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第60話 置いてきた名前

「ただ、そのためには一度、実家へ戻る必要があるわ」


「実家?」


俺とルークの声が重なった。


湯気の薄くなった料理を挟んで、セレスは俺たちの顔を順に見た。


それから、少しだけ姿勢を正す。


「私の本当の名前は、セレスティア・フォン・アークノルト」


聞き慣れた名前の後ろに、知らない家名が続いた。


「アークノルト?」


ルークが聞き返す。


その隣で、レオンの表情が変わった。


「まさか……神聖大陸の、アークノルト――」


確かめるように家名を繰り返し、目を見開く。


「アークノルト辺境伯家かい?」


セレスは静かに頷いた。


「ええ。今の当主は、私の祖父よ」


「祖父?」


ルークがレオンとセレスを交互に見る。


俺も、すぐには言葉が出なかった。


神聖大陸の辺境伯。


広い領地と軍を預かり、その力は一国の王にも並ぶ。


貴族に詳しくない俺でも、それくらいは知っている。


「ただ、私は本家の人間ではないわ」


セレスは続けた。


「父は祖父の次男なの。本家が持っていた子爵位を受けて、荒漠大陸へ移ったのよ。実家は荒漠大陸西部のアークノルト子爵家」


神聖大陸の辺境伯の孫。


荒漠大陸の子爵令嬢。


それだけでも、頭が追いつかない。


「じゃあ、アルトってのは?」


ルークが聞いた。


「偽名よ。アークノルトから取ったの」


「どこをどう取ったんだ?」


「最初と最後」


ルークが口の中で家名を繰り返す。


「アークノルト……アルト」


「そう」


「雑じゃねえか?」


「今も問題なく使えているわ」


「家名を隠して学校に通っていたのかい?」


レオンの問いに、セレスは少しだけ視線を逸らした。


「ええ。家出だもの」


そう言って、ほんの少しだけ舌を出す。


一瞬、誰も反応できなかった。


「待て待て待て」


俺は思わず片手を上げた。


「情報が多い」


「順番に話しているでしょう」


「順番の問題じゃない」


俺は一度、頭の中を整理する。


「本名はセレスティア・フォン・アークノルト。子爵家の娘で、神聖大陸の辺境伯の孫。アルトは偽名で、家出して養成学校に入った」


「合っているわ」


「まだ何かある?」


「細かく話せば」


「今はいい。いや、家出はよくない」


セレスが僅かに首を傾げる。


「なんで家出なんかしたんだ?」


先ほどまで僅かに緩んでいた口元が、すっと引き結ばれた。


「父が、私の将来を決めていたからよ」


「将来?」


「神聖大陸へ渡って、相応しい家へ嫁ぐ。その後、どこでどう暮らすのかも、ほとんど決まっていたわ」


「嫌だったのか?」


ルークが聞く。


「ええ。嫌だったわ」


セレスは迷わず答えた。


「私の知らないところで、私の人生が決まっていくことが」


「それで、何も言わずに家を出た?」


俺が聞くと、セレスは少しだけ目を伏せた。


「話しても、変わらないと思ったから」


少し間を置いて、続ける。


「だから、逃げたの」


それ以上、家出の理由については話さなかった。


俺たちも、どこまで聞いていいのか分からなかった。


「家を出てからは?」


「一度も連絡していないわ」


「向こうからも?」


「何も」


「探されてないのか?」


「分からないわ」


セレスは首を横に振った。


「見つかっていたら、何か言ってくると思っていたから」


何の連絡もなかった。


だから、まだ見つかっていないのかもしれない。


あるいは、探すことをやめたのかもしれない。


「何年も、無事だと伝えていないの」


セレスは卓上へ目を落とした。


「自分の人生を決められたくなくて家を出て、何年もアークノルトの名を伏せて生きてきた。それなのに、父と祖父の名前が必要になったから戻るのよ」


膝の上で重ねた手に、少しだけ力が入る。


「都合がいいと思われても、何も言えないわ」


「困った時に頼れないなら、実家って何のためにあるんだ?」


ルークが言った。


考え込んだ末に出した答えではない。


当たり前のことを、そのまま口にしただけだった。


セレスが顔を上げる。


「私がまだ、頼っていい娘ならね」


誰もすぐには答えられなかった。


セレスはしばらく黙った後、ぽつりと続けた。


「怒られるなら、まだいいわ。何も言われなかったらと思うと、少し怖いの」


「……そっちか」


怒られるなら、少なくともまだ向き合ってもらえる。


けれど、何も言われなかったら。

もう娘として待たれていなかったら。


「そんなことはない」と言ってやりたかった。


だが、それを言い切れるほど、俺たちはセレスの家を知らなかった。


「それでも戻るんだな」


「ええ。怖くても、他に神聖魔法を正式に学ぶ道は思いつかないもの」


「戻ったら、まず父親に話すつもりか?」


「そのつもりよ。父に事情を話して、祖父への取り次ぎを頼むわ。祖父の口添えがあれば、神聖魔法を学ぶための場へ繋いでもらえるかもしれない」


「かもしれない?」


「祖父の名前があれば、話を聞いてもらうところまでは進めると思う。でも、受け入れられるかは別よ。私に適性があるかも分からないもの」


扉の奥で見た術式が、卓上の紙に描かれていた。


辺境伯の孫だからといって、神聖魔法を使えると決まったわけではない。


だが、学ぶための入口には立てるかもしれない。


今あるのは、その可能性だけだった。


「今は行くしかないね」


レオンが言った。


「可能性が見えただけでも大きい。先へ進めるかどうかは、そこへ着いてから確かめよう」


「うん」


確実ではない。


それでも、何の手がかりもなく術者を探すよりは前へ進める。


時間がない以上、この道を確かめるしかなかった。


「俺たちも行く」


「あなたたちまで来る必要はないわ」


「あるよ。神聖魔法の手がかりを追うために行くんだから」


「でも、これは私の家の問題よ」


「家族とどう話すかは、そうかもしれない」


俺は卓上の紙を指した。


「でも、そこまで一緒に行く理由なら、俺たち全員にある」


ルークも頷いた。


「辺境伯に話を通すような頼みを、お前一人に押しつける方がおかしいだろ」


「僕たちから説明した方が、お父上にも状況が伝わりやすいと思うしね」


レオンが続ける。


セレスは俺たちの顔を順に見た。


少し黙った後、息を吐く。


「分かったわ」


「じゃあ、出発の手配をするか」


「その前に、手紙を書くわ」


「実家に?」


「ええ。今度は、何も言わずにというわけにはいかないもの」


そう言ったセレスの表情は、どこか硬かった。


その夜、セレスは宿の机に向かった。便箋を前にしてもすぐには書き始めず、ペンを持ったまま黙り込んでいた。


書くところを見られたくはないだろうと、俺たちは声をかけずに部屋を出た。


翌朝、食堂へ下りてきたセレスの手には、一通の封書があった。


「書けたか?」


「一応」


「何て書いたんだ?」


ルークが聞くと、セレスは封書を胸元へ引いた。


「聞かないで」


それ以上は聞かなかった。


朝食を終えた後、俺たちは街の急送便を扱う窓口へ向かった。


セレスは受付へ封書を差し出した。


「荒漠大陸西部、アークノルト子爵家へお願いします」


受付の男が宛先を確認し、封書の裏へ目を移した。


差出人の欄には、俺たちが昨日初めて知った名前が記されていた。


セレスティア・フォン・アークノルト。


「確かにお預かりします」


封書が受付の奥へ運ばれていった。


セレスは、それが見えなくなるまで動かなかった。



書状がアークノルト子爵家へ届いたのは、3日後のことだった。


「旦那様」


執事が執務机の前へ、一通の封書を置いた。


「お嬢様からでございます」


書類をめくっていた手が止まる。


ほんの一瞬だった。


アークノルト子爵は何事もなかったように顔を上げ、封書へ目を向けた。


封書の裏には、セレスティア・フォン・アークノルトと記されていた。


娘が養成学校を卒業し、正式な冒険者として活動を始めた頃には、その所在を掴んでいた。


調査を進める中で、セレスティア・アルトという偽名を使って養成学校へ通っていたことも分かった。


迎えを出そうとしたことは、一度や二度ではない。


それでも、その命令が口にされることはなかった。


以来、娘の活動については、定期的に報告を受けていた。


Cランクへの昇格。


Bランクパーティの一員となったこと。


冒険者ギルド総本部から、指名依頼を受けたこと。


どれも、本人には知られないままだった。


子爵は封書を手に取った。


「そうか」


落ち着いた声だった。


少なくとも、本人はそのつもりだったのだろう。


「思ったより早かったな」


「旦那様」


「なんだ」


「上下が逆でございます」


子爵は手元の封書を見た。


何も言わず、ゆっくりと持ち直す。


「部屋の支度を」


「いつでもお戻りになれるよう、整えてございます」


「食事は」


「お嬢様のお好みは、料理長も忘れておりません」


「迎えを出せ。いや、待て。大仰な迎えはセレスティアが嫌がる。だが護衛もなしというわけには――」


「旦那様」


「なんだ」


「まずは、書状をお読みになってはいかがでしょう」


子爵は黙った。


それからようやく、封を切った。

ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!

筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;

この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。

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