第50話 知らないという答え
自然大陸管理局の奥にある会議室は、港に面していなかった。
窓はある。
だが、厚い硝子の向こうに見えるのは、建物の中庭と、雨に濡れた石だけだった。
外の港では、今も船が出入りしているはずだ。
荷が運ばれ、怒鳴り声が飛び、誰かが朝飯の文句を言っているかもしれない。
だが、ここには届かない。
机の上には、五通の封書が並んでいた。
神聖大陸。
魔導大陸。
機巧大陸。
科学大陸。
幽冥大陸。
封蝋の紋章は、どれも違う。
その横に、黒い表紙の記録綴りが一冊置かれている。
表紙の隅には、荒漠大陸冒険者ギルド総本部の印が押されていた。
マルクスが一歩前へ出る。
「連れてきた」
「ご苦労」
奥の席にいた男が答え、俺たちへ視線を移した。
「荒漠大陸冒険者ギルド総本部、グランドマスターのダグラス・グレインだ」
名乗りは短かった。
それだけで、部屋の中の誰がこの場を預かっているのかは分かった。
ルークの背筋が伸びる。
レオンは迷わず礼を取った。
セレスもそれに続く。
俺も頭を下げた。
ここで礼を欠いていい相手ではない。
冒険者のランク。
大陸を跨ぐ依頼。
ギルド支部では判断できない案件。
生きて戻った者と、戻らなかった者の記録。
そういうものが積み重なる机の前にいる。
ダグラスは俺たちを見た。
「改めて礼を言う」
その一言で、部屋の空気が少しだけ改まった。
「赤い月を発見し、生還し、報告した。自然大陸管理局と総本部は、お前たちの働きを正式に評価している」
ルークが、わずかに息を吐いた。
レオンは頭を下げたまま動かない。
セレスも姿勢を崩さなかった。
俺もすぐには顔を上げられなかった。
労いだった。
それは間違いない。
俺たちが持ち帰ったものは、成果だった。
ただ、その成果が重すぎた自覚はある。
「顔を上げろ」
ダグラスが言った。
俺たちは顔を上げる。
管理局の職員が、机の横に立っていた。
その手元には、封を切られた回答書が重ねられている。
「五大陸からの回答と、管理局内の照合結果が揃いました」
職員の声は、明瞭だった。
扱うべき事実を、扱うべき重さで伝える声だった。
「結論から申し上げます」
職員は、一枚目の回答書を開いた。
「該当記録なし」
次の紙。
「既知現象としての回答なし」
また次。
「類似事例についても、有効な照合結果はありません」
そこで職員は言葉を止めた。
残りの紙を読まなくても、続きは分かった。
五通の封書。
管理局の報告書。
別々の紙が、同じ方を向いている。
ルークが、机の上を見たまま言った。
「どこも、知らねえってことか」
「そうなる」
ダグラスが答えた。
「赤い月を、既知の異常として扱える大陸はなかった」
ルークは、それ以上すぐには言わなかった。
赤い月。
自然大陸で、俺たちが見たもの。
赤かった。
空にあった。
ただの月ではなかった。
そこまでは言える。
けれど、そこから先が続かない。
どこから来たのか。
なぜ見えたのか。
何に繋がっているのか。
近づいていいものなのか。
離れていれば安全なのか。
俺たちは知らない。
管理局も知らない。
総本部も知らない。
五大陸に聞いても、答えは同じだった。
世界は広い。
その広さを持ってしても、答えられる者はいなかった。
ギルド側は、すでに知っていた答えを机に置いている。
俺たちは違う。
今、初めてその重さを渡された。
ダグラスは、俺たちが黙りこむのを静かに見ていた。
その間に、管理局の職員が黒い表紙の記録綴りを開く。
挟まれていたのは、自然大陸の測量図だった。
赤い印。
黒い印。
青い印。
何を示しているのか、ひと目では分からない。
外縁部に赤。
管理区域の内側に黒。
まだ詳しく線の引かれていない場所に、青。
色の違う印が、自然大陸の地図の上でばらばらに置かれていた。
「赤い月の正体が分からない」
ダグラスが言った。
「それだけなら、個別の未確認現象として扱えた」
職員が、測量図の横に別の資料を置く。
紙の種類も、日付も、担当者の署名も違う。
「だが、これはそういう話ではない」
ダグラスは続けた。
レオンが、置かれた資料を順に見る。
「赤い月を、他の異常と並べるのですか」
「そうだ」
ダグラスは頷いた。
「大陸収束。自然大陸の法則逸脱。各地で増えている小規模異常。これまでは、それぞれを個別の事象として処理してきた」
個別の事象。
古い地図のずれ。
魔素濃度の異常値。
外縁部での不可解な報告。
保留印の押された調査票。
別々に仕分けられていたはずの紙が、同じ机に並んでいる。
赤い月が、その間に線を引いた。
「赤い月は、その垣根を超えた」
ダグラスは言った。
そこで、短く言葉を切る。
「いや、垣根がないことを突きつけてきた、と言うべきか」
部屋の誰も、すぐには口を開かなかった。
赤い月だけでも、十分すぎるほどの異常だ。
だが、単独ならまだ扱える。
問題は、そうではないかもしれないことだった。
別々だと思っていたものが、最初から別々ではなかった。
そう考えた瞬間、机の上の紙が、急に量を増したように見えた。
「五大陸は、回答できなかった」
ダグラスが言った。
「神聖大陸も、魔導大陸も、機巧大陸も、科学大陸も、幽冥大陸も。それぞれの知識と記録で、赤い月を説明できなかった」
五通の封書が、机に並んでいる。
「世界が、現時点で答えを持たないと認めたことになる」
ダグラスは言った。
ルークが、低く息を吐く。
「……世界が、か」
「そうだ。控え目に言って、お手上げということだ」
お手上げ。
俗っぽい言葉ではあった。
けれど、その方が分かりやすかった。
世界に聞いた。
それでも、答えは返ってこなかった。
知らない。
その言葉が、俺たちの報告から、世界の結論に変わった。
セレスが、静かに封書を見た。
「だから、扱いを変える?」
「そうだ」
ダグラスが頷いた。
「赤い月を単発の異常として処理する段階は、ここで終わりだ」
赤い月だけの話ではなくなった。
机の上に置かれていた別々の紙が、ひとつの案件として束ねられた。
ダグラスは、机の上の資料を見渡した。
五通の封書。
管理局の報告書。
総本部の記録綴り。
赤い月は、もうその中にある。
「だから、公表はしない」
ダグラスが言った。
レオンが顔を上げる。
「赤い月の存在を、ですか」
「赤い月だけを切り出せば、公表文は作れる」
ダグラスは答えた。
「自然大陸で未確認の天体現象を観測した。原因と危険性は調査中。そう書けば、嘘にはならん。だが、その時点で赤い月は単独の異常として世に出る」
そこで、ダグラスは机の資料へ視線を落とした。
「その中途半端な発表に何の意味がある?」
レオンは何か言いかけたが、口を閉じた。
赤い月だけを知らせて、他は伏せておく。
それはもう、今この机の上にある事実とは違う。
赤い月が現れた。
外部五大陸は説明できなかった。
自然大陸管理局の記録でも照合できなかった。
既存の異常群と切り離せない可能性がある。
これが、今この部屋に置かれている事実だった。
「一部だけを出せば、後で必ず歪む」
ダグラスは続けた。
「なぜ最初に言わなかったのか。いつから知っていたのか。何を隠していたのか。そういう問いが、赤い月そのものより大きな歪みを生む」
セレスが、五通の封書を見た。
「隠していなくても、隠したことになる」
ダグラスは頷いた。
「そうだ。そして、そう取られた時点で、こちらは事実を説明する側ではなく、疑いを晴らす側に回る」
赤い月が何であるかを調べる前に、誰が何を隠したのかを問われる。
順番が変わる。
それだけで、同じ事実が別の顔を持ってしまう。
「どこから来たのか。何に繋がっているのか。なぜ今なのか。誰が知っていたのか」
ダグラスは、ひとつずつ置くように言った。
「そこには、まだ答えがない」
俺たちが、世界が答えられなかった問いだ。
「答えがない場所には、別のものが入る」
ダグラスの声は変わらない。
「向こう側がある。何かが来る。世界が変わる。どこかの大陸が隠していた。どこかの国が原因だ」
並べられた言葉は、どれも事実ではない。
けれど、事実でなくても人は疑惑で動く。
レオンが、机の資料へ視線を落とした。
「真偽より先に、利害と憶測が走る」
「そうだ」
ダグラスが頷く。
「疑われる前に疑う者が出る。調べる前に囲い込もうとする者が出る。守ると言いながら、先に手を伸ばす者も出る」
言っていることは分かる。
世の中そんなもんだろう、とも思う。
分かる。
分かるが、面倒くさい話になってきた。
しかも、たぶん簡単には終わらないやつだ。
「大陸ごとに、意味を変えられるわね」
セレスが続ける。
「察しが良いことだ」
ダグラスは答えた。
「神聖大陸なら神意に絡める者がいる。魔導大陸なら禁忌や術式を疑う。科学大陸なら観測記録を求める。機巧大陸なら原因になる装置を探す。幽冥大陸なら、こちらとは別の読み方をする」
「荒漠大陸は」
レオンが聞いた。
「自然大陸の管理責任を問われるだろうな」
返答は早かった。
誰が何をしたか分からなくても、責める先があれば、人はそこへ矛先を向ける。
「だから、今は出さない」
ダグラスは言った。
「隠し続けるつもりはない。順番を間違えないためだ」
順番。
誰が、何を、どの形で共有するのか。
どの大陸が。
どの機関が。
どの冒険者が。
同じ事実を、同じ形で受け取れる状態を作る。
そこを飛ばせば、赤い月は赤い月のままでは外に出せない。
誰かの都合で意味を与えられ、誰かの目的で使われる。
「記録を集める。照合する。関係機関に渡す。動ける人間を選ぶ」
ダグラスは、机の資料を指で軽く叩いた。
「この統制を、我々冒険者ギルドが握る」
好き勝手に使われないために、手放さない。
そういう言葉だった。
「現時刻をもって、本件をグランドオーダーへ移行する」
ダグラスが言った。
グランドオーダー。
聞いたことだけはある。
大陸を跨いだ大指導者が、かつて提唱した概念。
一つの大陸で抱えきれない異常。
一つの国で判断できない事態。
一つのギルドで処理してはいけない危険。
そういうものに備えた、大きすぎる箱。
発令された記録はない。
使われない方がいい名前。
それが今、開けられた。
「公表はしない」
ダグラスは繰り返した。
「知るのは、各大陸上層部、関係機関の責任者、そして必要と判断された冒険者に限る」
必要と判断された冒険者。
その言葉だけが、机の上に残った。
……ちょっと待って欲しい。
最初に反応したのは、レオンだった。
「その冒険者に、僕たちも含まれているのですね」
問いというより、確認だった。
ダグラスは頷く。
「その通りだ」
ルークも、不敵な笑みを浮かべながら頷く。
「いいじゃねえかよ」
「お前たちは赤い月の第一発見者だ。見て、戻り、報告した。管理局にも、総本部にも、お前たちの証言が残っている」
……いや待って欲しい。
「外に置いておけない、ということですか」
レオンが言った。
「そうだ」
ダグラスは答える。
「お前たちを信用していないわけではない。むしろ逆だ。だが、だからといって、何の線も引かずに外へ戻すわけにはいかん」
「俺たちが話すかもしれねえから?」
ルークが聞いた。
「それだけなら、口で止めればいい」
ダグラスは、机の資料に視線を落とした。
「問題は、お前たち自身が情報になることだ」
ルークは黙った。
俺も、すぐには言葉が出なかった。
俺たちは赤い月を見た。
地図にない場所で、あり得ないものを見た。
そして生きて戻った。
その事実は、俺たちが黙っていても消えない。
誰かが知れば、聞きに来る。
誰かが疑えば、調べに来る。
誰かが利用しようと思えば、俺たちの言葉ではなく、俺たちがそこにいたという事実だけを使う。
セレスが、静かに言った。
「証言者である以上に、証拠でもあるのね」
「そういうことだ」
ダグラスは頷いた。
「だから、功績者として扱う。だが同時に、管理対象にもなる」
……はぁ、本当に待って欲しい。
「嫌な言い方だな」
ルークは言った。
「嫌な言い方で済むうちに言っている」
ダグラスの返事は短かった。
「ちなみに、拒否権は?」
セレスは、ダグラスを正面から見ていた。
ダグラスは少しだけ間を置いた。
「今ここで聞いたことを、聞かなかったことにはできない」
答えは、分かっていた。
分かっていたが、言葉にされる厄介なことこの上ない。
「ただし、お前たちを縛り付けるつもりはない」
ダグラスは続けた。
「これは強制ではなく、共有だ。ここから先、正式に動くかどうかは、次の段階で話す」
次の段階。
その言い方に、マルクスがわずかに目を細めた。
嫌な予感しかしない。
「要するに」
レオンが、静かに言った。
「僕たちは既に、引き返せない側にいる、ということですか」
ダグラスの視線が、俺たちに戻る。
「理解が早いな」
……いやいや待て待て。
「赤い月について、世界は答えを持たない」
ダグラスは続ける。
「だが、答えがないまま放っておける段階も過ぎた」
「ここから先、お前たちはグランドオーダーの内側にいる」
少しの間を置いてマルクスが後を継いで言った。
「そこでお前たちに、伝えることがある」
「だからちょっと、待って欲しい!!」
……思わず俺は、叫んでいた。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。




