第62話 父と娘
セレスは、すぐには答えなかった。
俺たちは扉を入ったところで足を止め、セレスの半歩後ろに並んでいた。
レオンは姿勢を正し、ルークも口を閉じている。俺たちが先に口を開く場面ではなかった。
父親は部屋の奥に立ったまま、セレスを見ていた。
組んでいた手をほどき、一歩だけこちらへ踏み出した。それ以上は近づかず、そこで待った。
「……ただいま戻りました、お父様」
「ああ。よく戻った」
隣で、ルークが小さく息を吐いた。
セレスの手が、スカートの脇でゆっくり開いていく。
「怪我はないか」
「ありません」
「体調は。道中、食事はきちんと取れたのか」
「問題ありません」
「そうか。なら、まずは座りなさい。食事と湯の用意も――」
「旦那様」
扉の脇に控えていた老人が、静かに声を挟んだ。
「皆様のお部屋もお食事も、すでに整えてございます」
「そうだったな」
子爵は短く答えた。
俺とレオンとルークは、勧められた長椅子へ腰を下ろした。セレスだけは立ったままだったが、父親にもう一度促され、俺たちの隣に置かれた椅子へ座った。
子爵は低い卓を挟んだ向かいの長椅子へ腰を下ろした。
老人が人数分の茶を用意すると、子爵はようやく俺たちへ向き直った。
「挨拶が遅れた。娘に同行していただいたこと、アークノルト家当主として礼を申し上げる」
レオンが立ち上がろうとすると、子爵は手で制した。
「長旅の後だ。そのままで構わない」
「お気遣い、ありがとうございます。レオン・ヴェルクです」
「ルーク・ガルドです」
「アレン・ヴァイスです」
「アレン殿が、パーティのリーダーだな」
「はい。俺がリーダーです」
「セレスティアを無事に送り届けてくださったこと、重ねて感謝する」
「いえ。俺たちは四人でここまで来ました。道中も、セレスには助けられています」
「そんなこと言わなくてもいいのよ」
「本当のことだろ」
セレスは何か言い返しかけた。けれど、父親がこちらを見ていることに気づき、口を閉じた。
「……そうか」
子爵の視線が、セレスへ戻った。
「お前の部屋は、出ていった時のままにしてある。家具も本も動かしていない。手入れはさせているから、すぐに使える」
「そのまま?」
「ああ」
「ずっと?」
「お前の部屋だからな」
セレスは、父親の顔を見た。
「もう戻らないかもしれないとは、思わなかったのですか」
すぐに答えは返ってこなかった。
「……思ったよ。何度も」
子爵は、卓上の茶器へ視線を落とした。
「あの部屋の前を通るたびに、もう使う日は来ないのかもしれないと思った。だが、片づけたその日にお前が帰ってきたら困るだろう」
「そんな理由で?」
「私には、十分な理由だった」
セレスは茶器へ手を伸ばしたが、取っ手に触れただけで持ち上げなかった。
「それと、直接言える日が来たら、その時に言おうと思っていた」
セレスの指が止まった。
「Cランクへの昇格、おめでとう」
「Bランクパーティの一員になり、ギルド総本部から指名依頼も受けた。よくやったな」
セレスの手が、茶器から離れた。
「……そんなことまで、ご存じだったのですか」
「正式な冒険者になった頃から、報告を受けていた」
「この1年、ずっと?」
「ああ」
セレスは父を見たまま、黙った。
それから膝の上で両手を重ね、背筋を伸ばした。
「お父様。先に、二人で話したいことがあります」
「話なら、食事をして休んでからでも――」
「今、話したいの」
父親は娘の顔をしばらく見つめ、ゆっくりと頷いた。
「分かった」
俺たちは席を立った。
レオンとルークが先に扉へ向かい、俺もその後に続く。老人も子爵へ一礼し、俺たちの後ろについた。
部屋を出る前に振り返ると、子爵とセレスは、低い卓を挟んだまま向かい合っていた。
俺は扉を閉めた。
◇
扉の向こうから、四人分の足音が遠ざかっていく。
セレスは、その音が聞こえなくなるまで口を開かなかった。
「どうして、連れ戻さなかったの」
父親の手が、膝の上で僅かに動いた。
「お前を見つけた時には、もう養成学校を卒業し、正式な冒険者になっていた」
「それでも、連れ戻そうとは思ったのでしょう」
「何度もな」
「でも、しなかった」
「……できなかった」
「どうして?」
子爵はすぐには答えなかった。
「分からなかったからだ」
「何が?」
「お前が、何から逃げたかったのか。神聖大陸へ行くことか、縁談か。それとも……私からだったのか」
最後の言葉だけ、声が少し低くなった。
「分からないまま力ずくで連れ戻せば、今度こそ本当にお前を失う。それだけは分かった」
「それで、見ていたの」
「ああ」
「何も言わずに」
「……ああ」
セレスは、一度目を閉じた。
「手紙は」
「書いた」
セレスが目を開けた。
「一通も来なかったわ」
「出せなかった」
「どうして」
「何度書いても、最後には帰ってきなさいと書いていた。それでは、また私の望みを押しつけるだけになると思った」
「それでも、送ればよかったのよ」
「帰ってこいと書いた手紙でもか」
「ええ。帰らないと返せたわ」
父親の口が、僅かに開いた。
「……そうか」
「何も来ない方が、ずっと怖かった」
セレスの声が掠れた。
「まだ見つかっていないのか、もう探すのをやめたのか。見つけた上で、放っておかれているのか。私には、何も分からなかったもの」
「放っておいたつもりは――」
子爵は、そこで言葉を止めた。
「……いや。お前から見れば、同じか」
「同じよ」
子爵の方が、先に視線を落とした。
「知っていたのなら、一度くらい聞いてほしかった。帰ってくる気はないのか、手紙を送ってもいいか。何でもよかったの」
「聞く、か」
「あの時だって、私が神聖大陸へ行きたいかなんて、一度も聞かなかった。縁談だってそう。私がその人と結婚したいかどうかも」
「あれは、お前のためを思って――父上のそばなら、私が近くにいなくてもお前を守ってもらえる。縁談の相手も、お前を粗末にするような者では――」
「分かってるわ」
セレスは、父親の言葉を遮った。
「お父様が私のために調べて、一番いいと思ったものを選んだことくらい。分かっていたから、嫌だと言えなかったのよ」
「嫌なら、そう言えばよかった」
「いつ?」
子爵が言葉に詰まった。
「全部決まったと聞かされた後で? そこで嫌だと言ったら、お父様はやめてくれたの?」
「お前は、まだ子供だった。知らないことも多かった。だから、私が調べて――」
「知らないなら、教えてくれればよかった。決める前に」
父親の言葉が止まった。
「それでも私が嫌だと言ったら?」
しばらく、茶器から立ち上る湯気だけが、二人の間で揺れていた。
「……あの時の私は、聞き入れなかっただろうな。子供の我が儘だと思った」
セレスの指が、膝の上で強く組まれた。
「だから、話しても変わらないと思ったの」
子爵は、その手を見つめた。
「……すまなかった、セレスティア」
「私も、何も言わずに出ていって、ごめんなさい」
「家を出たことは、後悔していないのか」
「していないわ」
子爵は、閉じた扉へ目を向けた。
「そうか」
子爵はゆっくりと息を吐いた。
「報告は読んでいた。Cランク、Bランクパーティ、ギルド総本部の指名依頼。どれも、子供にできることではない」
子爵はセレスを見た。
「分かっていたつもりだった。だが、帰ってきたお前を前にすると、まだ家を出る前と同じように扱いそうになる」
「それは困るわ」
「私も困っている」
セレスの口元が、ごく僅かに緩んだ。
「心配するなとは言わないわ」
「言われても無理だ」
返事だけは、すぐに返ってきた。
「でも、心配だからと、私の代わりに決めないで」
父親は今度こそ、すぐには答えなかった。
「分かった。これからは、何かを決める前に、お前の考えを聞こう」
「そうして」
子爵は一度頷いた。
「まずは、今回の話からだな。お前はどうしたい」
セレスの目が、僅かに見開かれた。
「神聖大陸へ行きたい」
「神聖大陸へ?」
「ええ。今度は、行けと言われたからじゃないわ。私が必要だと思って、行くと決めたの」
セレスは、父親から目を逸らさなかった。
「依頼で調べている禁書庫の扉は、物理機構と魔術回路の二重封印だったわ。魔力側を探るには、神聖大陸へ行く必要があるの」
「そのために、お父様からお祖父様へ取り次いでほしいの」
「分かった。父上には私からすぐに――」
「待って」
呼び鈴へ伸びかけた手が止まった。
「先に、三人も呼んで。扉を見たのも、ここまで来たのも、私一人ではないわ。私たちが何を見つけて、なぜ神聖大陸へ行く必要があるのか、皆の話も聞いてほしいの」
「分かった。まずは皆から話を聞こう」
子爵は改めて呼び鈴へ手を伸ばした。
澄んだ音が、静かな部屋に響いた。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
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