第68話 幽冥大陸へようこそ
男は、立ち尽くす俺たちの顔を順に見た。
「村へ来るんだろ?」
「ああ」
答えたものの、足はすぐには動かなかった。
遠くには白い大神殿が見えている。黄色い花の向こうでは羊が草を食み、畑に立つ男が鍬を振るっていた。
さっきまで神聖大陸だと思って見ていた景色だ。
「なあ」
ルークが声を落とした。
「幽冥大陸って、こんなところなのか?」
「少なくとも、僕たちが聞いていた話とは随分違うね」
幽冥大陸について、荒漠大陸まで伝わっている話は多くない。
死とともにある大地、閉鎖的で陰鬱な住民、呪いやまじないを生業としているなど、おおよそ否定的な印象ばかりだ。
どの話からも、目の前に広がる黄色い花や羊の群れは想像できなかった。
レオンは、道の両側に広がる畑を見た。
セレスは何も言わず、白い大神殿を見たあと、道の先に並ぶ家々を見た。
「歩けるなら来い。話は飯を食ってからでもできる」
男が肩の網を掛け直し、坂を下り始める。
俺たちは顔を見合わせ、その後を追った。
坂を下りながら、男が海の方を顎で示した。
「乗ってきた小舟は?」
「この丘の下の浜だ。小型艇は岩に繋いである」
「あそこは夕方になると潮が満ちるからな。村の若いのに、入り江まで回させよう」
「頼めるか?」
「二艘あれば曳ける。沖の連中もじきに戻るから、嵐の後に大きな船を見なかったか、聞いてみよう」
レオンが男の隣へ並んだ。
「お願いします。本船が今どこにいるのか、僕たちには見当もつかないので」
男は頷き、そのまま俺たちを村へ案内した。
◇
白い石を積んだ家々が、丘の斜面に沿って並んでいた。
軒下では小魚が干され、家と家の間には洗った漁網が渡されている。
井戸のそばでは女たちが布を洗い、道端では子供が貝殻を使って何かの形を作っていた。
俺たちに気づいた子供たちが、一斉に顔を上げる。
潮と砂で汚れた服を見て、次に腰の剣を見た。最後に、先頭を歩く男へ視線を向ける。
「遭難した旅人だ。道を空けてやれ」
子供たちは素直に脇へ退いた。
ただし、俺たちが通り過ぎると、揃って後ろからついてきた。
一匹の犬まで列に加わり、ルークの濡れた靴を嗅いでくしゃみをする。
子供たちが笑い、ルークが自分の靴を見下ろした。
「そんなに臭うか?」
もう一度嗅ごうとした犬は、今度は子供に抱き上げられた。
村の中央にある大きな家へ入ると、魚と香草の匂いがした。
長い卓の奥で、年配の女が大鍋をかき混ぜている。
男が事情を話すと、女は俺たちを上から下まで見回した。
「随分ひどい格好だね。まずは座りな」
言われるまま卓につく。
女は深い椀へ魚と豆の煮込みをよそい、厚く切ったパンと一緒に並べていった。
ルークは礼を言ってから匙を取り、一口食べた。
「うまい!」
「まだあるから、ゆっくり食べな」
女が笑い、鍋の蓋を戻した。
俺も煮込みを口へ運ぶ。
入っているものは船で出た煮込みと大して変わらない。
それでも、温かい汁には魚の旨味が溶け、豆には塩気が染みていた。
パンも、歯で割らなくていい硬さだった。
向かいでは、セレスが椀を両手で包んでいる。
立ち上る湯気に目を細め、ようやく小さく息を吐いた。
それからは、しばらく誰も話さなかった。
二杯目に差しかかった頃、白髪の男が入ってきた。
昼前に会った漁師が、その男へ俺たちを紹介した。
「神聖大陸へ行くつもりだったそうだな」
白髪の男は俺たちの向かいへ腰を下ろした。
「ああ。西部のアークノルト辺境伯を訪ねる予定だった」
「ここから一番近い大きな港でも、荷車で四日はかかる。急ぐなら、まずは大神殿で人を探した方がいいだろう」
「どうして大神殿なんだ?」
「あそこには各地から人が集まる。大きな港を行き来する商人もいるし、神聖大陸と取引している者もいる。すぐに船が見つかるとは言えんが、当てのないまま港へ向かうよりはましだ」
「大神殿には、通信術式もあるの?」
セレスが身を乗り出す。
「ある。大陸の外へ送るとなれば、少し手続きは要るだろうがな」
「それなら、着いたら最初に使わせてもらいたいわ」
「子爵家へ知らせるのか?」
俺が聞くと、セレスは頷いた。
「本船が港へ着けば、私たちが戻れなかったことは商業ギルドから父にも伝わるはずよ。その前に、無事だと知らせたいの」
帰ってきたばかりの娘が、今度は海で行方不明になった。
それだけを先に知らされれば、父親がどうなるかは俺にも想像がつく。
「分かった。大神殿に着いたら、まずはそれだな」
「ええ」
男は窓の外に見える大神殿を指した。
「明日の朝、村から干物と塩を積んだ荷車を出す。荷台でよければ乗せていけるぞ」
「助かる。お願いしたい」
「なら決まりだ。出るのは朝一番だから、寝過ごすなよ」
◇
小型艇は、日が傾く前に二艘の漁船に曳かれ、村の入り江へ運び込まれた。
沖から戻った漁師たちにも聞いてくれたが、昨日から今日にかけて、大型船を見た者はいなかった。
本船と別れた後、俺たちの小型艇は操舵を失ったまま嵐に流された。
大型船が同じ場所まで流されている可能性は高くない。
それでも、手掛かりがないという答えは重たかった。
エミールたちは、今も俺たちを探しているかもしれない。
せめて次の港へ着いた時には、こちらの無事を知っていてほしかった。
「東と西の村へ魚を運ぶ連中にも話しておくよ。船影を見たという話が入れば、大神殿へ知らせる」
昼前に会った男が言った。
「そこまでしてくれるのか」
「海で困った時は、お互い様だ」
「ありがとう。助かるよ」
男は頷き、漁船から縄を外す作業へ戻った。
夕食までの間に、明日の荷車へ干物と塩を積むことになった。
ルークが塩の袋を持ち上げようとしたところで、昼食を用意してくれた女が腕を掴んだ。
「その手で何をするつもりだい」
「これくらいなら運べる」
「いいから、見せな」
ルークが両手を開く。
掌は赤く腫れ、皮の剥けたところに乾いた血がこびりついていた。嵐の夜から何度も櫂を握った手だ。
女は呆れたように息を吐き、湯と布、それに薬草の入った小箱を持ってきた。
傷へ濡らした布が触れた途端、ルークの顔が歪む。
「っつ……!」
「こんなになるまで放っておいて」
「手まで気が回らなかったんだよ」
「だろうね。ほら、そこへ座りな」
ルークは渋々、長椅子へ腰を下ろした。
「荷物は三人で運ぶ。お前は休んでろ」
ルークは何か言いかけたが、自分の掌を見て口を閉じた。
女は傷の汚れを落とし、潰した薬草を両方の掌へ塗った。ルークの手を膝の上に並べさせ、その上へ両手をかざして目を閉じる。
聞き取れないほど小さな声で祈りを唱えると、指先から淡い藍色の光が滲んだ。
光は傷の周りへ広がり、すぐに消えた。
皮の剥けた傷は残っている。だが、その周りに浮いていた熱っぽい赤みは、少しだけ薄れていた。
ルークが恐る恐る指を曲げる。
「……痛みが引いた」
「腫れと熱を鎮めただけだよ。傷は塞がってないさね。動かせばまた開くからね」
女は細長い布を取り、掌へ巻き始めた。
「今のは、治癒じゃないのか?」
「私は治す方が苦手でね。鎮める方が性に合ってるんだよ」
レオンが口を開いた。
「今のは、闇属性ですか?」
「外では、そう呼ぶらしいね」
セレスは包帯を巻く手を見ながら、女へ尋ねた。
「大神殿では、どちらも教えているのですか?」
「ああ。最初はどちらも習う。その先は向き不向きさ」
ルークが、俺たち三人の顔を見回した。
「幽冥大陸でも、治癒を使うんだな」
女は包帯の端を結び、ルークの手を卓へ戻した。
「使うに決まってるだろう。怪我をするのは、どこの人間も同じだよ」
女にとっては、何の不思議もないことらしい。
けれど、俺たちは誰もすぐには返事ができなかった。
セレスが最初に口を開いた。
「大神殿へ行けば、私たちにも教えてもらえるのかしら?」
「神官に尋ねてみればいいさね。私よりは、よほど詳しいよ」
「アレン」
「子爵家へ連絡を入れたら、聞いてみよう」
「ええ」
神聖大陸へ渡る予定は、大きく狂ったままだ。
それでも、この漂着は思いがけない手掛かりに繋がるかもしれない。
そんな予感がした。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
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