わるとは考えないんだ」
ハキームは椅子の背へ身体を預けた。
「夜になれば、誰でも眠るだろう。その間は、自分という意識を手放している。それでも朝が来れば、また目を覚ます。私たちにとって、死もそれに近い。魂は長い夜へ入り、死出の旅路を終えた後、もう一度この世に生を受ける」
「死んだ後に、また生まれるってことか?」
ルークの問いに、ハキームが頷く。
「前の生の記憶は持たないけれどね」
「死んだ人は、もうこの世には戻らないものだと思っていたわ。神聖大陸では神の御下へ行くと考えるそうだけれど、また生まれてくるなんて話は聞いたことがない」
「そこは、この大陸とは違うね。私たちは、魂はいずれ次の生へ戻ると信じている」
「生まれ変わるのは、ずっと先のことなんですか?」
レオンが尋ねると、ハキームは首を横に振った。
「先とは限らないよ」
「先とは限らない?」
「魂の旅が、私たちの暦と同じ向きに進むとは考えていないんだ。次に生を受ける時代が、今より前であることもある。自分の子が、遠い先祖として生まれ直すことだってあると、私たちは考えている」
すぐには意味が掴めなかった。
死者がもう一度生まれるというだけでも、俺たちの知る死とは違う。その先が未来とは限らず、今より前に生きた者として戻るという。
大峡谷を見ていなければ、理解するより先に、そんなはずはないと考えていたかもしれない。
「だから、墓も暮らしから離さないの?」
「墓は、魂を閉じ込めておく場所ではないからね。旅立った場所から、その道中の無事を願うためのものだよ」
宿の少女が、祖母の墓へパンを置いていた。
「あのパンも、旅支度なのね」
セレスが呟くと、ハキームは小さく頷いた。
「旅を終えれば、魂はまた生きている側へ戻る。ただ、前の生を覚えてはいないし、誰が誰として戻ったのかを確かめることもできない。だから私たちは、旅立った魂を探そうとはしない。今ここにいる命を、その者の生として大切にする」
「旅を守る神様は、魂を次の生まで連れていくの?」
「連れていくというより、見守るという方が近いね。神が魂を裁くことも、どこかで審判を下すこともない。ただ、生きている間の行いは、そのまま死出の旅路へ持っていくことになる。生を蔑ろにすれば、死からも反目される。何を選び、どう生きたかで、旅路の険しさは変わるんだ。その道中を見守り、魂がより良い次の生へ辿り着けるよう守るのが、私たちの神だよ」
ルークが腕を組んだ。
「それなら、死ぬのは怖くないのか?」
「怖くないよ」
ハキームは迷わず答えた。
「夜が来るたび、もう朝が来ないのではないかと怯える者はいないだろう? 明けない夜はない。死も、次の生へ向かうために訪れる夜だ」
「だからといって、自分から夜を早めるものでもない。昼には、昼にしかできないことがある。生を粗末にすることは、その先にある死も、次の生も粗末にすることだからね」
「兄さんには、昼のうちに片づける仕事が山ほど残ってるしね」
「朝には、その倍あったはずだが」
「半分はあたしが片づけたよ。兄さんにしか決められないものだけ、きれいに残してあるから」
ハキームが机の上の書類へ視線を向け、わずかに顔をしかめた。
「それは、ずいぶん親切だね」
「兄思いの妹でしょ」
ハキームは何か言いたそうにナディアを見たが、やがて諦めたように息を吐いた。
レオンが口を開いた。
「死とともにある大陸というのは、死を受け入れているという意味だったんですね」
「それだけでは半分だね」
ハキームは答えた。
「私たちは、死を生の反対には置かない。生も死も、魂が巡る途中で形を変えた姿にすぎない。外へ伝わる間に、夜の後にはまた朝が来るという方が抜け落ちたんだろう」
机の端には、半分に割られた平焼きのパンが残っていた。
宿の墓前に置かれていたのも、あれと同じパンだった。
あちらは旅立つ者に持たせるためのもの。こちらは、生きている者が食べるためのものだ。
けれど、この大陸では、その二つの間に俺たちが思っていたほど深い溝はない。
旅を終えた魂は、いつかまた、生きている側へ戻ってくる。
死者を使役し、命を軽く扱うような土地だと勝手に想像していた俺は、死の先まで見つめるこの大陸の人々が、だからこそ今ある命を何よりも大切にしていることを、ようやく知った。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。




