第57話 走ってもいい場所
翌朝。
研究者からの返事は、まだ来ていなかった。
こちらから送れるものは送った。
あとは、向こうが調査記録を確認し、こちらへ向かう手筈が整うのを待つだけだった。
つまり、今日の俺たちにできることは少ない。
「リリアナ様と、少し話してきてもいいかしら」
そう言ったのは、意外にもセレスだった。
俺は思わず彼女を見る。
「珍しいな」
「そうかしら」
「自分から言い出すとは思わなかった」
セレスは、いつも通り落ち着いていた。
「昨日のことが、少し気になっているの」
「兄妹喧嘩に首を突っ込むって話か?」
「そんなつもりはないわ」
セレスは静かに首を横に振った。
「リリアナ様、昨日、私と話したいと言っていたでしょう」
「ああ」
「でも、最後は何も話せないまま終わってしまったから」
「まあ、兄貴に止められてたしな」
「ええ」
セレスは庭の方へ目を向けた。
「だから、もう一度だけ聞いてみたいの。今も話したいと思っているのか」
「本人に決めさせるってことか」
「そうね」
「エリオットには、近づくなって言われてたけどな」
「言われたわね」
「従う気はないと」
「命じられた覚えはないもの」
「後でうるさそうだけどな」
「そうかもしれないわね」
「それでも行くと」
「ええ。リリアナ様が望むなら」
「分かった」
俺は肩をすくめた。
「じゃあ、グレイアムに取り次いでもらうか」
「お願い」
◇
グレイアムに取り次いでもらうと、返事はすぐに来た。
エリオット様の件について何か言われるかと思ったけれど、グレイアムの表情は変わらなかった。
「リリアナ様がお望みであれば、庭でのお話し程度は問題ございません」
それだけだった。
少なくとも、昨日の言葉が侯爵家全体の命令ではないことは分かった。
しばらくして、リリアナ様が使用人に連れられて庭へ出てきた。
昨日より、歩幅が小さい。
それでも私の姿を見つけると、ぱっと表情が明るくなった。
「セレスティア!」
「おはようございます、リリアナ様」
「来てくれたの?」
「昨日、もっと話を聞きたいと言っていたでしょう?」
リリアナ様は嬉しそうに頷いた。
それから、周囲を見回す。
「今日は、アレンはいないの?」
「ええ。今日は私だけ」
「レオンも?」
「いないわ」
リリアナ様は残念そうな顔をした。
「レオンにも会ってみたかったのに」
「レオンに?」
「だって、王子さまみたいでしょう?」
私は瞬きをした。
「そうね。王子さまと言えば、そうかもしれないわね」
「やっぱり」
何がやっぱりなのかは分からなかった。
リリアナ様は、庭の奥にある石造りの腰掛けへ向かった。
屋敷からは見えるけれど、声までは届きにくい場所だ。
使用人は少し離れたところで控えている。
見張っているというより、何かあった時のためにいる距離だった。
エリオット様はいない。
少なくとも、今のところは。
「昨日の話、考えていたの」
リリアナ様はそう言って、膝の上で手を重ねた。
昨日より少しだけ、声が小さい。
けれど、目は逸らしていなかった。
「自分で決めるって話?」
私が尋ねると、リリアナ様は頷いた。
「ええ」
それから迷うように唇を結んで、私を見る。
「セレスティアは、どうして冒険者になろうと思ったの?」
すぐには答えられなかった。
昨日も似たようなことは聞かれていた。
けれど、今の問いは昨日とは違って聞こえた。
冒険者になりたい理由を聞かれているのではない。
その前のことを聞かれている。
どうして、自分で選べたのか。
そういう問いに近かった。
「最初から、冒険者になりたかったわけではないわ」
「そうなの?」
「ええ。私が最初に欲しかったのは、冒険者という名前ではなかったもの」
リリアナ様が首を傾げる。
「じゃあ、何が欲しかったの?」
「自分で決めてもいい、ということ」
リリアナ様は黙った。
私は庭の芝へ目を向ける。
手入れの行き届いた芝生。
走れば、足の裏に柔らかい感触が返ってくるのだろう。
そんなことを考えたのは、ずいぶん久しぶりだった。
「私が5歳の頃の話よ」
「5歳?」
「ええ。リリアナ様より、ずっと小さかった頃」
「セレスティアにも、そんな頃があったの?」
「もちろんあるわ」
リリアナ様は驚いた顔をした。
その顔がおかしくて、私は少し笑ってしまう。
「その頃の私は、よく叱られていたわ」
「セレスティアが?」
「ええ。走ってはいけない。大きな声を出してはいけない。服を汚してはいけない。そういうことを、何度も言われていたの」
「それ、つまらないわ」
「そうね。私も、つまらなかったのだと思う」
「思う?」
「その時は、うまく言えなかったの。叱られる理由は分かるけれど、それでも足を止めたくない時があったから」
リリアナ様は、少しだけ考えるように黙った。
「あの頃の私は、淑女という言葉が苦手だったわ」
「淑女?」
「ええ。何をしてはいけないのかは分かるの。でも、どうしてずっとそうでいなければならないのかは、よく分からなかった」
私は芝の上に落ちた木漏れ日を見る。
風が吹くと、光の形が少しだけ揺れた。
「でも、ある日、変な男の子に会ったの」
「変な男の子?」
「ええ。その子は、私にこう言ったの。今は淑女じゃないことにすればいい、と」
リリアナ様はきょとんとした。
「どういう意味?」
「そのままの意味よ。ずっと淑女でいなければならないわけではない。今だけ、少し違う自分でいてもいい。私は、その時初めてそう思えたの」
「それで?」
「走ったわ」
「セレスティアが?」
「ええ。思いきり」
リリアナ様の目が輝いた。
「楽しかった?」
私は少しだけ考えてから、頷く。
「楽しかったわ」
「怒られなかった?」
「覚えていないわ」
「覚えていないの?」
「ええ。怒られることは珍しくなかったもの。でも、その日は、怒られたかどうかより、走ったことの方をよく覚えているの」
リリアナ様は口元に手を当てた。
少し悪いことを聞いてしまったような顔をしている。
けれど、目は楽しそうだった。
しばらくして、リリアナ様が身を乗り出す。
「それって、もしかして」
「もしかして?」
「その男の子、レオン?」
私は一瞬だけ返事に詰まった。
「どうしてレオンなの?」
「だって、レオンは王子さまみたいだもの。そういうお話なら、レオンかなって」
「違うわ」
「違うの?」
「ええ」
リリアナ様は、残念そうに肩を落とした。
「なあんだ」
「残念そうにしないで」
「じゃあ、誰?」
私は少し迷った。
本人に聞かせるつもりはない話だった。
きっと、覚えていないだろうから。
私だけが覚えている昔の話。
そう思っていたから。
「アレンよ」
「え」
リリアナ様の目が丸くなる。
「アレン?」
「そう」
「アレンが?」
「そんなに意外?」
リリアナ様は慌てて首を振った。
「違うの。失礼な意味じゃないの。ただ、思っていた感じと違っただけ」
「それは、少し失礼な意味に聞こえるわ」
「そういう意味じゃないの!」
慌てるリリアナ様を見て、私は少し笑った。
「その時から、アレンのことが好きだったの?」
今度は、私がすぐには答えられなかった。
リリアナ様は目を輝かせている。
さっきまでの真剣な顔とは、また別の真剣さだった。
「その時は、そういうものではなかったわ」
「その時は?」
聞き逃してくれない。
私は少しだけ困ってしまう。
「……私にとって、忘れられない人になったのは確かね」
リリアナ様は両手を胸の前で握った。
「やっぱり!」
「やっぱり、ではないわ」
「でも、少しそういうお話でしょう?」
否定しきれず、私は視線を逸らした。
「少しだけね」
リリアナ様の顔が、ぱあっと明るくなる。
こういう話が好きなのだろう。
年齢だけの問題ではないのかもしれない。
「でも、大事なのはそこではないわ」
そう言うと、リリアナ様は名残惜しそうな顔をしながらも、ちゃんと頷いた。
「私はその日、誰かに連れ出してもらったのではないの」
「違うの?」
「ええ。走っていいと言われたから走ったわけでもないわ」
私はリリアナ様を見る。
「最後に走ると決めたのは、私だった」
リリアナ様の表情が変わった。
「自分で?」
「ええ」
叱られるかもしれないことは、頭のどこかにあった。
でも、その時は、それよりも走りたい気持ちの方が強かった。
今だけは、淑女じゃなくてもいい。
そう思えたから、足が前に出た。
「誰かが決めた通りの私でなくてもいい。私は、その時初めてそう思ったのだと思うわ」
庭を風が抜けた。
木の葉が揺れる。
リリアナ様は、しばらく何も言わなかった。
それから、小さく呟く。
「わたしも、走ってみたい」
私はリリアナ様を見る。
「階段で?」
「階段じゃないわ」
リリアナ様は少しだけ頬を膨らませた。
「お庭で。転ばないところで」
「それなら、いいと思うわ」
「でも、お兄さまは止めるわ」
「そうかもしれないわね」
「セレスティアなら、どうする?」
私はすぐには答えなかった。
リリアナ様の代わりに決めることはできない。
決めてはいけない。
それでは、エリオット様と同じになってしまう。
「私なら、まず自分で決めるわ」
「決めたら?」
「そのあとで、どう伝えるかを考えるわね」
リリアナ様は何度か瞬きをした。
昨日のように泣きそうな顔ではなかった。
何かを見つけかけている顔だった。
「決めてから、伝えるの?」
「ええ。決めずに言えば、決めてもらうことになるもの」
「お兄さまが駄目って言ったら?」
「それでも、リリアナ様が何をしたいのかは、リリアナ様の中に残るわ」
リリアナ様は、自分の胸元に手を当てた。
「残る……」
「ええ」
「じゃあ、まず決める」
リリアナ様は顔を上げた。
「わたし、庭で走るわ」
そう言ってから、リリアナ様は庭の芝生を見た。
今すぐ走り出すわけではない。
少し考えて、それから言う。
「……明日」
「明日なのね」
「ええ。今日は、まだ決めたばかりだから」
その慎重さが可愛らしくて、私は笑いそうになった。
「明日、ちゃんとお兄さまに言うの。階段では走らない。廊下でも走らない。でも、庭で走るって」
リリアナ様はそこで一度、言葉を切った。
「お願いするんじゃないわ」
小さな声だった。
けれど、迷っている声ではなかった。
「知らせるの」
私は小さく頷いた。
「いいと思うわ」
リリアナ様は嬉しそうに笑った。
それから、庭の芝生へ目を向ける。
今すぐ走り出すわけではない。
けれど、その視線だけは、もう芝の上を駆けているようだった。
私は、少しだけ昔の自分を思い出す。
5歳の私も、あの日、きっとこんな顔をしていた。
叱られるかどうかより先に、もう走る先を見ていた。
「ここなら、走ってもいい場所だわ」
リリアナ様が言った。
私は頷かなかった。
それを決めるのは、私ではないから。
ただ、少しだけ笑って、リリアナ様の横顔を見ていた。
リリアナ様はその日、走らなかった。
それでも、その目だけはもう、明日の庭を走っていた。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。




