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第40話 世界は動き続ける

そして、第2部スタートです。

クールタイム0日でお届けします。

科学大陸、大陸収束運動観測所。


夜明け前の観測室に、鐘の音はなかった。


代わりに鳴っていたのは、紙を送る機械音と、観測針が盤面を叩く乾いた音だった。


壁一面に並んだ計測器の針は、どれも基準線を越えていた。


一度振れた針が、戻らない。

それだけなら、まだ異常値と呼べた。


問題は、戻らないまま、少しずつ先へ進んでいることだった。


1年前なら、それは外れ値と呼ばれた。

半年前には、異常値と呼ばれた。

そして今では、誰も軽々しく名前をつけなくなっている。


「第三観測線、再計算終了。誤差範囲内です」


若い観測員の声は、ひどく乾いていた。


机の奥に座る男は、返事をしなかった。

白髪混じりの髪を片手で押さえ、手元の数式と観測盤を見比べている。


紙の上には、いくつもの線が引かれていた。

いずれの線も、緩やかに、しかし確実に同じ方向へ傾いている。


「不可逆臨界点まで、推定18〜24か月」


男は小さく呟いた。


観測員が息を止める。


「世界構造維持限界は」


「中央値で5年。楽観値で7年。早期崩壊ケースでは、3年を切ります」


誰も、声を上げなかった。


ここにいる者たちは、世界が終わる、などという言葉を好まない。

あまりに曖昧で、あまりに感情的で、観測記録に残すには雑すぎる。


だから彼らは、別の言葉を使った。


世界構造の維持限界。

大陸収束運動の制御不能化。

空間安定性の不可逆的低下。


言い方を変えれば、恐怖が消えるわけではない。

ただ、記録できる形になるだけだ。


男は机の端に伏せられた資料へ目を向けた。


そこには、まだ正式な承認印が押されていない。


単一カタストロフ仮説では、説明困難。


その一文を見つめたまま、男は長く息を吐いた。


「各大陸へ、更新報告を送れ」


「指定区分は」


「緊急。最上位で送れ」


観測員の顔が強張る。


「ですが、これで3度目です。各大陸からは、科学大陸が不安を煽りすぎているという抗議も」


「煽って済むなら、その方がいい」


男は立ち上がった。


窓の外では、科学大陸の朝が始まろうとしている。

煙突の先から白い蒸気が上がり、遠くの街には灯が残っていた。


人は今日も起き、働き、食事をし、昨日と同じ顔で明日を信じる。


その明日が、観測上どれほど危ういものになっているかを知らないまま。


「送れ」


男は言った。


「世界は、こちらの沈黙を待ってはくれない」



神聖大陸の朝は、祈りから始まる。


白い石で造られた礼拝堂には、細い光が差し込んでいた。

祭壇の前に並んだ神官たちは、声を揃えて祈句を唱えている。


その中央で、灯が揺れた。


風はない。

扉も閉じている。

窓の隙間を抜ける空気さえ、今日の朝は穏やかだった。


それでも、祭壇の灯は小さく揺れた。


若い神官見習いが、祈りの言葉を一瞬だけ詰まらせる。

隣にいた年嵩の神官が、目だけで制した。


祈りは止めてはならない。

異常を前にした時ほど、形式を崩してはならない。


祈句が終わる。


礼拝堂に静けさが落ちた後、若い神官見習いは堪えきれずに口を開いた。


「科学大陸の報告を、受け入れるのですか」


老司祭は、祭壇の灯を見つめたままだった。


「受け入れる、とは」


「世界の終わりを、数字で語るような報告です」


若い声には、怒りがあった。

恐れもあった。


「神の御業を、観測線と計算表で測れるはずがありません」


「そうですね」


老司祭は静かに答えた。


「神を測ることはできません」


「ならば」


「けれど、揺れている灯を、揺れていないとは言えません」


若い神官見習いは言葉を失った。


祭壇の灯は、まだ微かに揺れている。


それは大きな異変ではない。

奇跡が失われたわけでも、祈りが届かなくなったわけでもない。


ただ、昨日までと同じではなかった。


「昨夜の治癒記録を」


老司祭が言うと、控えていた神官が一冊の記録帳を差し出した。


紙面には、いくつもの症例と処置が記されている。

傷は塞がっている。

命は救われている。

神聖魔法は、今も確かに働いている。


けれど発動までの間に、ほんのわずかな遅れがあった。


祈りを捧げる者にしか気づかないほどの、小さな遅れ。


「信じるのではありません」


老司祭は言った。


「否定しきれないものを、否定しないだけです」


若い神官見習いは、揺れる灯を見る。


科学大陸の言葉を信じたい者など、この場にはいない。

世界が終わるなどと、誰が本気で聞きたいものか。


だが、祈りの場に残った小さな違和感は、笑い飛ばすには大きすぎた。



魔導大陸では、正しいものは正しく動く。


少なくとも、魔術師たちはそう考えている。


魔法は才覚に寄る。

感覚に寄る。

術者の意志や像によって揺らぐ。


だが、魔術は違う。

現象を普遍化し、手順に落とし込み、再現性を与える。


それが魔導大陸の誇りだった。


「世界が終わる、か」


演習室の中央で、一人の魔術師が鼻で笑った。


「科学大陸の連中は、ずいぶん詩的になったものだ」


周囲の学生たちも、控えめに笑った。


笑いたかった、という方が正しい。


床には複雑な術式円が描かれている。


主線の角度に狂いはない。

補助線の交点も、魔力の流路も、詠唱補助の刻みも、すべて規定値の内側に収まっている。


魔術師は術式円に魔力を流した。


光が走る。


外周。

内周。

中心点。


術式は、正しく起動した。


学生の一人が、小さく息を吐く。

本来なら、そこで炎球が術式円の中央に形成されるはずだった。


だが、炎は中心から半歩ずれた位置に生まれた。


失敗ではない。

暴発でもない。

魔力が散ったわけでも、術式円が焼けたわけでもない。


ただ、結果だけがずれていた。


「……発動、しましたよね」


学生が言った。


「ああ」


魔術師は、中心点と炎球の位置を見比べた。


「術式は正しく動いた」


「では、なぜ」


「だから問題なんだ」


魔術師は、床に残る光の跡を見下ろした。


「こちらが間違えたのなら、直せばいい。だがこれは違う」


炎球は、規定より半歩ずれた位置で、静かに揺れている。


「正しい手順に、世界が昨日と同じ答えを返していない」


学生たちは沈黙した。


科学大陸の終焉予測など、笑えばよかった。

神聖大陸の者なら祈るだろう。

機巧大陸の職人なら、まず部品を疑うかもしれない。


だが魔導大陸の魔術師は、手順が合っているのに結果がずれることを笑えない。


魔術師は、中心からずれた炎球を見下ろした。


「記録を取れ」


「再試行しますか」


「する」


魔術師は立ち上がる。


「科学大陸の連中が詩を書いているのか、世界の方が規則を変え始めたのか。確認する必要がある」


誰も笑わなかった。



緊急特別調査任務――エマージェンシーオーダーは、解除されなかった。


1日。

1週間。

1か月。


最初のうちは、誰もがすぐに終わると思っていた。


異常値が出た。

魔獣が増えた。

大陸収束運動の観測線が跳ねた。


ならば、原因を突き止め、対処すればいい。


だが、世界は思ったより律儀ではなかった。


異常は消えない。

消えないどころか、少しずつ積み重なっていく。


ギルドでは、赤い印の入った依頼票が増えた。

行政区では、航路変更と立入制限の通達が貼り出された。

商人たちは、昨日より高い輸送費を帳簿に書き込んだ。

神殿では、いつもより長い祈りが捧げられた。


大きな混乱が起きたわけではない。


ただ、昨日まで当たり前だったものが、少しずつ高くなり、遅くなり、遠くなっていった。


世界は戻らなかった。


それでも、人は朝を迎えた。

食事をし、仕事をし、祈り、学び、鍛え、眠る。


世界は終わりへ向かっているかもしれない。


けれど、終わるその日まで、世界は動き続ける。



エマージェンシーオーダーが発令されてから、1年。


そして俺たちは、今日も自然大陸にいた。


自然大陸、南西外縁部。

管理済み低層ダンジョン、第三入口。


世界が終わるかもしれない。


らしい。


できれば、そういう話は偉い人たちだけで処理してほしかった。

俺はほどほどに稼いで、飯を食って、寝て、たまに面倒事から逃げられればそれでよかった。


だが、世界が終わると飯も寝床もなくなる。


実に迷惑な話である。


エマージェンシーオーダーは、1年経っても解除されなかった。

赤い依頼票。

赤い印の入った通達。

赤い注意書き。


どこを見ても赤い。


最初の頃は、さすがに俺たちも少しは緊張していた。


なにせ、早期Dランク認定を受けた直後である。

調子に乗るには重すぎるし、しゅんとするには忙しすぎた。


それから1年。


失敗はした。


採れたものを見送った日もある。

期間の見積もりを見誤って、携行食が尽きたこともある。

雨で目印が流され、予定より半日長く外縁部を歩いたこともある。


それでも、誰も欠けなかった。

記録は残した。

次に入る班が、同じ場所で同じ迷い方をしない程度には、地図も書き換えた。


派手な成果とは呼びにくい。


けれど、その記録は次の依頼に使われた。

俺たちが見送った場所へ、別の班が入ることもあった。

俺たちが引いた線より奥へ、準備を整えた上位ランクの冒険者が進むこともあった。


そうやって、地味な記録が積み上がっていく。


それが、今の世界では必要らしい。


正直、もう少し分かりやすく褒められる仕事がよかった。

まあ、褒められたら褒められたで、それはそれで面倒なのだが。


「準備は?」


俺が聞くと、レオンがダンジョンの入口から視線を外さずに頷いた。


「確認は済んでいるよ。入口周辺の魔素濃度は前回記録より少し高い。奥へ進むほど上がる想定でいいと思う」


「少し、で済む?」


「今のところはね。ただ、前回より早く針が振れるようなら、深くは入れない」


「撤退時刻は?」


「予定通り。遅らせる理由はないと思う」


レオンは、そう言って地図の端を指で押さえた。


以前なら、レオンはまず勝てる手順を考えていた。


今は、入る前に退路を確認する。

撤退時刻を確認する。

魔素計の針がどこまで振れたら危ないかを、先に出してくる。


決めるのは俺だ。

けれど、決めるための材料はもう揃っている。


「分かった。針が予定より早く振れたら、そこで一度止める。深部には入らない」


「それがいいと思う」


レオンは短く頷いた。


横ではルークが荷縄を肩にかけ直していた。

縄の結び目を指で確かめ、予備の金具を鳴らし、足元の石を靴底で軽く叩く。


「荷縄も予備もある。お前が落ちても引っ張れる」


「俺が落ちる前提やめない?」


「1年で2回落ちかけた奴が言うな」


「1回半だろ」


「半って何だよ」


「気持ちの問題」


「足場は気持ちで戻らないわ」


セレスが記録板から目を上げずに言った。


白い指が、板の端を押さえている。

視線は文字に落ちているのに、入口の湿り気も、石段の角度も、俺たちの立ち位置も、たぶん全部見ている。


「足場、濡れているわ。入口から3段目、右側。苔が薄いけれど滑る」


「それは見れば分かる」


「見ても滑る人がいるから言っているの」


「誰のことかな」


セレスはそこで、ほんの少しだけ目を細めた。


「1回半の人」


反論できなかった。


ルークが笑い、レオンが小さく息を吐く。

セレスはまた記録板へ視線を戻した。


「今、何か言い返そうとしたでしょう」


「してない」


「していたわ」


記録板から目を上げずに言われた。


こういう時のセレスは、よく見ている。

足元も、魔素の流れも、たぶん俺の顔も。


「それ、記録に残す?」


「残さないわ」


「助かる」


「でも、覚えてはいるわ」


「なにそれこわい」


セレスは少しだけ口元を緩めた。


いいと思う。

いつも通りだ。


「魔素の流れは?」


俺が聞くと、セレスは記録板の端を指でなぞった。


「入口付近は不自然ではないわ。ただ、奥から戻ってくる流れが少し重い」


「重い?」


「言葉にするとそうなるだけ。進めば分かると思う」


「進まないと分からない情報、嫌いなんだけど」


「あなたがよく言うことよ」


「俺が言う分にはいいんだよ」


「都合がいいのね」


「長所だな」


「調子もいいのね」


ルークが吹き出した。

レオンまで、少し笑っている。


本当に、いつも通りだ。


ダンジョンの入口は、湿った石の匂いがした。

奥は暗い。


ただ暗いだけではなく、何かが静かに息をしているようにも見える。


管理済み低層ダンジョン。


そう分類されている。

少なくとも、書類の上では。


深部進入は禁止。

魔法使用は抑制。

撤退時刻厳守。

単独行動禁止。


地図との差分確認。

魔素濃度記録。

魔獣活動痕跡の確認。


やることだけ見れば、地味な任務だ。


だが、この1年で俺たちは学んだ。


地味な任務ほど、失敗した時に面倒くさい。


「じゃ、行こうか」


俺は軽く言った。


レオンが剣の柄に手を置く。

ルークが荷縄を1度だけ引く。

セレスが記録板に最初の1行を刻む。


軽い声だったと思う。


けれど、誰もそれを軽いとは思っていなかった。


たぶん、それでいい。


俺たちは、ダンジョンへ足を踏み入れた。


挿絵(By みてみん)

ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!

筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;

この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。

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