第48話 波紋
荒漠大陸から放たれた問いは、海を越えた。
封じられた通達は、船で運ばれ、早馬で運ばれ、通信術式で写され、各大陸の中枢へ届けられていく。
文面は長くない。
自然大陸第三入口右脇道先。
分類不能領域。
七大陸にない空。
昼の空の3分の1を占める、薄赤い月。
そして最後に、ひとつの問いが添えられていた。
この月を知っているか。
それは、答えを求める照会だった。
同時に、科学大陸が鳴らし続けていた警鐘に、荒漠大陸の実地報告を重ねるものでもあった。
波紋は、静かに広がり始める。
◇
科学大陸、中央観測局。
夜明け前の観測室には、まだ灯りが残っていた。
壁一面に貼られた星図。
航路補正表。
大陸収束運動の推移図。
古地図との照合差分。
そのすべてが、荒漠大陸から届いた封書の前で、別の意味を持ち始めていた。
封を切った観測官は、文面を2度読んだ。
3度目を読みかけて、手を止める。
そして、封書を抱えて局長室へ走った。
観測局長は、最初の1行を読んだ時点で眉を動かした。
自然大陸第三入口右脇道先。
2行目で、視線が止まる。
分類不能領域。
赤い月の記述に達した時、彼は照会文を机に置いた。
「荒漠からも来たか」
その声に、驚きは薄かった。
長く理論の中に置かれていた警鐘が、荒漠大陸の現場報告として返ってきた。
その事実だけで十分だった。
科学大陸は、警鐘を鳴らしていた。
世界構造の維持限界。
大陸収束運動の制御不能化。
空間安定性の不可逆的低下。
その言葉は、何度も会議に上げられた。
そのたびに、早すぎると言われた。
大きすぎると言われた。
現場を止めるには足りないと言われた。
観測値。
誤差。
理論上の危険。
科学大陸特有の過剰な悲観。
他大陸は、そう呼ぶことで距離を取った。
それでも、数値は戻らなかった。
方位はずれ続けた。
星図との照合値は揺れ続けた。
古地図との不一致は増え続けた。
大陸収束運動は、予測線から外れ続けた。
そして、大地震が起きた。
その次に届いたのが、この照会だった。
「我々は、世界が保たなくなると言った」
観測局長は、赤い月の記述に指を置いた。
「そこまでは、外していない」
若い観測官が、息を詰める。
「では、これも予測の範囲内ですか」
局長は首を横に振った。
「我々が想定していたのは、構造の崩壊だ」
空間安定性が限界を越える。
大陸収束運動が制御を失う。
座標が意味を失う。
航路が意味を失う。
世界が、世界としての形を保てなくなる。
それは、科学の言葉で組み立てられた終わりだった。
白紙化。
科学大陸は、それをそう呼んだ。
座標が失われ、構造がほどけ、世界が世界としての形を保てなくなること。
それは神聖大陸の言葉ではない。
けれど、突き詰めれば、天地開闢と同じ現象を逆向きに辿っている。
違うのは、始まりか、終わりか。
白紙から世界が始まるのが天地開闢なら、世界が白紙へ戻るのが、科学大陸の想定した破局だった。
「世界が消えることは考えた」
局長は言った。
「だが、消える前に、別の場所へ繋がるとは考えていない」
机の上には、荒漠大陸の印がある。
理論ではない。
観測値でもない。
現場から戻った者たちの報告だった。
「再計算を」
局長が告げる。
「大陸収束運動、空間安定値、自然大陸周辺の航路補正。全てだ」
「期限は」
「今すぐ」
観測官たちが動き出す。
局長は、照会文から目を離さなかった。
この月を知っているか。
答えは出ている。
知らない。
だが、その答えを書いた瞬間、科学大陸は別の問いを突きつけられる。
ならば、自分たちはこれまで何を見ていたのか。
◇
魔導大陸、中央魔術院。
荒漠大陸からの通達が読み上げられると、議場の空気が割れた。
「馬鹿な」
声を上げたのは、空間魔術部門の老術士だった。
「科学大陸の連中に続いて、冒険者ギルドからだと?」
机の上には、荒漠大陸の印が押された写しが置かれている。
冒険者ギルド総本部。
その名は、魔導大陸にとっても軽くはない。
科学大陸の理論なら、退ける言葉はいくらでもある。
数字は世界の一部しか拾わない。
星図は魔素の揺らぎを読めない。
観測値だけで世界を測るから、あの大陸はいつも結論を急ぐ。
そう言えた。
だが、荒漠大陸のギルドは違う。
彼らは現場を見る。
地図にない道を歩く。
戻れないはずの場所から戻った者の証言を扱う。
嘘と誇張と錯覚を、依頼と死亡報告の山の中から選り分けてきた組織だ。
その組織が、分類不能と書いた。
「転移事故ではないのか」
別の術士が言った。
「自然大陸のダンジョン内部で、擬似空間が開いた可能性は」
「その説明で済むなら、荒漠が七大陸へ照会など送らん」
老術士は通達文を指で叩いた。
「閉じた空間の変質なら、魔導大陸にも記録はある。だが、空まで向こう側だと?」
彼の指先が、赤い月の記述の上で止まる。
「それは門ではない」
議場に沈黙が落ちた。
若い術士が、控えめに口を開く。
「では、何です」
老術士は答えなかった。
答えがないから、照会が来ている。
この月を知っているか。
魔導大陸の術士たちは、互いの顔を見た。
知っているとは、誰も言えなかった。
それでも、知らないと書くことはできなかった。
その一語を書いた瞬間、魔導大陸の空間魔術体系は、七大陸の外側に開いた穴を認めることになる。
門ではない。
転移でもない。
擬似空間でもない。
ならば、それは何か。
議場の誰も、その名を持っていなかった。
◇
神聖大陸。
荒漠大陸からの照会文は、大聖堂の外務司祭へ届けられた。
白い石の広間に、司祭たちが集められる。
文面が読み上げられた直後、最初に響いたのは怒りだった。
「異世界などという言葉を、軽々しく使うな」
司祭の声が、天井の高い広間に反響する。
「七大陸は、神の御手によって開かれた世界だ。その外を語るなど、信仰への冒涜に等しい」
別の司祭が、照会文を睨む。
「科学大陸の観測局ならまだ分かる。あの者たちは、数字の先に神を見ようとしない」
声には、嫌悪が混じっていた。
「だが、荒漠大陸の冒険者ギルドまで、このような妄言を運ぶとは」
机の上には、荒漠大陸の印がある。
赤い月。
昼の空。
七大陸にない景色。
分類不能領域。
司祭たちは、その言葉を信仰の外へ押し返そうとした。
神が開いた世界の外などない。
そうでなければならない。
そうでなければ、彼らが日々説く世界の輪郭が崩れる。
だが、広間の奥に座る最高司祭の視線だけは、司祭たちとは違う場所にあった。
彼は赤い月の一文を見ていない。
七大陸のどこにも分類できない場所。
その一文だけを、長く見ていた。
「猊下」
外務司祭が声をかける。
「この照会には、どのように返答を」
最高司祭は、ゆっくりと顔を上げた。
「正式な返答は保留しなさい」
広間に、ざわめきが走った。
「保留、ですか」
「妄言として退けることも、事実として認めることも、今はしない」
否定しない。
その判断は、司祭たちにとって肯定に近い重さを持った。
「封じられた記録を持ってきなさい」
ざわめきが止まる。
「猊下」
最高司祭は、照会文の一文に視線を落とした。
七大陸のどこにも分類できない場所。
「確かめるべきは、そこです」
司祭たちは口を閉じた。
広間に、祈りの前に似た静けさが降りる。
だが、その静けさは神へ向かっていなかった。
封じられた記録へ向かっていた。
「七大陸の外を、かつて人がどう語ったのか。それを確かめます」
大聖堂の鐘が鳴った。
いつもなら、祈りの時を告げる音だった。
その日だけは、封じられた扉を叩く音に聞こえた。
◇
機巧大陸の港湾都市では、荒漠大陸からの通達そのものは伏せられた。
それでも、変化は隠しきれない。
蒸気式の揚貨機が、積み込み直前の部品箱を持ち上げたまま止まった。
荒漠大陸向けの測量器が、倉庫へ戻される。
予備の歯車。
方位計。
携帯式の記録板。
外縁部調査用の細い杭。
箱の側面には、納品先が焼き印で記されていた。
荒漠大陸ギルド総本部。
その下に、小さく用途が添えられている。
自然大陸外縁部調査機材。
港湾組合の掲示板からは、荒漠大陸行きの輸送票が外されていた。
昨日まで並んでいた紙が、まとめて消えている。
商人が、港の職員に詰め寄った。
「理由を言え。船が遅れるなら、荷の契約を組み直さなきゃならん」
職員は、同じ言葉を繰り返す。
「上からの指示です」
「だから、その上ってのはどこだ」
職員は答えない。
答えないことが、答えになっていた。
近くで荷を運んでいた若い作業員が、空を見上げた。
空は、いつも通り青い。
その下で、荷だけが戻されていく。
「自然大陸で何かあったのか」
誰かが言った。
別の誰かが、声を潜める。
「地震の時と同じだってよ」
「何が同じなんだ」
「知らねえよ。上が口閉じてる時は、ろくな話じゃねえ」
港の風が、帆布を揺らす。
赤い月のことを、彼らは知らない。
分類不能という言葉も知らない。
それでも、世界がいつも通りではないことだけは分かった。
船が止まる。
荷が戻る。
依頼票が消える。
職員たちが、理由を言わずに走る。
不安は、情報より早く広がっていった。
◇
荒漠大陸から放たれた問いは、七大陸を巡った。
科学大陸は、自分たちの理論が、ついに現場の報告と重なったことを知った。
同時に、その理論が意味する景色を想像できていなかったことも知った。
魔導大陸は、答えを返せなかった。
知らない、と書けば済む話ではない。
その一語を書いた瞬間、彼らの空間魔術体系は、七大陸の外側に開いた穴を認めることになる。
神聖大陸は、異世界という言葉を冒涜として退けた。
それでも大聖堂の奥では、否定の言葉より先に、封じられた記録が求められていた。
機巧大陸の港では、何も知らない人々が空を見上げていた。
怒りも、沈黙も、不安も、別々の場所で生まれた。
それでも、波紋の中心は同じだった。
科学大陸の警鐘は、長く数字の中にあった。
方位。
星図。
古地図。
大陸収束運動。
世界構造の維持限界。
そこへ、荒漠大陸がひとつの報告を投げ込んだ。
昼の空の3分の1を、薄赤い月が占めていた。
その一文は、理論を揺らした。
信仰を揺らした。
面子を揺らした。
日常を揺らした。
荒漠大陸の問いは、答えを求めて放たれた。
科学大陸の警鐘だけなら、理論の話として距離を取れた。
荒漠大陸の報告だけなら、自然大陸の一異常として囲い込めた。
だが、理論と現場が同じ方向を指した瞬間、それはただの照会ではなくなった。
各大陸が先送りしてきた判断を、喉元へ突きつけるものとなった。
この月を知っているか。
問いは、七大陸の上を巡る。
その問いに、すぐ答えられる大陸はなかった。
知らない。
その答えだけが、七大陸で初めて一致した。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。




