第44話 知らない場所
翌朝、第三入口の依頼票は掲示板に戻っていなかった。
代わりに、受付の上に一枚だけ置かれている。
第三入口・再開放確認。
昨日、仮の依頼票に書かれていた題名と同じだった。
一晩置いたところで、字面が面白くなることはなかったらしい。
「地味だな」
ルークが言った。
「昨日からそればっかりだな」
「変わってないんだから、文句も変わらねえだろ」
ルークは肩をすくめたが、依頼票から目は離さなかった。
「でも、中身は地味じゃねえ」
それは否定できなかった。
地図にない通路。
外のような光。
草の匂い。
戻りきらなかった魔素計。
壁に寄った魔灯の光。
どれも、依頼名の中には入っていない。
受付の職員が、依頼票の端を指で押さえた。
昨日と同じ職員だった。
カウンターには、封をされた小箱と、第三入口周辺の管理用地図が置かれている。
「正式依頼票です」
職員はそう言って、こちらに向けた。
「今回は、確認記録の提出で成立します。第三入口を掲示に戻せるかどうか、その判断材料として使います」
職員は管理用地図の右脇道を指で示す。
「右脇道の現況。地図との差異。通路の有無。壁、天井、床の変化。魔灯と魔素計の反応。光、風、匂い。記録できた範囲を封緘してください」
開けるか。
閉じるか。
その材料を持ち帰るのは、俺たちだ。
ルークが依頼票を覗き込む。
「確認記録、ね」
「不満か?」
「いや」
ルークは少しだけ笑った。
「こう書かれると、余計に何かありそうだなって思ってな」
「お前は何を見てもそう言いそうだ」
「地図にない通路だぞ。言うだろ」
ルークの声は軽い。
けれど、目は依頼票から離れていなかった。
職員は小箱をこちらへ押し出した。
「縄、目印札、封緘用の記録紙、予備の魔素計、予備の魔灯。昨日説明したものはすべて入っています。地図の写しも同梱しています」
昨日聞いた道具が、今日はそのまま俺たちの荷物になる。
箱の中身は多くない。
けれど、軽く見ていいものではなかった。
これを持っていくということは、昨日見たものを、ただの見間違いで終わらせないということだ。
レオンは地図の写しを見ていた。
「同じなら、見間違いではなかったってことだね。違ったなら、何かが変わったってことになる」
「どっちでも、手ぶらでは帰れないってことか」
俺が言うと、レオンは頷いた。
「そうだね。何もなかったとしても、何もなかったと確認した記録は必要になる」
「俺は何かある方がいいけどな」
ルークが言う。
「何もない方が、ギルドは助かるんだろうけど」
「でも、僕たちはギルドを安心させに行くわけじゃない」
レオンの声は穏やかだった。
「見たものを、見た通りに持ち帰る。それで十分だよ」
ルークは少しだけ笑った。
「そういう言い方なら、悪くねえな」
セレスは、昨日の記録板の写しを見ていた。
魔灯の偏り。
魔素計の戻り。
光。
風。
匂い。
未進入。
最後の一行だけ、少し硬い字で書かれている。
それを書いたのは、セレス自身だった。
外とは断定しない。
出口とも断定しない。
入っていない場所を、入った場所として扱わない。
セレスは、そういうところを曖昧にしない。
「未進入って書いたんだな」
ルークが横から覗き込んだ。
「書いたわ」
セレスは記録板の写しから目を離さずに答える。
「入っていないもの」
「でも、見えたし、匂いもした」
「ええ。でも、それだけよ」
セレスはそこで、ようやく顔を上げた。
「見えたものと、確かめたものは違うわ」
ルークは少し考えるように、記録板の写しを見た。
「悔しいのか?」
「少しね」
セレスはあっさり答えた。
その返事が意外だったのか、ルークが目を丸くする。
「悔しいんだ」
「見えていたのに、知らないままなのよ」
セレスは記録板の写しを指で軽く叩いた。
「落ち着かないでしょう」
「そういう理由か」
「他にある?」
セレスは少しだけ首を傾げた。
その仕草に、ほんの少しだけ茶目っ気が混じっていた。
ルークは笑う。
「あるだろ。面白そうとか」
「それもあるわ」
今度は俺がセレスを見た。
セレスは、当然のような顔で続ける。
「地図にない通路で、光が見えて、風と匂いがあったのよ。気にならない方が変でしょう」
「開き直ったな」
「隠すほどのことでもないもの」
そう言ってから、セレスは少しだけこちらを見る。
「アレンは気にならないの?」
「気にならない顔に見えるか?」
「見えないわね」
「なら聞くなよ」
「確認よ」
「便利に使うな」
「使いやすい顔をしているから」
ルークが吹き出した。
「それは褒めてるのか?」
「少し」
「少しか」
俺が言うと、セレスは小さく笑った。
この距離感は、たぶん最初からあったわけではない。
セレスは学校では、誰にでも踏み込むような奴ではなかった。
むしろ、余計な波を立てないように、自分の立つ場所を慎重に選んでいた。
でも、今は違う。
1年以上、同じパーティで動いてきた。
同じ場所へ入り、同じ判断をし、同じ失敗を重ねてきた。
だからこそ、こういう顔もする。
知らない場所を前にして、少しだけ楽しそうな顔を。
「未進入、か」
ルークがもう一度言った。
「なら、空振りでも意味はあるんだな」
「ええ」
セレスは頷く。
「空振りだと分かれば、それも知らない場所ではなくなるわ」
「でも、何かあった方がいいとは思ってるだろ」
「もちろん」
セレスは否定しなかった。
「何もないよりは、何か分かった方がいいもの」
「やっぱり前のめりだ」
「そうね」
「でも、前に出るなら、戻るところまで考える。それだけよ」
セレスは記録板の写しを鞄にしまった。
知らないままにしておくことが、自分の足を止める。
自分の世界を、誰かが決めた形のままにしてしまう。
たぶん、セレスはそれが嫌なのだ。
「だから確かめるの」
セレスは言った。
「見たものを、ちゃんと知っておきたい」
俺は、少しだけセレスを見た。
昔、知らない道へ足を踏み出した女の子がいた。
少なくとも、俺はそう覚えている。
知らなかった景色を見て。
知らなかった空気を吸って。
その分だけ、世界が少し広がる。
それを、セレスは今でも覚えているのかもしれない。
あるいは、覚えているつもりがなくても、身体のどこかに残っているのかもしれない。
職員はそのやり取りには口を挟まなかった。
依頼票に印を押し、レオンへ差し出す。
「次の自然大陸行きの管理便は、予定通りこのあと出ます。今日の便はこれ一本です。必要なものはここで受け取ってください」
ルークは依頼票ではなく、小箱の方を見た。
「忘れ物したら、今日の確認が潰れるやつだな」
「そうなります」
職員は淡々と言った。
「そいつは大事件だな」
ルークは小箱を見直した。
職員は地図の写しをもう一枚重ねる。
「第三入口までの管理道は、前回と同じです。前回の記録と照合してください」
「分かった」
レオンが答える。
職員は小箱の封を確認し、最後に短く言った。
「お気をつけて」
「はい」
レオンが答える。
俺たちは小箱と依頼票を受け取り、ギルド本部を出た。
荒漠大陸の朝は乾いていた。
自然大陸から戻った時、服に残っていた草の匂いはもう薄い。
それでも、完全には消えていない気がした。
荒漠大陸の空気と、自然大陸の匂い。
その二つが、ほんの少しだけ混じっている。
ギルド本部で受け取った依頼票は、朝一番の管理便へそのまま持ち込まれた。
自然大陸は、近い場所ではない。
依頼票には一行で書ける。
第三入口・再開放確認。
でも、その一行の先には、数日分の距離がある。
揺れる床。
狭い寝台。
見慣れない荷の匂い。
交代で動く乗員の足音。
夜になるたび、窓の外から消えていく灯り。
自然大陸へ向かう時間は、いつも少しだけ長い。
ルークは二日目の昼に、依頼票を見ながら言った。
「地味な題名のくせに、遠いな」
「大陸をまたいでるからね」
レオンが答える。
「この距離を越えてまで確認するってことは、軽い話じゃない」
「分かってる」
ルークは依頼票を折らずに、膝の上へ戻した。
「地味なのは変わらねえけど」
それでも、昨日ほど何度も題名に文句を言うことはなかった。
セレスは窓の外を見ていた。
外に何が見えているのかは分からない。
ただ、彼女の目は遠くを見ていた。
「考えごとか?」
ルークが聞いた。
「ええ」
「例の、知らない場所の話か?」
「それもあるわ」
セレスは窓に映る自分の顔を見ている。
「でも今は、戻る道のこと」
「見に行く前から?」
「見に行くからよ」
その返事は早かった。
「見えるものが増えたら、もっと見たくなるでしょう」
「まあ、なるな」
「たぶん、私もそうなる」
ルークは少しだけ黙った。
「自分で言うのか」
「分かっているもの」
セレスは少しだけ笑った。
「だから、戻る理由を先に置いておくの。見たいものが増えた時に、なくさないように」
それは、臆病とは違う。
前に出ないための理由ではない。
前に出るために、戻る道を消さないという話だ。
レオンは地図の写しを畳んだ。
「戻る道を決めておくのは、悪くないね」
その言い方は、妙にしっくりきた。
何かを倒しに行くわけではない。
何かを奪いに行くわけでもない。
見たものを、持ち帰る。
知らない場所を、知らないままにしない。
そのために、俺たちはまた自然大陸へ向かっている。
◇
数日後、自然大陸の外縁部に着いた。
臨時拠点は、前に見た時と同じように、空っぽだった。
人の気配はない。
閉じられた保管箱。
風で鳴る固定具。
踏み固められた土。
仮設の屋根。
使われていない作業台。
誰かが常にいる場所ではない。
必要な時に使い、必要がなくなれば閉じる。
人がいないだけで、そこにあるものの意味が変わる。
昨日まで誰かがいたようにも見える。
最初から誰もいなかったようにも見える。
自然大陸の臨時拠点は、いつも少しだけ現実感が薄い。
「静かだな」
ルークが言った。
「静かすぎるくらいだ」
レオンは拠点の奥を見た。
「変わりはなさそうだね」
「それ、いい意味か?」
「少なくとも、悪い意味ではないかな」
セレスは保管箱の封を確認していた。
「荒らされた跡はないわ」
「そこを見るのか」
「誰もいない場所だからこそ、最初に見るの」
セレスは封に指を添えたまま答える。
「ここが変わっていたら、第三入口へ行く前に考え直す必要があるでしょう」
「変わってないなら?」
「行くわ」
短い答えだった。
ルークはその返事に、少しだけ笑う。
「やっぱり分かりやすいな」
「そう?」
「ああ。戻ることまで考えてる奴の返事だ」
セレスは少しだけ目を瞬かせた。
それから、何も言わずに保管箱から手を離した。
俺たちは臨時拠点で水と携行食を確認し、管理道へ入った。
第三入口までは、歩くだけならそう遠くない。
ただ、自然大陸の道は、距離だけで測るものではない。
木道はある。
標識もある。
管理用の目印も残っている。
それでも、周囲の森は濃い。
木々の間から、知らない鳥の声が聞こえる。
草の揺れ方が大きい。
土の匂いも、水の匂いも、荒漠大陸のものとは違う。
自然大陸は、相変わらず過剰だった。
何もしていなくても、こちらを押してくる。
歩いているだけで、何かに見られている気がする。
ルークは前を歩きながら、時々、森の奥を見た。
「相変わらず、何かありそうな顔してるよな。この森」
それは同感だった。
自然大陸の森は、いつでも何かを隠しているように見える。
実際に隠しているのか、それともこちらが勝手にそう感じているだけなのかは分からない。
でも、分からないまま足を進めるしかない。
レオンは地図の写しを確認しながら歩いていた。
「前回と同じ道だね」
「変化は?」
俺が聞くと、レオンは首を横に振る。
「今のところはない。標識も、木道も、管理用の目印も前回と同じ位置にある」
「同じなのは助かるな」
「そうだね」
レオンは前を見た。
「同じ場所へ向かっていると分かるだけでも、判断しやすい」
セレスはその後ろで、周囲の森を見ていた。
木々の奥。
足元の草。
木道の脇に残った、古い目印。
ただ歩いているだけには見えなかった。
「何かあったか?」
俺が聞くと、セレスは少しだけ顔を上げた。
「今のところは、何も」
「今のところは?」
「ええ」
セレスは前を向く。
「同じに見える場所ほど、後で違いに気づきにくいでしょう」
ルークは感心したように息を吐いた。
「やっぱり、お前は前のめりだよ」
「そうかもしれないわね」
セレスは否定しなかった。
「でも、見に行くなら、見落としたくないもの」
◇
第三入口は、前回と変わらない顔でそこにあった。
管理済み低層ダンジョン。
そう呼ばれるだけあって、入口周辺に派手な危険はない。
木道も残っている。
標識もある。
石の縁に彫られた番号も、前回と同じだった。
ただ、前回と同じだからといって、前回のことがなかったことにはならない。
前に来た時には知らなかったものを、俺たちはもう知っている。
この奥に、地図と違う場所があるかもしれない。
この奥に、光があるかもしれない。
この奥に、まだ名前を付けていない何かがあるかもしれない。
「ここまでは同じだね」
レオンが言った。
「入口だけ見ればな」
ルークは第三入口の奥を見ている。
楽しそうではある。
でも、前回より少しだけ静かだった。
セレスが小箱の留め具を確認した。
「右脇道まで行く。前回との差を見る。記録して、戻れる形を残す」
「分かってる」
ルークが答える。
俺は第三入口を見た。
低層ダンジョン。
管理済み。
安全確認。
再開放。
そういう言葉が、入口の前に並んでいる。
けれど、奥から流れてくる空気は、そのどれにもまだ収まっていない。
「行くか」
俺が言うと、ルークが頷いた。
「行こうぜ」
俺たちは第三入口へ足を踏み入れた。
外の光が、背中側へ薄くなっていく。
1歩。
2歩。
3歩。
前回と同じ、冷たい石の匂いがした。
けれど俺たちは、前回と同じ場所で止まるつもりはなかった。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。




