第41話 地図にないもの
ダンジョンというものを、ただの地下迷宮だと思っていた時期がある。
洞窟。
遺跡。
魔獣の巣。
あるいは、どこかの誰かが作った古い施設。
入口だけ見れば、大抵はそんなものだ。
石の階段があり、湿った壁があり、奥へ続く暗がりがある。
たまに、嫌になるほど分かりやすい魔獣の臭いもする。
けれど、いくつかのダンジョンに入り、先輩冒険者から話を聞き、レオンとセレスが調べた資料を横から眺めているうちに、どうもそれだけでは済まないらしい、ということは分かってきた。
ダンジョンは、異世界への門である。
そういう説がある。
正確には、こちらの世界とは別のどこかにある領域と、限定的に接続された場所、らしい。
らしい、というのは、俺に実感がないからだ。
異世界と言われても困る。
こっちは生まれてからずっとこの世界で飯を食い、この世界で寝て、この世界の面倒事に巻き込まれている。
いきなり「ここから先は別の世界です」と言われても、はいそうですか、とはならない。
ただ、否定しきれない部分もある。
ダンジョンごとに、魔法の通り方が違う。
火の魔法が素直に燃える場所もあれば、やけに重くなる場所もある。
治癒魔法の効きが遅れる場所もある。
魔道具の反応が鈍る場所もある。
魔術なら手順を整えればいい、という話でもない。
身体強化ならいつも通り、というわけでもない。
こちらの常識が、そのまま通るとは限らない。
だから、異世界への門と言われると首を傾げるが、ダンジョンごとに世界の決まりが少し違うと言われれば、なるほど、と思うところはある。
そして今、俺たちはその中へ入ろうとしている。
管理済み低層ダンジョン。
南西外縁部、第三入口。
書類の上では、そういう名前の場所だ。
足を踏み入れた瞬間、湿った空気が肌にまとわりついた。
背後にある外の光が、一歩分だけ遠くなる。
「……やっぱり、少し重いわね」
セレスが小さく言った。
なるほど。
今回は、こちらの常識が少しだけ通りにくい場所らしい。
「魔素計は?」
「まだ基準内だよ」
レオンが腰の小さな計器を確認する。
針は中央より少し右に傾いていた。
「ただ、入口付近にしては高い。記録と比べるなら、もう少し奥で出る値だ」
「嬉しくない先取りだな」
「同感だね」
レオンは地図を広げ、入口から伸びる通路に指を置いた。
「最初の分岐までは直進。およそ120歩。途中で右壁に古い削り跡がある。そこを確認してから、左へ折れる」
「削り跡ね」
ルークは足元に視線を落としたまま、荷縄の結び目を指で確かめていた。
「足場は?」
「今のところ平気だ。湿ってはいるけど、滑るほどじゃない」
「それを先に言ってほしかった」
「お前、先に言っても滑る時は滑るだろ」
「信頼がない」
「実績がある」
セレスは記録板に視線を落としたまま、何も言わなかった。
ただ、記録板の端に置いた指が、ほんの少しだけ動いた。
たぶん、笑った。
奥へ進む。
石段はすぐに終わり、床はなだらかな下り坂に変わった。
壁は湿っている。
指で触れれば水がつきそうなのに、水滴の音はしない。
代わりに、靴底が石を擦る音だけがやけに大きく響いた。
ルークが半歩前。
レオンはその斜め後ろ。
セレスは記録板を片手に、時々壁や床を見る。
俺は真ん中あたりで、前と後ろを両方見る。
「右壁」
レオンが言った。
全員が足を止める。
壁には、縦に三本の削り跡があった。
古い。
苔が薄くかかっていて、誰かが最近つけたものではない。
セレスが記録板を見た。
「前回記録と一致。位置も形も変わっていないわ」
「じゃあ、ここまでは地図通りか」
「ええ」
短い返事だった。
その短さが、少し気になった。
「まだ何かある?」
セレスは削り跡から通路の奥へ視線を移した。
「止まるほどではないわ」
「その言い方、嫌いじゃないけど嫌い」
「どちらなの」
「今は嫌い寄り」
セレスは少しだけ目を細めた。
「なら、後でまた聞くわ」
「覚えてなくていいからな」
「考えておくわ」
考えなくていい。
さらに進む。
通路は変わらない。
湿った壁。
緩やかな下り。
奥へ続く暗がり。
変わらないはずなのに、少しずつ息苦しくなる。
空気が薄いわけではない。
臭いが強いわけでもない。
ただ、前に進むたびに、背中側から誰かに呼び止められているような感じがした。
「セレス」
俺が呼ぶと、セレスは記録板から目を上げた。
「何?」
「今の、俺だけ?」
「違うと思うわ」
「断言してほしかったな」
「断言できるほど強くないの。でも、流れはある」
「流れ?」
「奥へ進んでいるのに、奥から戻ってくる感じ」
ルークが顔をしかめた。
「風か?」
「風なら、髪が揺れるわ」
セレスは自分の髪先に軽く触れた。
「揺れていないでしょう」
「じゃあ何だよ」
「分からないわ」
あっさり言われた。
「分からないまま進むの、嫌なんだけど」
「分からないから、分かるところまで進むの」
正論だったが、正論だからといって好きになれるとは限らない。
「分岐だ」
レオンが言った。
通路が二手に分かれていた。
左は幅の広い主路。
右は狭い脇道。
地図では、左が低層の主路。
右は行き止まりの小部屋へ続く短い道。
前回記録では、魔獣痕跡なし。
採取対象なし。
魔素濃度も低い。
「左だね」
レオンが言う。
「右は?」
「行き止まり。確認済みだよ」
「なら左か」
俺が言いかけた時、セレスが顔を上げた。
「待って」
足が止まる。
「右から、音がする」
全員が右を見る。
狭い通路だった。
奥は暗い。
二人並んで歩けば、肩が壁に擦れそうな幅しかない。
耳を澄ませる。
最初は何も聞こえなかった。
次に、かすかな音がした。
かり。
石を爪で引っかくような音。
ルークが荷縄を左手に巻き、右手を短剣へ添えた。
レオンが剣の柄に触れる。
「行き止まりじゃなかったのか?」
「地図ではね」
レオンが短く答えた。
その声は落ち着いていた。
だが、地図を押さえる指だけは止まっている。
「確認だけする」
俺が言う。
「時間は?」
「問題ない。ただ、長居はしない方がいい」
「ルーク、縄」
「持ってる」
「セレス」
「音は奥。動きは小さいわ。数は……一体、だと思う」
「壁?」
「ええ。反響している」
「了解」
右の通路へ入る。
狭い。
湿った壁が肩の近くに迫っている。
足元には細かい砂が溜まっていた。
十数歩進んだところで、音が止まった。
かわりに、奥の暗がりで何かが動いた。
「魔灯」
俺が言うと、ルークが腰の簡易魔灯を掲げた。
小さな石筒の中で、淡い光が灯る。
本来なら、通路の奥を薄く照らすはずだった。
だが、光は正面へ伸びなかった。
右壁ばかりが白く浮かび、奥の暗がりだけが妙に残る。
まるで、灯りがこちらの見たい場所を避けているみたいだった。
「……俺、変な持ち方してるか?」
「していないわ」
セレスが即答した。
「魔灯の光が寄っている」
「寄る?」
「照らしている場所が、少し右にずれている。光そのものというより、魔力の通り方が曲がっている感じ」
ルークが魔灯を少し傾ける。
光はやはり、右壁へ寄った。
「普通の光なら?」
レオンが聞く。
「おそらく、こうはならないわ」
セレスは魔灯と壁を見比べた。
「これは魔道具だから」
魔灯は魔道具だ。
魔素を通して光を作る以上、通す場所がおかしければ、出てくる光もおかしくなる。
理屈としては分かる。
納得したいかどうかは別として。
「見えたまま進むな」
俺は言った。
「光が信用できないってことかい?」
「全部じゃない。ただ、見えてる場所と、危ない場所がずれてるかもしれない」
「なるほど」
「なるほどで済ませたくねえなあ」
ルークが魔灯を睨む。
その時、暗がりが跳ねた。
「来る」
セレスの声と同時に、黒い影が飛び出した。
小さい。
犬ほどの大きさ。
痩せた胴体に、やけに長い前脚。
目は見えない。
鼻先のあたりだけが白く、湿った石の上を滑るように走ってくる。
「レオン!」
「見えてる」
レオンが一歩前に出る。
剣が抜かれ、狭い通路の中で最小の軌道を描いた。
影が跳ねる。
剣がそれを受ける。
硬い音がした。
「爪、硬いな」
ルークが横から短剣を突き出す。
影は身を捻った。
だが逃げ場は狭い。
「足」
俺が言う。
「分かってる!」
ルークが荷縄を低く投げた。
縄は影の前脚に絡む。
影が壁を蹴る。
ルークが引く。
「軽っ」
「浮かせるな」
「無茶言うな!」
影の体が一瞬浮いた。
その瞬間、レオンが踏み込む。
剣の峰が、影を床へ叩きつけた。
短い悲鳴のような音が響く。
影はしばらく痙攣し、それから動かなくなった。
静けさが戻る。
ルークが縄を緩める。
レオンが剣先を下げる。
セレスが魔獣の死骸へ近づきすぎない距離でしゃがむ。
俺は奥を見た。
魔灯の光は、まだ右壁に寄っている。
正面の暗がりは、薄く残ったままだ。
「今の、浅層に出るやつか?」
俺が聞くと、セレスは魔獣の前脚を見た。
「似た種はいるわ。でも、爪の形が違う」
「別種?」
「断定はできない。ただ、前回記録にはない」
「嬉しくない新発見だな」
「ええ」
セレスは記録板に短く書き込んだ。
レオンが魔素計を確認する。
「針は基準内。ただ、揺れが戻らない」
計器の針は細かく震えたまま、中央へ戻りきらない。
「魔獣が出たからか?」
ルークが聞く。
「それだけなら、もう少し素直に戻ると思う」
レオンは魔素計を見たまま答えた。
「この通路そのものの影響かもしれない」
「通路にまで機嫌があるのかよ」
「ない方が助かるね」
俺は魔灯を見る。
持ち込んだ道具の光が、思った場所を照らさない。
魔素計の針が、素直に戻らない。
浅層にいるはずのない魔獣が出る。
異世界への門。
そういう説もある、で済ませるには、少しずつ材料が揃ってきている。
「魔灯だけで見るな」
俺は言った。
ルークが魔灯を掲げたまま、こちらを見る。
「じゃあ何を信用すんだよ」
「足元」
「地味だな」
「地味なものほど大事なんだよ」
「足場は裏切るぞ。お前が証人だ」
「それを今言う?」
「今だから言う」
セレスが少しだけ口元を緩めた。
その顔を見て、少しだけ空気が戻る。
完全に戻ったわけではない。
けれど、息はできる。
「進む?」
レオンが聞いた。
「この先が行き止まりか確認する」
俺は答えた。
「魔素計が跳ねたら止まる。音が増えたら止まる。何か出たら戻る」
「分かった」
レオンが頷く。
「ルーク」
「縄は短め」
「セレス」
「歩数は見ているわ」
右の通路をさらに進む。
魔獣の死骸を越えた先は、急に静かだった。
さっきまで聞こえていた爪音もない。
水音もない。
俺たちの足音だけが、壁に吸われるように消えていく。
「今、何歩?」
「24歩」
セレスが答える。
「記録では?」
「30歩で行き止まり」
「あと6歩か」
ルークが壁に小さく印をつけた。
「嫌な6歩だな」
「同感」
進む。
25。
26。
27。
魔灯の光は右へ寄ったまま。
正面の暗がりは、濃い。
28。
29。
レオンが魔素計を見る。
「少し上がった」
「止まるほど?」
「まだ」
30。
足は止まらなかった。
目の前に、壁はなかった。
通路は、まだ続いている。
誰もすぐには動かなかった。
ルークが壁の印を見て、セレスの記録板を見て、それから奥を見た。
「……数え間違い?」
「していないわ」
セレスが答える。
「本当に?」
「ええ」
いつもの静かな声だった。
けれど、その声が静かなほど、事実だけが残った。
レオンは地図を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。
地図には、右の脇道が短く描かれている。
行き止まり。
奥行き30歩。
前回確認済み。
その先はない。
ないはずだった。
「地図が間違っていた、という可能性は?」
俺が聞く。
レオンはゆっくり首を横に振った。
「低いと思う。前回記録は複数人で確認されている。距離も、削り跡も、分岐の位置も合っていた」
「じゃあ、何が間違ってる?」
「分からない」
レオンは地図から目を上げた。
「ただ、少なくとも今、ここは地図通りじゃない」
奥を見る。
通路は続いている。
暗い。
だが、ただ暗いだけではない。
魔灯の光が届かない場所が、そこだけ残されているように見えた。
「踏み込まない。見えるところまでだ」
俺は言った。
「それ、便利な言い方だな」
ルークが言う。
「便利だからな」
「信用ならねえ」
「俺もそう思う」
進む。
10歩。
20歩。
通路の空気が変わった。
湿った石の臭いに、別のものが混じる。
土。
草。
乾いた葉。
洞窟の中にあるはずのない匂いだった。
ルークが足を止める。
「……草の匂い、か?」
誰もすぐには答えなかった。
さらに奥に、光が見えた。
魔灯の光ではない。
白く、薄く、揺れている。
通路の先に、裂け目のような明るさがあった。
その向こうで、何か細いものが揺れている。
枝。
そう見えた。
風が来た。
今度は、髪が揺れた。
セレスが口を閉じる。
レオンが地図を畳む。
ルークが、魔灯を下げる。
魔灯の偏った光など、もう必要なかった。
奥にあるものは、自分で光っていた。
いや、違う。
そこに光が差している。
「……外か?」
ルークが呟いた。
ダンジョンの出入口は、基本的にひとつ。
少なくとも、俺たちはそう教わっている。
入口があり、奥がある。
帰る時は、入ってきた場所へ戻る。
だから、目の前にあるものを見た瞬間、進むべきではないと思った。
珍しいから。
面白そうだから。
新発見かもしれないから。
そういう理由で一歩踏み込むには、材料が悪すぎる。
地図にない通路。
記録にない魔獣。
ずれる魔灯。
戻らない魔素計。
そして、行き止まりの先にある、外のような光。
「戻る」
俺は言った。
ルークがこちらを見る。
「見るだけじゃないのか?」
「見た」
「まだ、ほとんど何も」
「だから持ち帰る」
俺は奥の光から目を離した。
「ここから先は、俺たちだけで確認する場所じゃない」
レオンが頷く。
「同意するよ」
セレスは記録板に線を引いた。
一本。
短く、けれどはっきりと。
「地図にない通路。その奥に、外光らしきもの」
彼女の声は静かだった。
だが、その言葉は重かった。
ルークが縄を握り直す。
レオンが地図をしまう。
俺は、最後にもう一度だけ奥を見た。
草の匂いがした。
髪を揺らす風があった。
木の影のようなものが、薄い光の向こうで動いていた。
地図にないものを、俺たちは見つけてしまった。
見なかったことには、できなかった。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。




