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第64話 神聖大陸へ行こう

海が見えるより先に、匂いが変わった。


乾いた土の匂いに湿った風が混じる。

馬車が最後の丘を越えると、その向こうに西の港と青い海が広がっていた。


俺たちが乗るのは、商業ギルドが共同で運航する神聖大陸行きの貨物船だ。

本来は客を運ぶ船ではなく、俺たち以外の乗客は、商人らしい父親と10歳の少年だけだった。


二本の帆柱を持つ船では、木箱や樽が次々と船倉へ下ろされている。舷側には小型艇が一艘、吊り索で固定されていた。


乗船者名簿との照合を終えると、日に焼けた船長が俺たちを呼び止めた。


「先に言っておく。こいつは貨物船だ。部屋は狭いし、食事も船員と同じものしか出ん。子爵家から頼まれた客でも、海の上で特別扱いはできない」


「寝る場所があって、飯が出るなら十分だ」


「順調なら、神聖大陸まで18日ほどだ。ただ、このところ潮が安定しない。水も食料も20日以上もつだけ積んである」


「順調じゃなかったら?」


ルークの問いに、船長は片方の眉を上げた。


「海の上で先のことを言い切る奴がいたら、そいつの船には乗るな」


「もう乗ってるんだが」


船長は一瞬ルークを見返し、白い歯を見せて笑った。


「なら、着くまで俺たちの指示を聞け。神聖大陸まで運ぶのは、俺たちの仕事だ」



船は昼を少し過ぎて港を出た。


倉庫と帆柱が重なっていた港は次第に小さくなり、やがて荒漠大陸の海岸線だけが残った。


セレスは船尾に立ち、遠ざかる陸を見ていた。


「忘れ物でも思い出したか?」


「違うわ」


セレスは陸を見たまま、小さく息を吐いた。


俺もそれ以上は聞かなかった。海岸線は少しずつ霞んでいった。


「父さん、あと何日?」


少し離れたところから、待ちきれないような声が聞こえた。振り向くと、先ほど見かけた少年が父親の袖を引いていた。


「出たばかりだろう。今から数えても短くはならないぞ」


「じゃあ、烏帽子島までは?」


聞き慣れない言葉に、ルークが二人を見た。


「烏帽子島って何だ?」


少年は何もない海を指し、両手で頭の上に山を作った。


「島。三つ並んでて、上が尖ってるんだ。あれが見えたら、帰るまで半分なんだよ」


「本当の名前ではないんです。本人がそう呼んでいるだけで」


父親が苦笑した。


「それで、もう探してるのか」


俺が聞くと、少年は当然のように頷いた。


「見えるのはまだ先だけど、見逃したくないから」


「エミール、出たばかりだと言っただろう」


父親は息子をたしなめてから、こちらへ向き直った。


「買い付けの間、荒漠大陸の親戚に預けていたんです。神聖大陸へ帰るのが待ちきれないようで」



2日目の朝、甲板へ上がると、陸影はどこにも見えなくなっていた。


俺たち四人は朝食を終えても甲板に残り、水平線の向こうにあるはずの神聖大陸を眺めていた。


「おかしいなあ。こんなはずじゃなかったんだけどな」


「何がだ?」


「俺の人生だよ。ほどほどに稼いで、飯を食って、寝る。たまに面倒事から逃げる。そういう冒険者になる予定だった」


「今も飯を食って寝てるだろ」


「そこだけ合ってても駄目なんだよ」


俺は水平線の向こうを指した。


「エマージェンシーオーダーだの、グランドオーダーだの、侯爵家だの。ましてや神聖大陸なんて、地図で見るくらいしか縁のない場所だと思ってたんだよ」


「子爵家もあるわよ」


「そうなんだよなあ」


「でも、神聖大陸へ行くと決めたのは僕たちだよ」


「レオン。今はそういう正しい話をしてるんじゃない」


「愚痴を言いたいだけなら、最初からそう言え」


「今、そう言っただろ」


ルークが笑い、セレスも口元を緩めた。



3日目から、エミールは毎朝、烏帽子島を探して左舷に立った。


その日の昼には、父親に断って俺たちと同じ卓へ座っていた。


「こっちでいいのか?」


「父さん、まだ帳面を見てるから。それに、こっちの方が面白いし」


「見る目があるな」


ルークが満足そうに頷いた。


昼食は魚と豆の煮込みに、硬いパンだった。


「お前、飯が出るなら十分だって言ったよな」


「出てるだろ」


「せめて、うまそうに食え」


「フリをするのは得意だぞ」


俺が笑顔を作ってパンをかじると、エミールが吹き出した。


4日目に見えたのは、水平線だけだった。


5日目の朝には、ルークも隣に立っていた。


「今日もないな」


「まだ早いよ」


「分かってるなら、毎朝見なくてもいいだろ」


「見えるまで見るって決めたんだ。兄ちゃんも見てて」


「なんで俺まで」


「もう一緒に見てるじゃないか」


6日目には、ルークの方が先に左舷へ来ていた。


それを見たセレスが笑った。


「何だよ」


「別に」


7日目の朝、船員たちは何度も方位盤を確かめ、海図へ新しい印をつけていた。

船尾では、方角を読み上げる声と、帆を調整する指示が途切れず交わされていた。


昼前、エミールの声が甲板に響いた。


「烏帽子島だ!」


エミールが右舷へ駆け寄った。


海と空の境に、三つの黒い島影が並んでいた。尖った峰の輪郭まではっきりと見えた。


「もう見えた。父さん、いつもより早いよね」


父親も舷側へ近づいたが、すぐには答えず、島影を見つめた。


エミールは嬉しそうに眺めていたが、やがて首を傾げた。


「あれ? 右?」


父親の袖を掴み、島影を指した。


「烏帽子島、いつもは左にあるよね」


「ああ。いつもなら明日以降、左舷のもっと遠くに見えるはずだ」


父親が船尾を振り返った。船員たちはすでに帆の調整を始めていた。


船長は指示を終えると、こちらへ声をかけた。


「あんたたちにも話しておく。こっちへ来てくれ」


俺たち四人とエミール親子が海図の前へ集まると、船長は現在地を指した。


「方位盤どおりに針路は取っていた。緯度も予定から外していない。だが、群島の方位から現在地を取り直すと、航程から割り出していた経度と合わん。船は予定より大きく西へ出ている。海図にある潮の流れでは、こんなずれ方はしない」


「潮が変わっているのですか」


エミールの父親が尋ねた。


「そう考えるしかない。向きも速さも、記録と合わん」


船長は海図上の現在地から、群島の西側へ指を滑らせた。


「このまま群島の西側を回る。海図には載っているが、普段は使わん海域だ」


「危険はないのですか」


「水深は足りている。風も今は問題ない。群島を抜けた先で位置を測り直し、航路へ戻す」


父親が頷くと、船長は持ち場へ戻った。


「海流と気流の変化」


レオンが小声で言う。


科学大陸が公表した世界異常の観測結果にも、同じ変化が記されていた。


「実感したくはなかったけどな」


ルークが右舷の島影を見た。



日が傾く頃には、島の岩壁で波が白く弾けるのも見えるようになった。


船長は潮に逆らって進むより、群島の西側で流れが変わるのを待つ方を選んだ。本船は岩礁から離れた深い場所へ錨を下ろした。


翌朝、8日目。


潮が引くと、島の裾に黒い岩棚が現れた。


「待つ間に、食えるものを拾っておくぞ」


船員の一人が言うと、小型艇に櫂と籠、短い鉄べらが積み込まれた。固定が外され、艇が吊り索で海面へ下ろされていった。


「籠持ちが二人ほしい」


「行く」


ルークが手を挙げた。


「俺も」


魚と豆ばかりで一週間だ。考えることは同じだった。


俺たちは船員に続いて小型艇へ乗り込んだ。


本船の陰を出ると、小型艇は波に合わせて大きく上下した。船員は岩棚へ真っすぐ向かわず、白波の切れ目を選んで櫂を入れた。


岩棚は大きな牡蠣で覆われていた。船員に教わり、殻の根元へ鉄べらを差し込んで岩から剥がす。籠が埋まるまで、そう時間はかからなかった。


本船へ戻ると、牡蠣の籠が先に引き上げられた。俺たちが甲板へ上がった後、小型艇も吊り索で元の位置へ戻され、舷側へ固定された。


昼過ぎに潮が変わり、船は烏帽子群島を右後方へ残して航海を再開した。


夕食前、採ってきた牡蠣が調理場へ運ばれた。


「やっぱり、定番の網焼きかしら」


セレスが籠を覗き込む。その横では、ルークが開いた殻へ顔を近づけていた。


「牡蠣は当たると、ものすごく苦しむらしいぞ」


「でも、船員は新鮮な牡蠣は生が一番だって言ってたぞ」


「これだけ活きがいいなら、生で食べるのもありなのかな」


レオンまで迷い始めた。


「活きのいい牡蠣はフライだよ」


ルークが牡蠣から顔を上げた。


「なんか、妙な圧を感じるな」


俺は答えず、硬いパンへ手を伸ばした。


小麦粉を水で溶き、砕いたパンを衣にして牡蠣を油へ落とすと、香ばしい匂いに船員たちまで集まってきた。

エミールは熱さに目を白黒させながら、二つ目へ手を伸ばした。



船長は、この流れなら12日目には通常航路へ合流できると話していた。


だが、10日目の夜に潮の向きが変わり、12日目を迎えても、船は普段より西の海域を進んでいた。


13日目、エミールの父親が到着までの日数を尋ねた。


「潮が落ち着けば、あと5日だ」


船長はそう答えた。


15日目の昼食には、煮込みの中に野菜の欠片が三つ入っていた。


「今日は当たりだな」


「昨日と同じ味だろ」


「船の上では基準も変わるんだよ」


エミールは自分の器から野菜の欠片をすべてすくい、俺の器へ落とした。


「これ、あげる。僕、嫌いだから」


「理由はどうあれ、野菜は野菜だ」


「10歳の好き嫌いに助けられてるぞ」


ルークが笑った。



16日目の午後、空はまだ明るかった。


エミールは父親と一緒に船首の向こうを見ていた。俺たちは船室へ続く階段の近くで、昼食後の風に当たっていた。


帆柱の上から、見張りの声が落ちてきた。


「船長! 前方に黒雲!」


船長が空を見上げ、すぐに怒鳴った。


「帆を縮めろ! 甲板の荷を締め直せ!」


水平線の一部だけが、ひどく暗い。低い雲が海の上に垂れ込め、その端がこちらへ広がってきた。


「船長、間に合いません!」


「乗客を船室へ入れろ!」


階段の近くにいた俺たちは、船員に促されて先に船室へ入った。


降りる前に船首を振り返った。エミールの父親は息子の手を引いてこちらへ向かい、その二人を迎えに船員が走っていた。


船室へ入った直後、開いたままの昇降口から風が一気に吹き込んだ。

帆と縄が一斉に鳴り、船員の怒鳴り声が飛び込んでくる。


「走るな! 身を低くしろ!」


次の瞬間、船体が横から突き飛ばされた。


床が大きく傾き、俺たちは壁や寝台の柱を頼りに身体を支えた。

甲板の上で、何かが倒れる音がした。

船体が逆側へ跳ね上がった。

轟音とともに、大量の水が頭上の甲板を叩いた。

何人もの怒鳴り声が重なった。

ほとんどは風にかき消された。


その中で、一つだけ、はっきり聞こえた。


「子供が海に落ちた!」


ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!

筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;

この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。

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