第46話 赤い月
この大気を、俺は知らない。
この匂いを、俺は知らない。
そう気づいた瞬間、さっきまで目に入っていたものが、少しずつ違う形に見え始めた。
土の色。
石の光。
葉の裏の銀。
木々の奥に沈む静けさ。
全部が珍しいだけだと思っていた。
違う。
珍しいんじゃない。
繋がらない。
俺は顔を上げた。
森の色が、少し違って見えた。
草の緑も。
木の幹も。
岩肌も。
どれも、見慣れた昼の色から、わずかに外れている。
夕方というほど濃くはない。
赤い、と言い切れるほどでもない。
ただ、薄い紅が、光の中に混じっている。
俺たちが第三入口に入ったのは、朝だった。
少なくとも、こんな色の光が差す時間ではない。
第三入口に入ってから、そんなに時間は経っていない。
入口付近を確認し、分岐まで進んだ。
右脇道に入り、30歩地点を測った。
目印を置き、光の先へ出た。
それだけだ。
夕方になるほどの時間なんて、どこにもなかった。
それなのに、森は薄く紅を含んでいる。
静かに。
淡く。
昼の顔をしたまま、少しだけ色を間違えている。
「……アレン」
セレスの声がした。
いつもより、少し掠れていた。
俺が振り向くと、セレスは空を見ていた。
記録板を抱えたまま、木々の隙間を指している。
「あれ」
俺は、その指の先を見た。
最初は、空の色だと思った。
枝葉の隙間に、薄い赤がにじんでいる。
昼の青に、ほんの少し紅を溶かしたような色。
けれど、違った。
赤いのは、空そのものじゃない。
その奥に、輪郭があった。
大きすぎて、すぐには月だと分からなかった。
木々に隠れて、全体は見えない。
それでも、見えている弧だけで分かる。
あれは、空の3分の1を覆うほどの大きさだった。
昼の空に、薄く透けるように浮かぶ、淡い赤の月。
俺たちの知っている空には、存在しない月だった。
息が止まった。
綺麗だとか。
不気味だとか。
そんな感想は、出てこなかった。
考えるより先に、身体が退けと言っていた。
ここは、まずい。
「戻るぞ」
俺の声に、ルークが振り向く。
「今すぐだ。第三入口まで戻る。そのまま荒漠大陸へ帰る」
誰も聞き返さなかった。
レオンは地図を畳み、セレスは記録板を抱え直す。
ルークは欠片を入れた袋を握ったまま、すぐに縄へ手を伸ばした。
それでいい。
理由はあとでいい。
今は、ここに長くいる方がまずい。
そこから先のことは、細かく覚えていない。
目印札。
縄。
石の床。
第三入口の外の光。
必要なものだけを拾い、必要なことだけを確認して、俺たちは自然大陸を離れた。
誰も、ほとんど喋らなかった。
喋ることがなかったわけじゃない。
たぶん、逆だ。
ありすぎて、どれから言えばいいのか分からなかった。
見たもの。
拾ったもの。
聞こえなかった音。
知らない匂い。
薄い紅を含んだ昼の光。
そして、空を覆うほどの月。
全部が頭の中にある。
けれど、どれも言葉にすると形が崩れそうだった。
荒漠大陸へ向かう船の上で、ようやくルークが口を開いた。
自然大陸の輪郭は、もう遠くにあった。
甲板の手すりに背中を預けたまま、ルークは空を見ている。
そこには、いつもの空があった。
青くて。
遠くて。
知っている空だ。
だから余計に、あの薄赤い月が頭から離れなかった。
「なぁ」
ルークが言った。
「どう思う?」
誰もすぐには答えなかった。
波の音だけが、船べりを叩いている。
「あんなの、見たことねえぞ」
ルークは空から目を離さない。
「俺、月ってもっと小さいもんだと思ってたんだけど」
「普通はそうね」
セレスが答えた。
記録板は閉じている。
けれど、手はずっとその表紙に置かれていた。
「少なくとも、七大陸のどこからも見える景色ではないわ」
「つまり?」
ルークが聞いた。
軽く聞いたつもりだったのかもしれない。
でも、声は軽くならなかった。
セレスは答えなかった。
レオンも、すぐには口を開かなかった。
「……本当に異世界だったとでも?」
ルークは笑おうとして、失敗した。
風が甲板を抜ける。
誰も否定しなかった。
俺もできなかった。
否定するには、あの月は大きすぎた。
「分からない」
レオンが言った。
「でも、見間違いで済ませるには、持ち帰ったものが多すぎる」
土。
結晶片。
記録。
4人分の記憶。
そして、あの月。
ルークは小さく息を吐いた。
「夢なら、起きた時に石は残らねえもんな」
「ええ」
セレスは閉じた記録板を見下ろした。
「記録も残っているわ」
「記録が夢だったら?」
「その場合、私たちは全員、同じ夢を見て、同じものを持ち帰って、同じ記録を残したことになるわね」
「……それはそれで嫌だな」
「でしょうね」
その返しはいつも通りに近かった。
けれど、誰も笑わなかった。
あの月を見たあとでは、何も笑い話にならない。
俺は手すりに手を置いた。
潮の匂いがする。
荒漠大陸へ向かう船の匂い。
何度か嗅いだことのある、知っている匂い。
それだけで、少しだけ息がしやすかった。
「ギルド、信じるかね」
ルークがぼそっと言った。
「さぁな」
俺は手すりに肘を置いたまま答えた。
「信じようが信じまいが、俺たちには関係ないけどな」
「関係なくはないだろ」
ルークがすぐに食いつく。
「俺たちの問題と、ギルドが信じるかどうかは関係ないってことさ」
俺は肩を竦めた。
「俺たちは見た。持ち帰った。報告する。それだけだろ」
「それだけ、ね」
ルークは薄く笑った。
「それだけにしては、見たものがでかすぎるんだよな」
俺は何も返さなかった。
その通りだった。
俺たちは、ただ確認に行っただけだ。
地図にない通路の先を。
前回見た光の向こうを。
でも、そこにあったのは、知らない森だった。
知らない空だった。
知らない月だった。
そして、知らない大気だった。
船は荒漠大陸へ進んでいく。
空は青い。
どこまでも、知っている昼の空だった。
あの月はない。
それなのに、目を閉じると、木々の隙間に薄赤い弧が浮かぶ。
あれはまだ、俺の中で消えていなかった。
◇
荒漠大陸の港へ着いたのは、それから数日後だった。
日は傾き始めていた。
本物の夕方だった。
それが分かるだけで、少しだけ安心するのがおかしかった。
けれど、誰もそれを口にはしなかった。
港からギルド本部へ向かう道でも、会話は少なかった。
乾いた風。
砂を含んだ街の匂い。
人の声。
荷車の軋み。
遠くで鳴る鐘。
荒漠大陸の匂いだ。
知っている場所の匂いだ。
そのことに、何度も救われた。
ギルド本部に入ると、受付にいた職員が顔を上げた。
前回、依頼票を書いた職員ではなかった。
少し年嵩の、肩幅のある男だ。
受付に座っているというより、奥から一時的に出てきていたように見える。
男は俺たちの顔を見ると、机の上に置かれた控えの札へ目を落とした。
「戻ったか。第三入口の再確認だな」
「ああ」
レオンが地図を広げる。
職員は控えの札と地図を見比べ、右脇道の位置に目を落とした。
地図上では終端になっている30歩地点。
その先に、レオンの手で赤い線が書き足されている。
「先へ進んだんだな」
「進んだ」
レオンが答える。
「目印を置きながら進んだ。通路は、その先で外に繋がっていた」
職員は控えに書き込んでいく。
ここまでは、まだ再確認の報告だった。
「外に出た先の土だ」
セレスが採取袋を一つ置いた。
「外縁部で見た黒土とは違うわ。灰色がかっていて、粒が細かい」
「こっちは石」
ルークがもう一つの袋を机に置く。
「戻り口の近くに落ちてた。岩にも同じようなのが埋まってたぜ」
職員が袋を開ける。
薄く濁った透明の欠片。
中に、細い緑の線が走っている。
そこで、職員の手が一度止まった。
「これは、自然大陸の既知鉱物か?」
近くにいた別の職員が覗き込む。
「すぐには分からん。奥に回す」
その職員が採取袋を受け取り、別の机へ運んでいく。
職員は奥にいた別の職員を呼んだ。
呼ばれた職員が記録板の横に立つのを待って、セレスは続けた。
「草も違ったわ。葉の裏が銀色に光るもの、根元だけ赤い苔、石の表面に白い筋のようなもの。全部、出口周辺で確認した」
「魔獣は?」
受付の職員が聞く。
「見てない」
俺が答えた。
「というより、気配が薄かった。鳥も獣も、虫の音もほとんどない」
「自然大陸でか?」
「だから変なんだよ」
ルークが言った。
「森は濃いのに、妙に静かだった。外縁部の森とは違う」
もう1人、奥から職員が呼ばれる。
記録板が机の上で広げられ、採取袋が並べられていく。
土。
結晶片。
地図。
セレスの記録。
確認するものが、少しずつ増えていった。
「それから」
セレスが言った。
「空に月があった」
「月?」
「昼の空よ」
セレスは続ける。
「第三入口に入ったのは朝。外へ出るまでに、夕方になるほどの時間は経っていない」
「薄赤色だった」
俺が言った。
「日中の空に、うっすら見えた。最初は空の色かと思った。でも違った。輪郭があった」
職員たちは誰も口を挟まなかった。
「森の枝葉で全部は見えなかったんだが」
俺は続けた。
「見えている弧だけで分かった。異常に大きい」
「どのくらいだ」
年配の職員が聞いた。
「空の3分の1くらいを覆っていたな」
主担当の職員の筆が止まった。
机の周りにいた職員たちが、ひとり、またひとりと顔を上げる。
地図にない通路でも。
見たことのない石でも。
外縁部と違う森でも。
それだけなら、まだ通常の依頼処理で扱えた。
調査依頼。
採取依頼。
危険度の再判定。
ギルドの中で扱える名前があった。
けれど、昼の空に月があった。
七大陸のどこにもない月が。
その瞬間、もう誰も、これを通常の報告として扱っていなかった。
少し離れた場所にいた職員が、椅子を引いた。
「グランドマスターを呼べ」
誰かが走った。
扉が開く音。
奥の廊下へ消えていく足音。
その瞬間、ギルド本部の空気が変わった。
ただの確認依頼ではなくなった。
ただの地図外通路でもなくなった。
俺たちの報告が、ギルド本部の中で、別の名前を持ち始めた。
その名前を、俺たちはまだ知らなかった。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。




