第70話 古い石の上で
セレスが父親への返事を受付へ預けると、治癒と鎮静の話を取り次いでくれた神官が奥から戻ってきた。
「治癒と鎮静について、話を聞きたいとのことですね」
「はい。できれば、それぞれの魔力の扱い方を実際に教えていただける方を紹介していただきたいのですが」
「担当できる者はおります。ただ、今朝方、北の村々を回る巡回施療へ出てしまいましてね。大神殿へ戻るのは、3日後の朝を予定しているとのことです」
「3日後……」
「治癒か鎮静のどちらかを扱える者はほかにもおりますが、今は施療で手が塞がっていまして。両方に通じた者となると、戻りをお待ちいただくのがよろしいかと」
「分かりました。お待ちします」
「3日後の昼前でしたら、お時間を取れると思いますよ。宿が決まりましたら、受付へお知らせください。予定が遅れた場合は、こちらからご連絡します」
神官は机の下から紙を1枚取り出した。
大神殿の宿坊は、施療や祈祷のために長く滞在する者で埋まっているらしい。
代わりに、南門の外にある旅人向けの宿を何軒か教えてくれた。
紙の上に、門から宿までの道が描かれていく。
「途中に、上部の欠けた古い柱があります。その先を右へ曲がれば、宿の看板が幾つか見えるはずです」
最初の分かれ道に柱が1本、その先に宿の並ぶ一角が書き加えられた。
「神聖大陸へ向かう船のことも、こちらで尋ねられると聞いたのですが」
レオンが言うと、神官は筆を置いた。
「定期船はありませんが、神聖大陸と取引を続けている商人はおります。こちらでも何人か当たってみますね」
「ありがとうございます」
「宿をお知らせいただければ、何か分かった時にそちらへご連絡します」
俺たちは地図を受け取り、大神殿の受付を離れた。
南門へ向かう途中、ルークはレオンの手元で開かれた地図を覗き込んだ。
「今日の予定は、宿まででいいよな?」
「航路を探すのは明日からだ」
「助かる。部屋に入ったら、明日の朝まで1歩も出ないぞ」
セレスがいたずらっぽく目を細めて言った。
「なら、食事の準備ができても置いていくわね」
「ごめんなさい。全力で動きます!」
レオンが笑った。
◇
門を抜けると、香草と油の匂いが風に混じっていた。
荷車が巻き上げる乾いた土。籠へ積まれた果物の甘い香り。炭火の煙も、風向きが変わるたびに流れてくる。
門前の広い道には、白い石造りの建物が並んでいた。
平らな屋根を厚い壁が支え、入口の両脇に立つ角柱は上へ行くほど僅かに細くなっている。
大神殿ほど大きくはないが、直線の多い形も、壁を埋める浮彫もよく似ていた。
その間を、荷車と人が途切れずに行き交っている。
祈りを終えて帰る者。大神殿へ向かう家族。布を担いだ商人。焼き上がった平たいパンを籠へ移す女。
店先では客と主人が値段を巡って声を張り上げ、隣では買い物を終えた女たちが立ち話を続けていた。
走ってきた子供が果物の籠へぶつかり、転がった実を拾いながら店の男に叱られている。
昨日の漁村で見た穏やかな暮らしは、あの村だけのものではなかったらしい。
大神殿の門前まで来れば、もう少し静かな場所を想像していた。
けれど、目の前の町は、売り買いの声と子供たちの足音、それに夕食の匂いで満ちている。
「思っていたより、ずっと賑やかなところね」
走ってきた子供に道を譲り、セレスが笑った。
俺も似たようなものを想像していた。
「死とともにある大地」という言葉から勝手に思い描いた景色は、ここにもなかった。
最初の分かれ道は、地図で確認しなくても分かった。
道の中央に、上半分を失った白い柱が立っている。
表面は雨風に削られ、残った模様の窪みには黒い土が入り込んでいた。
柱の根元には木枠が組まれ、そこから張られた布が露店の屋根になっている。
模様の残る石の台座には、買ったばかりのパンを分け合う子供たちが腰掛けていた。
「あれだね」
レオンが地図と柱を見比べる。
その時、大きな荷車が分かれ道へ入ってきた。
柱から張られた縄が邪魔になり、そのままでは荷台の壺が布へぶつかる。
露店の女は束ねていた紐を置き、近くにいた男へ声を掛けた。2人で縄を緩め、布屋根の端を持ち上げる。
荷車が通り抜けると、今度は御者まで降りてきて、3人で屋根を元へ戻した。
荷車を見送り、ルークが縄の結び目を締める女へ声を掛けた。
「その柱も、店の一部なのか?」
女は縄を掛けた柱を見上げた。
「店よりずっと前から立ってるけどね。昔から日除けを結ぶのに使ってるよ」
女は結び終えた縄を引いて確かめ、店先へ戻っていく。
レオンは柱へ近づき、削れかけた模様を見上げた。
セレスも隣へ並ぶ。
「この辺り、枝みたいに見えない?」
「僕には波に見えるな」
「……そう言われると、波にも見えてくるわね」
見る角度を変えても、どちらとも決められなかった。
レオンが柱から離れると、俺たちも道の右側へ進んだ。
古いものは、柱だけではなかった。
道の端を流れる水路では、細かな模様の残った石の上を木の葉が滑っていく。
子供たちは先回りしてしゃがみ込み、どの葉が最初に橋の下へ入るかを競っていた。
「右の葉」
セレスが小さく言った。
「じゃあ、俺は左だ」
ルークが答える。
2枚の葉は水の上で何度か入れ替わり、右の葉が先に橋の下へ消えた。
セレスはルークへ勝ち誇った顔を向けた。
ルークは何も言わず水路から顔を背けた。
井戸の縁には、翼にも見える曲線が残っている。
その上には、水を汲みに来た人たちの桶が置かれ、こぼれた水が白い石を濃く染めていた。
家の土台から覗く青みがかった石の上には、洗ったばかりの籠が伏せて干されている。
「ルーク、足元」
セレスに言われ、ルークが足を止めた。
靴の下から、幾重にも重なった曲線が半分だけ覗いている。
模様のある石が、ほかの敷石と一緒に道へ埋め込まれていた。
ルークは足をずらしたが、そこにも細い模様の一部が残っていた。
足の置き場を探している間にも、町の人々は俺たちの脇を通り、同じ敷石の上を歩いていく。
ルークは諦めて、そのまま歩き出した。
古い石を避けてこの町を歩くのは、無理らしい。
◇
宿は、2つ目の分かれ道を右へ曲がった先にあった。
大きな中庭を囲む2階建ての建物で、入口の左側だけが周囲とは違う石でできている。
僅かに青みを帯びた壁が、地面から2階の屋根近くまで継ぎ目なく伸びていた。
青い壁と中庭側の柱との間には、後から加えたらしい梁が何本も渡されている。
古い壁を片側に取り込み、そこへ宿を継ぎ足したように見えた。
中へ入ると、帳場にいた男が顔を上げた。
「4人で泊まりたい。2部屋空いてるか?」
「空いてるよ。男3人で1部屋、そっちのお嬢さんが1人でいいかい?」
「ああ」
「湯は中庭の奥だ。夕食は日が沈んでから。洗濯物は中庭を使ってくれればいい」
主人は壁から鍵を2つ外した。
宿が決まったことを大神殿へ知らせたいと頼むと、主人は帳場の紙へ俺たちの名前を書き留めた。
「明日の朝でよければ、届けておくよ」
「頼む」
主人は鍵を手に、客室へ続く廊下へ入った。
レオンは入口脇の青い壁を通り過ぎたところで足を止めた。
「この壁は、宿より前からあったんですか?」
「ああ。ひい爺さんが宿を始めた時には、もう立ってたそうだ」
主人が壁を拳で叩くと、低い音が返った。
「新しい方は2度直したけど、こっちは1度もない。雨も風も通さないから、そのまま使ってるんだ」
「この模様、どういうものなんですか?」
セレスが尋ねると、主人は首を振った。
「さあ。親父も爺さんも知らなかったらしい」
「何の壁か分からなくても、気にならないんですか?」
「雨漏りする壁よりは、よく眠れるよ」
主人は再び廊下を進んだ。
青い壁は、途中で途切れることなく客室まで続いていた。
案内された部屋も、1面だけが同じ石でできていた。壁には掌ほどの四角い窪みが幾つかあり、主人はその1つへ油皿を置いた。
隣の窪みから畳んだ布を取り出し、寝台の上へ置く。
「鍵は出る時に帳場へ預けてくれ。なくすと困るから」
主人は俺たちへ鍵を渡し、部屋を出ていった。
2つの部屋を見て回り、セレスが片方を、俺たち3人がもう片方を使うことにした。
着替えは本船に残したままだ。今の服を洗っても、乾くまで身につけるものがない。
俺たちは剣と手回りの品を置くと、中庭の奥で湯を借りた。着替えと、漂流中に使い切った旅用品は、明日市場で揃えることにした。
◇
日が沈み、食堂から食器の触れ合う音が聞こえ始めた。
俺たちが部屋を出ると、セレスもちょうど隣の扉に鍵を掛けていた。
ルークが真っ先に階段へ向かう。
「明日の朝まで、部屋から出ないんじゃなかったかしら」
セレスが言うと、ルークは振り返った。
「全力で動くって言っただろ」
ルークは俺たちを置いて、先に階段を下りていった。
夕食には、香草を詰めて焼いた魚と豆の煮込み、それに柔らかい平焼きのパンが出た。
ルークは包帯の巻かれた手で匙を持ち、1皿目を空けると、主人へおかわりを頼んだ。
食事の間も、レオンは入口から続く青い壁を何度も眺めていた。
「そんなに気になるなら、北の塔も見てくるといいよ」
空いた器を取りながら、主人が言った。
「塔があるんですか?」
「町外れの麦畑に、半分埋まった古い塔がある。西の丘には壁だけ残ってるし、南の放牧地じゃ古い石を羊囲いに使ってる」
「私たちが見に行っても大丈夫なの?」
セレスが尋ねた。
「麦畑はヨナの家のものだ。塔まで畦道を通らせてもらうことになるから、先にひと声掛けておくといい」
主人は重ねた器を抱えた。
「塔には持ち主なんていないから、見るだけなら構わないよ。中へ入るなら、足元には気をつけた方がいい。去年、羊が1頭落ちたんだ」
禁書庫の扉と関係があると思ったわけではない。
それでも、この町に何が残っているのか、もう少し見ておきたかった。
そこへ、主人によく似た顔の少女が、小さな皿を持ってやってきた。皿には、夕食と同じパンが1切れ載っている。
「お父さん、おばあちゃんのところへ行ってくる」
「行っておいで」
少女は中庭を横切り、裏庭へ続く戸を開けた。
戸の向こうには、香草を植えた小さな庭があった。
その端に、人の膝ほどの石が幾つか並んでいる。
石と石の間にも香草が植えられ、傍らには水差しと土のついた小さな鍬が置かれていた。
少女は1つの石の前にしゃがみ、表面についた砂を手で払った。
「おばあちゃん。今日は海から来た人が泊まってるよ。4人も」
石の前へ皿を置き、話を続ける。
「手に白い布を巻いた人が、もう2皿食べたんだよ」
ルークが声を落とした。
「あれ、墓なのか?」
「ああ。俺の母親だ」
「宿の庭に?」
「母もここで暮らしていたからな」
主人は抱えていた器を持ち直した。
「共同墓地で見送られる者もいれば、家のそばで見送られる者もいる。母は、ここがいいと言った。それだけさ」
少女が立ち上がり、戸口へ向かう。
ルークは墓石の前に残されたパンを見た。
「あのパン、朝になったらどうするんだ?」
「残っていれば、細かくして鳥にやるよ。旅支度は、ここへ置いた時に渡したことになるから」
主人が答え、戸口まで来た少女がルークへ言った。
「おばあちゃんの旅が安全でありますようにって、パンを持っていってもらうんだ」
「どこまで行くの?」
セレスが尋ねると、少女は両腕を大きく広げた。
「ずっと遠く。死んだ人は、みんな長い旅をするんだって」
少女は食堂へ入ると、空いた皿を重ね始めた。
主人も器を抱えたまま、少女と一緒に厨房へ戻っていった。
宿へ来る途中、子供たちは古い柱に腰掛けてパンを分けていた。
今は別の子供が、墓石の前に夕食のパンを置いている。
「死とともにある大地」という言葉が、少しだけ違って聞こえた。
しばらくして、ルークが言った。
「明日、買い物が終わったら北の塔だよな?」
「そうだな」
「だよな!聞くまでもなかった」
「神官に会う前に、この土地をもう少し歩いて、人の話も聞いておきたいからな」
「賛成。まだ、この町のこともほとんど知らないもの」
セレスが弾んだ声で言った。
神官に会えるまで、あと3日。
もう、ただ待つだけの時間ではなかった。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
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