第56話 そんなお兄さまは嫌い
研究者を招くことについて、侯爵の許可は翌朝には下りた。
正式な依頼は、冒険者ギルド総本部から出す。
レオンが候補に挙げた研究者の名と所属を伝え、総本部の通信網を通じて、所在の確認と依頼の取り次ぎを頼むことになった。
昨日まとめた調査記録も、すぐ送れるように整理しておく。
俺たちにできることは、そこまでだった。
「返事は、すぐ来るのか?」
俺が尋ねると、レオンは机の上の記録を揃えた。
「本人と連絡が取れれば早いと思う。ただ、研究で各地を移動している人だから、今どこにいるかまでは分からない」
「まずは居場所からか」
「そうなるね」
所在が分かり、依頼を受けてもらえたとしても、侯爵邸まで来るには時間がかかる。
情報だけなら、遠くても届く。
人間まで同じ速さで届くわけではない。
昨日までは、少なくとも自分たちで動けた。
今は、返事を待つしかなかった。
◇
昼前。
屋敷の廊下を歩いていると、階段の上から軽い足音が聞こえてきた。
続けて、使用人の慌てた声が飛ぶ。
「お待ちください、リリアナ様」
足音は止まらない。
階段の途中から、小さな女の子が姿を現した。
明るい色の髪を揺らしながら、一段ずつ飛ばすように下りてくる。
「リリアナ」
鋭い声が響いた。
女の子の足が、ぴたりと止まる。
階段の上には、エリオットが立っていた。
「階段では走るなと言っているだろう」
「走ってないわ」
「今、二段飛ばした」
「急いでいただけよ」
エリオットは言い返しかけて、先にリリアナの足元へ視線を落とした。
それから階段を下りてくる。
「足は?」
「何ともない」
「本当に?」
「大丈夫だってば」
エリオットは、リリアナの足元をもう一度確かめた。
それから、ようやく小さく息を吐く。
「……ならいい。でも、もうしないでくれ」
「またそれ?」
「お兄ちゃんが心配する」
「お兄さまは、いつも心配ばっかり」
リリアナは頬を膨らませた。
年齢は8歳くらい。
侯爵家の長女だろう。
エリオットはまだ納得していない顔だったが、それ以上は言わなかった。
代わりに、こちらへ視線を向ける。
リリアナを見ていた時とは、目の温度が違っていた。
「その者たちのところへ行くために急いでいたのか」
リリアナは答えず、俺たちへ顔を向けた。
さっきまでの不満そうな表情が、すぐに変わる。
「門の前にいた冒険者でしょう?」
「そうだよ」
俺が答えると、リリアナは階段を下りきった。
エリオットが、その一歩後ろに付く。
止めはしない。
ただ、離れる気もなさそうだった。
「禁書庫を開けに来たの?」
「そのつもりだった」
「開いた?」
「開かなかった」
リリアナが目を瞬く。
「冒険者でも開けられないの?」
「冒険者だからって、何でもできるわけじゃないからな」
「そうなの?」
「そうなんだよ」
リリアナは少し考えるように、禁書庫がある方角を見た。
「じゃあ、これからどうするの?」
「開け方が分かりそうな人を呼ぶことにした」
「自分たちで開けないのに?」
「自分たちで開けられないからね」
納得したのかどうかは分からない。
リリアナの視線が、俺の隣にいたセレスへ移る。
「女の人も冒険者になるの?」
「なるわ。数は多くないけれど、珍しいだけで、できない理由にはならない」
セレスが答えた。
「セレスティアも、自分でなりたいって決めたの?」
「ええ。簡単ではなかったけれど」
「止められなかった?」
「止められたわ」
リリアナは少し目を見開いた。
「でも、なったの?」
「ええ」
それだけのやり取りだった。
けれど、リリアナはしばらくセレスを見ていた。
「そろそろ授業の時間だ」
エリオットが声をかける。
リリアナが振り返った。
「まだ少しくらいいいでしょう?」
「昨日も先生を待たせただろう。今日は間に合うように戻ろう」
「ちょっとくらいなら大丈夫よ」
「終わったら、また話せばいい」
「本当に?」
「ああ。その時は、お兄ちゃんも一緒にいる」
リリアナの眉が寄る。
「どうして?」
「知らない者たちと話すなら、お兄ちゃんがそばにいる」
「お兄さまは冒険者が嫌いでしょう?」
エリオットは一瞬、俺たちへ視線を向けた。
「それと、リリアナが話を聞くことは別だ」
「別じゃないわ。お兄さまがいると、すぐ止めるもの」
「止める必要があれば止める」
「ほら、止めるじゃない」
「必要な時だけだ」
「お兄さまの必要な時でしょう?」
エリオットは少し黙った。
「リリアナのためだ」
「まだ話してもいないのに、もう止めることを考えてる」
「何かあってからでは遅い」
「またそれ?」
「大事なことだ」
「お兄さまにとっては、でしょう?」
リリアナの声に、少しだけ不満が滲む。
エリオットは困ったように眉を寄せた。
使用人が、申し訳なさそうに時間を告げる。
リリアナは不満そうにしながらも、階段へ向かった。
途中で、こちらを振り返る。
「あとで、もっとお話を聞かせてね」
「授業が終わってからな」
俺が答える。
リリアナは満足そうに頷き、そのまま上階へ消えていった。
エリオットはしばらく階段を見上げていた。
さっきまでの硬い表情は、少しだけ緩んでいる。
安心したような、まだ心配しているような、何とも言えない顔だった。
だが、俺たちへ向き直った時には、もう元に戻っていた。
「妹がお前たちと話す時は、私も同席する」
「嫌がられるぞ」
俺が言うと、エリオットの目が細くなった。
「それでもだ」
「嫌われてもか?」
エリオットは、わずかに眉を動かした。
「一時の機嫌より、安全の方が大事だ」
「俺たちと話すのが、そんなに危ないか?」
「お前たちが冒険者だからだ」
エリオットは迷わず答えた。
「妹を、冒険者のそばに置くつもりはない」
「リリアナ様が、それを望まなくても?」
セレスが静かに尋ねた。
エリオットの表情が硬くなる。
「妹はまだ幼い。何を聞いてよく、何を聞くべきでないかを判断できない」
「私たちは、何かを吹き込むつもりはありません」
「つもりの有無は関係ない」
エリオットの声は冷たかった。
「冒険者は、自分たちの言葉が他人を動かすことを軽く見すぎる」
セレスは何も言わなかった。
エリオットは、こちらを順に見た。
リリアナへ向けていた目とは違う。
警戒と拒絶が、はっきりそこにあった。
「余計なことは話すな」
そう言い残し、エリオットは階段の方へ歩いていった。
◇
午後。
レオンが総本部へ送る資料を整えている間、俺たちは侯爵家の庭に出ていた。
屋敷の中にいてもすることがない。
敷地の外へ出るわけにもいかず、庭を歩くくらいしかなかった。
古い木々の間を、石畳の道が伸びている。
花壇は整えられているが、派手さはない。
屋敷と同じで、長く残すことを優先して作られた庭に見えた。
「セレスティア!」
後ろから声がした。
振り返ると、リリアナがこちらへ歩いてくる。
午前中と同じ使用人も一緒だ。
今度は走っていなかった。
少しだけ早足ではあったけれど。
「授業は終わったの?」
セレスが尋ねる。
「終わったわ」
リリアナはセレスの前で足を止めた。
「さっきのお話、もっと聞きたい」
「私の?」
「ええ。どうして冒険者になったの?」
セレスはすぐには答えなかった。
「少し長い話になるわ」
「時間はあるわ」
「そうね」
セレスが笑う。
「なら、少しだけ」
リリアナは嬉しそうに頷いた。
「どこへ行く」
庭へ続く扉の前に、エリオットが立っていた。
リリアナの表情が曇る。
「セレスティアとお話しするの」
「なら、お兄ちゃんも一緒に行こう」
「来なくていいわ」
エリオットの足が止まった。
「……お兄ちゃんがいては駄目なのか」
「駄目」
「どうしてだ」
リリアナは少し胸を張った。
「レディには、レディ同士のお話があるの」
「お兄ちゃんには聞かせられない話なのか?」
「そういうものなの」
「そういうものか」
納得はしていない顔だった。
それでも、エリオットは一度だけ頷いた。
「なら、お兄ちゃんは少し離れている」
「それも駄目」
「話は聞かない」
「ずっと見ているでしょう?」
「見ているだけだ」
「それが嫌なの」
エリオットは困ったようにリリアナを見る。
「何かあったらどうするんだ」
「何も起きないわ」
「そう言って目を離した時に限って、何かが起きる」
「またそれ!」
リリアナの声が少し大きくなった。
「お兄さまは、いつもそう。何かあったら、何かあったらって、そればっかり」
「大事なことだろう」
「わたしの話を聞くより?」
エリオットが言葉に詰まった。
リリアナは、そのまま続ける。
「乗馬の時も、お祭りの時も、お友達が来た時も、いつもお兄さまが決める!」
「リリアナのためだ」
「違うわ!」
リリアナの声が庭に響いた。
付き添いの使用人が、困ったように視線を落とす。
「わたしが何をしたいか聞く前に、全部決めるじゃない!」
「聞いている」
「聞いてないわ! 最後はいつも駄目って言うもの!」
「危ないことは駄目だ」
「危ないって、お兄さまが決めてるだけでしょう!」
エリオットは何か言おうとした。
けれど、言葉が出てこない。
リリアナの目には涙が浮かんでいた。
それでも泣くまいとするように、兄を睨んでいる。
「わたしは、セレスティアと2人でお話ししたいの」
「……分かった。なら、お兄ちゃんは少し離れている」
「ついてくるの?」
「見える場所にはいる」
「それが嫌なの!」
「話の邪魔はしない」
「見られていたら、邪魔されているのと同じよ!」
リリアナは強く唇を結んだ。
「もう、お兄さまなんて知らない!」
そう言い残し、リリアナはエリオットの横を抜けて屋敷へ駆けていく。
「リリアナ!」
エリオットが追いかけようとした。
数歩進み、閉じた扉の前で足を止める。
すぐに追えば、間に合ったはずだ。
けれど、エリオットは動かなかった。
しばらく、その扉から目を離さない。
「……追わなくていいのか?」
俺が聞いた。
「お前たちには関係ない」
声は硬かった。
ただ、こちらを見てはいなかった。
やがて、エリオットは振り返る。
その時には、表情から迷いは消えていた。
「今後、妹に誘われても断れ」
「それを決めるのは、リリアナ様ではないの?」
セレスが尋ねた。
エリオットの目が細くなる。
「妹に余計なことを吹き込むな」
「何も吹き込んでいません」
「お前たちが冒険者であること自体が、余計なんだ」
セレスの表情は変わらなかった。
「それを決めるのも、あなたですか」
エリオットは答えなかった。
代わりに、俺たちを一人ずつ見る。
その目には、答えの代わりに拒絶だけがあった。
「妹に近づくな」
そう言い残し、エリオットは屋敷へ戻っていった。
リリアナが走っていった方角へは向かわなかった。
◇
しばらくして、セレスも庭を離れた。
リリアナを探すとは言わなかった。
ただ、少し歩いてくると言っただけだった。
リリアナは、2階の窓辺に座っていた。
庭が見える窓だった。
セレスが近づくと、リリアナは少しだけ顔を上げる。
目元には、泣いた跡が残っていた。
「隣、いい?」
リリアナは黙って頷いた。
セレスは隣に座った。
しばらく、どちらも何も言わない。
「もう、お兄さまと話したくない」
リリアナが言った。
「そう」
「何をしてもついてくるの」
「ええ」
「わたしが決める前に、全部決めるの」
セレスは黙って聞いていた。
やがて、リリアナが顔を上げる。
「セレスティアは、自分で何でも決められるの?」
「何でもではないわ」
セレスは静かに答えた。
「止められることもあるし、選べないこともある。私だって、全部を自由に決められるわけではないもの」
「でも、冒険者になるのは自分で決めたのでしょう?」
「ええ」
「止められても?」
「止められても」
リリアナは窓の外へ目を向けた。
「いいな」
セレスは、少しだけ考えてから言った。
「いいことばかりではないわ。自分で決めたことは、あとで自分に返ってくるから」
「それでも?」
「それでも、私は自分で決めたかったの」
リリアナは黙った。
その横顔は、まだ泣きそうだった。
でも、さっきより少しだけ、別のことを考えている顔にも見えた。
◇
その日の夕方。
冒険者ギルド総本部から、研究者の所在を確認したという返答が届いた。
相手は科学大陸にはいなかった。
グランドオーダー関連の調査で、荒漠大陸東部の観測所に滞在しているらしい。
レオンが、届いた書面へ目を通す。
「詳しい調査記録を確認したい、とある」
「来てくれそうか?」
「まだ分からない。でも、調査内容には興味を持っているみたいだ」
情報はすぐに届いた。
本人がここまで来るには数日かかるが、荒漠大陸内にいるだけ、想定よりは早い。
「なら、送ろう」
レオンが頷いた。
来てもらえるかは、まだ分からない。
それでも、話を聞いてもらえるところまでは進んだ。
数日は、この屋敷で返事を待つことになる。
そう決まった時、セレスは少しだけ窓の外へ目を向けていた。
庭が見える方角だった。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
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