第45話 出るなとは言われていない
変わっていない。
湿った石の匂い。
足元の硬さ。
奥へ進むほど、外の音が遠ざかっていく感じ。
前回と同じだった。
「入口付近、前回記録と差異なし」
セレスが記録板に書き込む。
レオンは魔素計を見ていた。
「数値も大きく変わっていない」
「良い知らせか?」
ルークが聞く。
「少なくとも、悪い知らせではないね」
「前回の記録が使えるもの」
セレスが記録板から目を上げずに言った。
それは大きい。
前に来た時は、何が普通で、何が異常なのかも分からなかった。
でも今回は、比べるものがある。
壁の削れ。
足元の傾き。
天井の低さ。
音の返り方。
どれも記録とずれていない。
セレスが歩数を刻み、レオンが地図と照らし合わせる。
ルークは縄を肩にかけたまま、少し先を歩いていた。
そうして進んだ先で、道は左右に分かれた。
左は本来の主路。
右は、地図上では行き止まりの脇道。
ルークは迷わず右を見た。
「問題はこっちだな」
「そうだね。準備は万全かい?」
レオンが軽く笑みを浮かべる。
「こっちは万全」
ルークは縄を肩にかけ直した。
「地図が古いのか、俺たちの目が正しかったのか。確かめようぜ」
「その二つ、同時に成り立つかもしれないわ」
セレスが記録板を開きながら言った。
ルークは一瞬だけ黙る。
「……悪ぃ。ノリで当たり前のこと言っちまったかも」
「大丈夫。いつも通りよ」
セレスは小さく笑って答えた。
俺は右脇道の奥を見る。
冷たい石の匂いの向こうに、前回と同じ光がある。
「行くか」
右脇道へ入る。
セレスが魔灯を掲げると、光は前回と同じように右壁へ寄った。
「また右だ」
ルークが言う。
「ええ。前回と同じ」
セレスは記録板に書き込む。
魔灯、右壁側へ偏りあり。
前回記録と同様。
レオンは魔素計を見る。
「魔素計も、大きな差はない」
「それも同じ?」
「ああ。同じだ」
前回と同じ。
その言葉が、今は少しだけ頼もしかった。
前回見たものは、同じ形でそこにある。
異常なのは間違いない。
けれど、前回の記録が通じるなら、確かめようはある。
「10歩」
セレスが言う。
「20歩」
足音が石に跳ね返る。
「30歩」
セレスが言ったところで、俺たちは足を止めた。
地図では、ここが終端だった。
右脇道は30歩前後で行き止まり。
奥に空間なし。
そう記録されている場所。
けれど、目の前に壁はない。
通路は、普通に続いていた。
「はい、壁なし」
ルークが目印札の先を覗き込む。
「じゃあ、続き行こうぜ」
「記録してから」
セレスが目印札を置き、記録板に書き込む。
「30歩地点。地図上の終端。壁なし。通路継続」
ルークはそれを待ってから、もう一度奥を見た。
「よし。続き」
レオンは地図の該当箇所に印をつける。
「魔灯の偏りも、魔素計も前回と大きな差はない」
「なら十分だな」
ルークはもう奥を見ている。
目印札を置く。
縄を伸ばす。
必要な印だけを残して、俺たちは先へ進んだ。
奥へ進むほど、光は少しずつはっきりした。
眩しいわけではない。
ただ、暗さが薄くなる。
洞窟の奥に、外が混じっているみたいだった。
風がある。
頬に触れるほど強くはない。
でも、たしかに流れている。
湿った石の匂いの中に、草の匂いが濃くなる。
「やっぱり、あるな」
ルークが言った。
「ええ。前回と同じ」
セレスは記録板から目を上げる。
俺たちは、前回止まった場所まで来た。
そこに線が引いてあるわけではない。
でも分かった。
あの時、あと少しだと思いながら戻った場所。
光が見えて。
風があって。
匂いがして。
けれど、入っていないと記録した場所。
「前回、ここまで」
セレスが言った。
ルークは光の先を見たまま、肩の縄を軽く引いた。
「で?」
全員が少しだけ黙る。
レオンが俺を見る。
「どうする?」
いつもの調子だった。
「行くでしょ」
俺が言うと、ルークがすぐに笑った。
「だよな!」
「出るなとは言われてないしね」
俺が言うと、レオンは小さく息を吐いた。
「言うと思ったよ」
セレスも、当然のように頷いていた。
「目印を増やすわ」
セレスは記録板を抱え直した。
「戻り口を見失わないように」
「縄は?」
ルークが聞く。
「足りるところまでは使う」
レオンは魔素計を見た。
「魔素計の数値も、特に問題なさそうだね」
「じゃあ行こうぜ」
ルークが魔灯を少し下げた。
魔灯の光は、もうあまり意味を持っていなかった。
奥の明るさの方が、ずっと自然にそこにある。
俺は足元を見る。
石の床。
目印札。
伸びた縄。
セレスの記録。
レオンの地図。
ルークの魔灯。
戻るためのものは、ある。
なら、進む。
俺は光の境目を越えた。
眩しさはなかった。
ただ、暗さが終わった。
足元の感触が変わる。
石ではない。
土だ。
踏むと、草の根が足裏にわずかに返ってくる。
顔を上げる。
草があった。
木があった。
風があった。
空もある。
外に出た。
「……外、だよな?」
ルークが後ろで言った。
「だな」
俺はそう答えてから、振り返る。
背後には、俺たちが出てきた穴があった。
岩の裂け目のような口。
その奥に、暗い通路が続いている。
「で、ここはどこだ?」
ルークが周囲を見回した。
声が少し弾んでいた。
分かる。
俺も同じだった。
地図にない通路を抜けた先。
誰も記録していない出口。
知らない森。
それだけで、胸の奥が少し熱くなる。
「まずは出口周辺だけだね」
レオンが地図を開いた。
「奥へは行かない。戻り口を中心に、見える範囲を確認する」
「分かってるって」
ルークはそう言いながら、もう数歩先を見ている。
セレスは記録板を抱え直した。
「ルーク」
「まだ動いてねえだろ」
「目が先に行ってるわ」
ルークは一瞬だけ黙った。
「……目は戻せねえな」
「足だけ戻しておいて」
「はいよ」
ルークは肩をすくめて、戻り口の方へ半歩下がった。
俺が少し笑うと、セレスの視線がこっちに来た。
「あなたもよ」
「俺、何もしてないけど」
「今からしそうだった」
否定しようとして、やめた。
たぶん、当たっている。
俺は少し笑ってから、足元を見た。
土の色が違う。
自然大陸の外縁部で見た土は、もっと濃く、湿った黒に近かった。
ここは少し灰色がかっている。
乾いているわけではないのに、踏んだ跡の縁が白く崩れる。
「土、違うな」
俺が言うと、セレスがすぐにしゃがんだ。
指先で土に触れ、崩れ方を見る。
「ええ。外縁部の土とは違う。粒が細かいわ」
「持って帰る?」
ルークが聞く。
「少量だけ」
セレスは小さな採取袋を取り出した。
「検証できるものは採取したい」
その横で、レオンは岩肌を見ていた。
戻り口の周りの岩は、第三入口の石とは色が違った。
青灰色。
いや、ただの灰色ではない。
角度を変えると、奥の方に薄く緑が走る。
「これ、石の色も違うね」
レオンが言った。
ルークが近づく。
「ほんとだ。なんか光ってねえか?」
岩肌の割れ目に、小さな粒が埋まっていた。
最初は水滴かと思った。
でも違う。
光を受けた粒が、淡く透けている。
透明ではない。
ガラスほど冷たくもない。
宝石と呼ぶには、形が荒い。
石の中に、星の欠片を雑に押し込んだみたいだった。
「何だこれ」
ルークは岩肌から目を離さなかった。
いつもの軽口が途切れている。
でも、口元だけは少し上がっていた。
見つけた顔だった。
俺も岩肌に近づく。
粒は一つではない。
割れ目に沿って、いくつも埋まっている。
奥の方にも、光を返す点があった。
「白灯草じゃなくて、石の採取依頼だったっけ?」
ルークが言う。
「違うわ」
セレスはそう返しながらも、目は岩肌から離していなかった。
「でも、これは記録する価値がある」
「欠片、取れるか?」
「無理に剥がさない方がいい」
レオンが止めた。
「周囲を崩したら戻り口に影響するかもしれない」
「じゃあ、落ちてるやつ探すか」
ルークはすぐに足元へ目を落とした。
こういう時の切り替えは早い。
俺たちは戻り口の周りを探した。
草の根元。
岩の下。
土の浅い窪み。
ほどなくして、ルークが声を上げた。
「あった」
小指の爪ほどの欠片だった。
薄く濁った透明。
中に、細い緑の線が走っている。
ルークがそれを掌に乗せると、セレスがすぐに覗き込んだ。
「触って平気?」
「今のところ、手は溶けてねえ」
「それは安全確認とは言わないわ」
「でも大事だろ」
「……じゃあ、溶けるまで待とうかしら」
俺は笑いそうになって、欠片へ目を落とした。
たしかに、見たことがない。
石なのか。
結晶なのか。
魔素が固まったものなのか。
分からない。
分からないものが、目の前にある。
「これは持ち帰りたいな」
俺が言うと、セレスが頷いた。
「ええ。袋に入れて。直接触れた人も記録する」
「俺、発見者な」
ルークが言った。
「はいはい。発見者ルーク」
「雑だな」
「雑じゃないわ。正式記録よ」
セレスは本当に記録板にそう書いた。
ルークが少し嬉しそうな顔をしたので、俺は見なかったことにした。
出口の周りには、他にも知らないものがあった。
葉の裏が銀色に光る草。
根元だけが赤い苔。
石の表面に、細い糸のように伸びる白い筋。
全部が珍しい。
全部が、自然大陸らしいと言えば自然大陸らしかった。
ここは、まだ誰も見ていない場所なのかもしれない。
そう思うと、足が自然と先へ進みそうになる。
その前に、セレスが俺の袖を軽くつまんだ。
「そっちは後」
「俺、まだ一歩も出てないけど」
「つま先が向いてるわ」
足元を見る。
たしかに、森の奥へ向いていた。
「よく見てるな」
「見ていないと、あなたは進むもの」
否定できなかった。
ルークが笑う。
「まあ、俺も行きたい」
「でしょうね」
セレスは記録板を閉じずに答える。
「だから、今は記録するの」
「行くためじゃなくて?」
「戻ってから、もう一度来るためよ」
それは、悪くない言い方だった。
俺たちはもう少しだけ周囲を見た。
本当に、少しだけ。
戻り口が見える範囲。
縄が届く範囲。
目印札を見失わない範囲。
それでも、見るものは多かった。
地面の色。
石の光。
草の形。
木の根の張り方。
風の抜ける向き。
知らない場所は、情報が多い。
多すぎるくらいだ。
だから最初は、胸の奥のざわつきも、そのせいだと思った。
知らないものを見ているから。
見たことのない石を拾ったから。
地図にない出口に出たから。
胸の奥が落ち着かないのも、そのせいだと思っていた。
「なあ」
ルークがふと顔を上げた。
「さっきから、何も鳴いてなくねえか?」
俺は耳を澄ませる。
風はある。
葉は揺れている。
草も鳴る。
枝も鳴る。
でも、それだけだった。
「鳥も、獣もか」
俺が言うと、ルークは短く頷いた。
「魔獣もな」
その言葉で、胸の奥のざわつきが少し形を変えた。
そうだ。
虫の羽音がない。
草の奥で小さな獣が逃げる気配もない。
木々の上で鳥が騒ぐ声もない。
遠くで魔獣が吠える声もない。
自然大陸に入ってから、俺たちは何度も森の音を聞いている。
葉擦れだけじゃない。
土の下。
草の奥。
枝の上。
見えない場所で何かが生きている音。
この大陸は、黙らない。
静かに見えても、どこかで必ず何かが動いている。
ここには、それがない。
「静かすぎるな」
俺が言うと、レオンも頷いた。
「外縁部とは違う」
レオンは魔素計を取り出しかけて、途中で手を止めた。
少し考えてから、しまう。
「数値を見るより、今はこっちの方が確かだ」
「こっち?」
ルークが聞く。
「音だよ」
レオンは木々の奥を見た。
「自然大陸の森なら、ここまで生き物の気配が薄いのは不自然だ」
セレスも記録板に短く書き込む。
生物音、極端に少ない。
セレスが書いた文字を見て、俺はもう一度森を見た。
石の光も、銀色の葉も、まだ目を引く。
けれど、次を探す前に、木々の奥の静けさが耳についた。
草は濃い。
木も太い。
枝葉は重なり、視界の奥を隠している。
なのに、迫ってこない。
自然大陸の森は、もっと近かった。
緑が近い。
土が近い。
獣が近い。
魔獣が近い。
見えなくても、そこにいると分かる。
森そのものに飲み込まれるような圧がある。
ここには、緑がある。
けれど、その圧がない。
形だけ森をしているみたいだった。
「自然大陸って、こんな感じだったか?」
ルークが言った。
誰もすぐには答えなかった。
違う。
たぶん、全員がそう思っていた。
静かすぎる。
生き物の気配が薄い。
森の圧がない。
どれも違和感ではある。
けれど、それだけではない気がした。
俺は、違和感を目で探していた。
土の色。
石の光。
草の形。
木々の奥。
でも、違う。
最初から引っかかっていたのは、見えるものじゃない。
息をするたびに、肺の奥へ入ってくるものだ。
俺は息を吸った。
土と葉の匂いがする。
湿った草の匂いもする。
でも、その下にあるものを知らない。
自然大陸の匂いではない。
あの濃すぎる緑の匂いではない。
湿った土と獣と魔素が混ざった、押し寄せるような匂いではない。
荒漠大陸の乾いた風とも違う。
学校の森とも違う。
街道沿いの草地とも違う。
肺に入る空気の重さが違う。
鼻の奥に残る匂いが、どこにも繋がらない。
俺はようやく分かった。
ずっと鳴っていた警鐘は、これだ。
この大気を、俺は知らない。
この匂いを、俺は知らない。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。




