第66話 ただいま漂流中
海へ取り残されてから、もうすぐ一日になる。
前日の嵐が去った海には、まだ大きなうねりが残っていた。小型艇は波の斜面をゆっくりと上り、頂を越えるたびに進む向きを変えていた。
「なあ」
艇の中央に座っていたルークが、唐突に口を開いた。
「何だ?」
「なんでお前、そんなにいつも通りなんだ?」
俺は日差しに当てていた毛布を裏返した。
「いつも通りって?」
「漂流してるんだぞ、俺たち」
「僕も聞きたい」
反対側に座るレオンが続けた。
「相当まずい状況だと思うけど」
艇首で海を見張っていたセレスが振り返り、無言で何度も頷いた。
「まだ慌てるような状況じゃないだろ」
「本船は見えねえ。舵は壊れた。機関は動いてるうちに入るかも怪しい。お前は、どこから慌てるつもりなんだよ」
「幸い、水も食料も三日分はある」
「三日分しかない、の間違いだろ」
「今日の分を使っても、あと二日分残るってことだ」
「言い方を変えても増えないよ」
「減りもしないだろ」
レオンが困ったように笑い、セレスが張りつめていた息を吐いた。
「その三日で何も見つからなかったら、どうするのよ」
「その時に考える」
「今から考えておいた方がよくないか?」
ルークの問いに、俺は艇の周りへ目を向けた。
見えるのは海だけだ。雲の切れ間から差す光が、波の頂を白く照らしている。
「三日後に海がどうなってるかも、俺たちがどこにいるかも分からない。まだ頭の中にしかない最悪を、今から怖がっても仕方ないさ」
「お前、本当に怖くないのかよ」
「不安がって船が直るなら、いくらでも不安がるんだけどな」
セレスが船尾の魔導機関を見た。
「……直らないわね」
「だろ? なら、海を見て、休める時に休む。次に何か起きた時に動ければいい」
◇
本船を見失った直後は、慌てる暇さえなかった。
操舵輪は空回りし、魔導機関は何度レバーを動かしても反応しなかった。
小型艇は横腹を波へさらし、次の波が来るたびに転覆しかけた。
ルークと俺は、舷側に固定されていた非常用の櫂を外した。
「船首を波へ向けるぞ!」
「分かってる!」
二人で櫂を海へ入れた。
水に掴まれたような重さが腕へかかり、櫂を持っていかれそうになった。
それでも艇の向きはほとんど変わらなかった。
「右から来る!」
セレスの声に、俺とルークは櫂を返した。
だが、船首が波へ向ききる前に、うねりが右舷を打った。
小型艇が大きく傾き、崩れた波が舷側を越えて艇内へ流れ込んだ。
俺とルークは、櫂を離すまいと腕に力を込めた。
セレスが舷側に固定されていた汲み出し用の桶を外し、溜まった水を海へ捨てた。
レオンも隣にあったもう一つを掴んだ。
二人が水を汲み出す間、俺とルークは船首を波へ向け続けた。
腕が限界を迎える前に、ルークが桶を受け取り、レオンが代わって櫂を握った。
セレスは桶を動かす合間に顔を上げ、次の波が来る方向を二人へ伝えた。
雨が弱まった隙に俺が座板を持ち上げると、その下に防水箱が収められていた。
中には、救難用の信号筒が二本入っていた。
一本目の赤い光は、風に流されながら雲の中へ消えた。
しばらく待ってから、もう一本を使った。
海のどこにも、応える光は上がらなかった。
本船がどちらにいるのかも分からない。帆柱らしき影が見えた気がしても、次の波に持ち上げられれば、そこには暗い海しかなかった。
夜になる頃には雨脚が再び強まり、風も収まらなかった。
櫂と桶を何度も受け渡しながら、夜が明けるまで動き続けた。
一度、ルークの手から櫂が滑りかけた。
俺がとっさに柄を抱え込み、二人がかりで引き戻した。
櫂を失えば、残る一本だけでは波へ船首を向け続けられない。
ルークは何も言わず、手の甲で目元の雨を拭った。
俺も何も言わなかった。
声をかける間に、次の波が来た。
どれほど経ったのか分からなかった。
雨の向こうが黒から灰色へ変わり始めて、ようやく朝が近いと知った。
風が弱まり、波の間隔が長くなってから、ようやく櫂を船内へ引き上げた。
俺たちは服の水を絞り、防水箱に入っていた毛布を濡れた身体に巻いた。
保存水を一口ずつ飲み、座板へ身体を預けた。
ルークが目を閉じた。
小型艇がうねりに持ち上げられ、船底が軋んだ。
ルークの目がすぐに開いた。
波が通り過ぎても、目を閉じ直すことはなかった。
しばらくして、魔導機関を調べた。
船尾をぶつけた衝撃で蓋が歪み、内部の術式は光を失っていた。
操舵輪から船尾へ伸びる連結部も折れ曲がっており、輪を回しても舵は動かなかった。
俺とレオンで歪んだ蓋を外し、手の届く範囲の海水を布で拭った。
魔導機関の仕組みを知らない俺たちにできたのは、それだけだった。
俺が起動部へ触れると、術式の一部に淡い光が走った。
すぐに消えた。
しばらく待ってもう一度起動部へ触れると、今度は船尾から低い振動が返ってきた。
「動くのか?」
ルークが覗き込む。
「確かめる」
俺は出力レバーを一番下まで戻してから、少しだけ上げた。
推進器が短く唸り、小型艇が前へ押し出された。
次の瞬間、出力が跳ね上がった。
船首が大きく左へ振れた。
ルークとレオンが右舷から櫂を入れたが、波に押されて向きが戻らなかった。
俺はすぐにレバーを下げた。
振動はすぐには止まらず、二度、三度と強弱を繰り返してから消えた。
「動くには動く、か」
ルークが操舵輪を回した。輪だけが軽く回り続ける。
「舵が利かないまま、あの出力は危ないよ」
レオンは櫂を船内へ戻し、左へ振れたままの船首を見た。
「それに、どこへ進むの?」
セレスが水平線を見回した。
艇には方位盤が備わっていた。
だが、海図はなく、昨夜のうちにどれだけ流されたかも分からない。
そもそも本船は、海図の記録と合わない潮流によって通常航路から西へ外れていた。
「東へ向かえば、本船か航路へ戻れるんじゃないのか?」
「本船も動いている。それに、潮の向きが分からないまま東へ進んでも、通常航路へ戻れるとは限らないよ」
俺は明滅を繰り返す術式を見て、機関の蓋を閉じた。
「このまま流されるのか?」
「今はな。次に動いても、どこまでもつか分からない。使うなら、向かう先が見つかってからだ」
ルークは海を睨んだまま、短く頷いた。
防水箱に収められていた非常食と保存水を数え、四人分に分けた。
昼前には雨が上がった。
雲の切れ間から差す日差しで濡れた服を乾かしながら、俺たちは交代で水平線を見張った。
太陽が頭上を過ぎても、海に船影はなかった。
◇
しばらく黙っていたルークが、船縁に背中を預けた。
「……お前がリーダーでよかったよ」
「急にどうした?」
「俺がリーダーだったら、とっくに全員で騒いでる」
「選ばなくてよかったな」
「僕たちがあの時アレンをリーダーにしたのは、一番いい判断だったのかもしれないね」
レオンが笑う。
「だろ?」
ルークは満足そうに頷き、セレスを振り返った。
「な?」
だが、セレスは答えなかった。
セレスは艇首に座ったまま、水平線の一点を見つめていた。
その目が大きく見開かれ、両手で口元を覆った。
「セレス?」
レオンが呼ぶ。
セレスは立ち上がり、海の向こうを指した。
「あれ……」
小型艇が、ゆっくりと波の斜面を上る。
頂へ押し上げられたところで、水平線の一部が途切れた。
低く、黒い影が横へ伸びている。
雲ではない。
波の谷へ下り、もう一度持ち上げられても、その影は同じ場所にあった。
「陸よ」
セレスの声が震えた。
「マジかよ!」
ルークが跳ね起き、艇首へ駆け寄った。
レオンも立ち上がる。傾いた艇の舷側を掴みながら、陸影から目を離さない。
俺は膝の上で、誰にも見えないよう拳を握った。
……良かった。
本当に、良かった。
根拠なんか、何もなかった。
水も食料も三日分しかない。機関は次に動く保証がなく、本船が俺たちを捜していたとしても、出会えるとは限らない。
悪い想像なら、いくらでも浮かんでいた。
それを口にしても、海が穏やかになるわけでも、陸が近づくわけでもない。いざ何かを見つけた時に動けるよう、三人の目を今できることへ向けておきたかった。
神様とやらがいるなら、今だけは礼を言いたい。
ゆっくりと拳を開く。
俺は三人へ向かって笑った。
「ほらな。余計な心配はいらなかっただろ?」
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
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