第38話 眠れない夜
教官室の灯りだけが、まだ落ちていなかった。
自然大陸の夜は静かではない。
虫の声。
遠くで鳴る魔獣の声。
風が葉を擦る音。
湿った土の匂い。
普段なら聞き流せるものばかりだ。
だが今夜は、どれも妙に耳についた。
机の上には、報告書が並んでいる。
各班の採取記録。
行動経路を示した簡易地図。
救護班の所見。
ギルド職員から上がった周辺魔獣の確認報告。
本来なら、順に見れば済む。
採取対象を確認したか。
指定範囲を逸脱していないか。
白杭との位置関係を保てたか。
撤退判断は妥当か。
班員の役割分担は機能したか。
報告内容に抜けはないか。
評価軸は、事前に決めてある。
だから本来、悩むようなものではない。
俺は椅子に座り、最初の報告書を手に取った。
第二班。
南東側の浅い湿地帯を担当した班だ。
採取対象は規定数に届いている。
足場の悪い岩場を一度見送り、別地点で採取している。
撤退予定時刻にも遅れていない。
細かい粗はある。
記録した位置が少し甘い。
見送った理由の記載が短い。
後衛の魔力消費量も、報告よりやや多い。
だが、評価はできる。
良い点。
悪い点。
次に直す点。
それぞれを分けて扱える。
俺は余白に印をつけた。
講評では、足場判断を評価する。
ただし、位置記録の粗さは指摘する。
採取対象を見つけた場所だけでなく、見送った場所こそ記録しろ、と言う。
それで済む。
第四班も同じだった。
北東外縁の樹根帯。
採取数は規定に一株足りない。
だが、魔獣の痕跡を見つけた時点で撤退している。
これは任務未達だ。
ただし、悪い撤退ではない。
採取対象を前にして、撤退を選べるか。
今回の訓練では、そこも見るつもりだった。
第四班は採取を完了できなかった。
しかし、撤退理由は明確で、白杭との位置関係も記録している。
報告も簡潔だ。
任務未達。
ただし、撤退判断は妥当。
次は、撤退前に拾える情報量を増やせ。
講評で言うことは決まっている。
俺は報告書を横に置いた。
二班分。
ここまでは、教官として普通の仕事だった。
問題は、次だった。
カイル班。
報告書の表紙を見ただけで、眉間に力が入る。
北側第二採取区域。
黒鱗苔。
任務未達。
採取物喪失。
魔獣接触。
火球暴発。
負傷者二名。
消耗者一名。
自力帰還不能判断。
字面だけなら、最悪に近い。
俺は息を吐き、報告書を開いた。
一度目の岩場を見送った判断。
これは悪くない。
採れるかどうかと、採って戻れるかどうかは違う。
カイルはそこを見ている。
二度目の岩場で採取を始めた判断も、記録を見る限り、無謀とまでは言えない。
白杭との距離も、足場も、規定の範囲内だった。
そこで魔獣が出た。
エルヴィスが火球を使った。
カイルはロドリックとアレックスに射線を開ける指示を出している。
俺は指先を止めた。
自然大陸で火球。
訓練前に、魔素濃度の説明はした。
身体強化も魔法も、普段通りには扱うなと言った。
だが、説明を受けたことと、現場で判断できることは違う。
魔獣が飛び出す。
盾士が前に出る。
魔法士が後ろにいる。
その状況で火力を選ぶのは、正攻法だ。
ただし、ここでは注釈が付く。
熟練の魔法士であれば、だ。
エルヴィスの判断は早かった。
カイルの指示も、連携の観点では及第点。
ロドリックの防御は反射として悪くない。
リシアの治癒も必要だった。
一つ一つを切り出せば、完全な間違いではない。
だから厄介だった。
誰か一人が馬鹿をやった。
そう言えれば、どれだけ楽か。
結果は重い。
火球は暴発した。
エルヴィスは意識を失った。
ロドリックは右腕と左足を負傷した。
リシアは治癒で消耗した。
そこは消えない。
ただ、事故後のカイルの動きは悪くなかった。
状況確認。
負傷者確認。
採取中止。
撤退判断。
分断後の再集合。
防衛隊形への切り替え。
特に最後の、自力帰還不能判断。
これを責めるのは簡単だ。
戻れなかった。
計画を守れなかった。
班を危険に晒した。
いくらでも言える。
だが、あの状況で、まだ戻れると判断して移動を続けていたらどうなったか。
おそらく、もっと悪くなっていた。
自力帰還不能と認めることは、班長にとって楽な判断ではない。
口にした時点で、自分の失敗を認めることになる。
それでも、カイルは言った。
防衛に切り替えた。
失敗はある。
判断の遅れもある。
だが、判断を放棄したわけではない。
俺は採点欄を見下ろした。
減点。
それは当然だ。
では、加点は。
筆を持ったまま、しばらく動けなかった。
失敗した班。
しかし、最後まで班であろうとした班。
そう書くわけにもいかない。
「……面倒なことをしてくれる」
誰もいない教官室で、俺は低く呟いた。
声は、机の上の紙に吸われて消えた。
俺はカイル班の報告書を閉じた。
終わっていない。
本当に終わっていないのは、次だ。
アレン班。
表紙を見た瞬間、頭の奥が痛くなった。
東ルート探索班。
本来なら、東ルートの探索内容を評価すればいい。
白杭との位置関係。
足場判断。
採取対象の有無。
周辺魔獣の痕跡。
班員の役割分担。
帰還予定との照合。
俺は報告書を開いた。
セレスティアの観測記録は、やはり細かい。
地面の沈み方。
木道の歪み。
葉の揺れ方。
魔獣の痕跡と、実際の移動方向のずれ。
細かすぎるくらいだ。
だが、使える情報だ。
ルークは荷をよく動かしている。
足場が悪い場所で、荷縄の扱いが効いていた。
普段は軽く見られがちだが、こういう場では重要になる。
レオンは後衛として安定していた。
魔力の無駄遣いも少ない。
周囲警戒も怠っていない。
アレン。
判断の癖は相変わらず読みにくい。
ただ、記録を見る限り、東ルートの進行判断そのものは悪くない。
無理に奥へ進んでいない。
白杭を基準に戻れる範囲を保っている。
班の役割も崩していない。
ここまでなら、評価できる。
俺は次の紙を見た。
未帰還班捜索への方針変更。
アレンが手を挙げた。
そうだ。
あいつは、俺の前で手を挙げた。
「位置確認だけなら、俺たちが一番早いと思います」
たしか、そんなことを言った。
言葉に重さがない。
少なくとも、そう聞こえた。
こちらが判断を変えるかどうかを迫られている場面で、あいつはいつも通りの顔をしていた。
それが余計に腹立たしかった。
だが、内容は間違っていなかった。
セレスティアの観測。
レオンの戦力。
ルークの実務。
アレンの判断。
東ルート探索班のまま戻すより、未帰還班の位置確認に回す合理性はあった。
アレンはそこで手を挙げた。
勝手に動いたのではない。
状況を見て、方針変更を提案した。
生徒が教官の判断を待つだけでなく、必要だと思った役割を自分から取りに来た。
そこは、評価しなければならない。
だから俺は許可した。
ここまではいい。
まだ評価軸に乗る。
問題は、その先だ。
救援班として出したわけではない。
位置確認。
状況把握。
危険なら帰還。
後続の救助班へ情報を渡す。
俺はそう言った。
だが、アレンたちは介入した。
位置確認で止まらなかった。
魔獣との戦闘に入り、荷縄で退路を確保した。
セレスティアの観測で進路を通し、レオンの火球で魔獣を退けた。
その隙に、カイル班を回収した。
結果だけ見れば、全員戻った。
大成功だ。
結果だけ見れば。
俺は、評価欄に筆を置いた。
命令範囲の逸脱。
そう書こうとして、止まった。
逸脱だ。
それは間違いない。
では、あそこで戻るのが正解だったのか。
カイル班は持たなかった可能性が高い。
カイル自身が自力帰還不能を判断している。
負傷者も多い。
魔獣も集まり始めていた。
戻れば、情報は持ち帰れた。
だが、その情報は何のための情報だったか。
救助のためか。
それとも、見捨てた説明か。
俺は額を押さえた。
あいつの言葉が腹立たしいのは、軽いからだけではない。
たまに、こちらが避けていた言葉をそのまま突きつけてくるからだ。
見捨てた説明。
言い方は乱暴だ。
だが、完全には否定できない。
俺は筆を置いた。
今度は、アレンの指示とレオンの火球運用についての報告書を引き寄せる。
これもまた、厄介だった。
魔獣を退けるために火力を使う。
それ自体を問題にするのは違う。
問題は、使い方だった。
通常の火球として撃つのではない。
暴発するものとして扱う。
教官として、見過ごせる運用ではない。
だが、レオンの説明は単純な暴走ではなかった。
通常の火球として維持するつもりは、初めからなかった。
制御を切る直前に魔力を込めた。
暴発する前提で魔力を残し、爆発前に離脱した。
暴発を利用するという時点でもう、意味が分からない。
だが、もし再現性があるなら、魔法運用としては新しい。
新しいなら、快挙だ。
だが今それを認めれば、危険な応用を評価することになる。
しかも、成功させたのはレオン。
指示したのはアレン。
「……何なんだ、お前ら」
声に出してから、余計に頭が痛くなった。
俺は椅子の背にもたれた。
成功しなければ、危険な無茶で処理できた。
成功してしまったから、評価しなければならない。
理屈は分かる。
分かるから困る。
俺は報告書を睨んだ。
アレンの判断。
レオンの火球。
セレスティアの観測。
ルークの荷縄。
どれか一つでも欠ければ戻れなかった。
では、評価するか。
評価すれば、次もやる。
アレンは必ずやる。
あいつは、指摘されても恐らくやる。
評価すればもっとやる。
俺は頭を掻いた。
一度では足りず、もう一度掻いた。
髪が乱れる。
知るか。
誰も見ていない。
「何を言えば止まるんだ、あいつは」
言ってから、自分で分かった。
止まらない。
止めるための講評を考えている時点で、恐らく間違っている。
アレンは、止まる種類の生徒ではない。
なら、止めるのではなく、越えた後に何を背負うのかを教えるしかない。
越えたらどうなるか。
何を失うか。
何を守らなければならないか。
それを叩き込むしかない。
だが、分からせたところで、あいつは言うだろう。
分かってます、と。
恐らく、本当に分かっている顔で。
俺は机に肘をつき、額を押さえた。
頭が痛い。
眉間を押しても、報告書の文字は減らなかった。
カイル班も面倒だ。
アレン班も面倒だ。
しかも、よりによってその二つが絡んでいる。
カイルはカイルで、簡単に折れる男ではない。
今回の件で、責任を背負うつもりでいるだろう。
自分が選んだ採取地点。
自分が止めなかった火球。
自分が出した防衛判断。
全部、抱え込もうとする。
それは美点でもあり、危うさでもある。
アレンは、そのカイルを救った。
しかも、カイルが一番嫌っていたやり方で。
軽く入ってきて、判断を崩し、場を動かした。
カイルは、おそらく認めたくないはずだ。
だが、認めないわけにもいかない。
あいつらは、何をやっている。
生徒同士で、勝手に互いの根っこを抉るな。
俺は深く息を吐いた。
一度、評価欄に向き直る。
第二班。
第四班。
カイル班。
アレン班。
並べて見ると、まるで別の訓練だ。
同じ自然大陸外縁部。
同じ白杭。
同じ採取課題。
それなのに、評価するものが違いすぎる。
採取ができたか。
撤退できたか。
記録できたか。
そこまでならいい。
だが、カイル班とアレン班は、それだけでは済まない。
失敗した後に何を捨てるか。
命令と現場のどちらを取るか。
危険な手段を、どこまで扱えると見るか。
班の判断を、一人の責任にしていいのか。
そんなものは、二年生の外縁部訓練で見るつもりではなかった。
見るつもりではなかったのに、見えてしまった。
俺は笑いそうになった。
もちろん、楽しいからではない。
あまりにも面倒で、口元が勝手に歪んだだけだ。
その瞬間、机の端に置いていた簡易魔素計の針が、わずかに振れた。
俺は視線を向けた。
針はすぐに戻る。
自然大陸では珍しくない。
魔素が濃い。
流れも一定ではない。
夜間に数値が揺れることもある。
それだけのことだ。
俺は再び報告書へ目を戻した。
戻した、はずだった。
だが、しばらく針の動きが頭に残った。
俺は舌打ちをした。
余計なものまで気にしていたら、今夜は本当に終わらない。
評価だ。
評価をしろ。
俺は筆を取った。
第二班、講評内容。
第四班、講評内容。
カイル班、講評内容。
そこまでは、どうにか書ける。
問題は、アレン班の最後だった。
東ルート探索としての評価。
未帰還班捜索への進言。
位置確認を越えた戦闘介入。
救出成功。
その過程で行われた、危険な魔法運用。
班全体の役割発揮。
評価欄が足りない。
というより、欄が違う。
俺は筆を置いた。
駄目だ。
今の評価表では、こいつらを測り切れない。
だからといって、測らないわけにはいかない。
生徒だからだ。
俺が教官だからだ。
好き勝手に動く冒険者なら、結果だけで済むこともある。
生きて戻った。救った。
それで終わることもある。
だが、ここは養成学校だ。
結果だけを見れば、次に死ぬ。
過程だけを見れば、今回の生存を否定する。
その両方を同時に見なければならない。
「……普通に採点させろ」
俺は誰にともなく言った。
報告書を閉じ、すぐに開き直す。
紙は勝手に都合よく変わらない。
立ち上がって教官室を歩いても、三歩で壁に着く。
結局、俺は机に戻った。
同じ文字が並んでいる。
任務未達。
救出成功。
命令範囲の逸脱。
現場判断。
負傷者二名。
消耗者一名。
全員帰還。
「混ぜるな」
思わず呟いた。
一つずつなら評価できる。
失敗なら失敗。
成功なら成功。
違反なら違反。
好判断なら好判断。
だが、混ざっている。
混ざったまま、全員戻ってきている。
しかも、その中心にアレンがいる。
俺は頭を掻きむしった。
人前では絶対にやらない。
生徒の前では、なおさらやらない。
だが、今だけは無理だった。
あいつは何なんだ。
分かったような顔をする。
ふざけたように返す。
任務の範囲を、自分の判断で広げる。
そのくせ、広げた理由だけは見当違いではない。
減点だけで処理できない。
だから余計に腹が立つ。
俺は深く息を吸った。
そして、吐いた。
評価欄に、ようやく一行だけ書いた。
結論保留。
いや、違う。
俺はその文字を二本線で消した。
保留ではない。
明日言う。
言わなければならない。
だが、今ここで一言にまとめることはできない。
俺は新しい紙を出した。
講評方針。
そう書いた。
第二班。
第四班。
カイル班。
アレン班。
順番だけは決めた。
まず、評価できるものから評価する。
次に、失敗を失敗として扱う。
最後に、アレン班だ。
問題はある。
ありすぎる。
だが、問題だけではない。
それが一番、面倒だった。
窓の外が、ほんの少しだけ白み始めているように見えた。
まだ夜は明けていない。
だが、完全な夜でもなくなっている。
俺は椅子の背にもたれた。
結局、眠っていない。
まぶたは重い。
頭も重い。
机の上には、まだ空欄が残っている。
明日、生徒たちの前で何を言うべきか。
言うべきことは多い。
多すぎて収拾がつかない。
それでも、言わなければならない。
俺は、空欄のままのアレン班の評価欄を見た。
眠れる気がしなかった。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。




