第37話 帰還報告
白杭を辿った。
誰も走らなかった。
走れなかった。
ロドリックは片足を引きずっていた。
エルヴィスは目を覚まさない。
リシアは、エルヴィスの頭が揺れないように両手で支えていた。
アレックスは右を見ていた。
レオンは後ろに立った。
ルークは荷縄を離さなかった。
セレスは、足元と白杭の間を見続けていた。
ヴァイスは、少し前を歩いていた。
勝手に前へ出るなと言った。
努力はすると言った。
信用しないと言った。
その通りだった。
それでも、ヴァイスは何度か足を止めた。
こちらが追いつくまで、何も言わずに待った。
腹立たしいほど、分かっている顔だった。
魔獣の声は、何度か遠くで聞こえた。
だが、近づいてはこなかった。
一度開いた上がり口は、全員が抜けた後、背後で再び塞がった。
それでも、白杭へ戻れた。
白杭さえ辿れれば、戻る方向は失わない。
帰れると思ったわけではない。
ただ、戻るための道筋が、もう一度見えただけだ。
それだけで十分だった。
◇
一時拠点の灯りが見えた時、誰も声を上げなかった。
声を出せば、それだけで足が止まりそうだった。
最初にこちらへ気づいたのは、外周に立っていた教官だった。
すぐに野営地の空気が変わった。
救護用の天幕から人が出てきて、担架が運ばれた。
待機していた生徒たちが、何かを言いかけて口を閉じ、道を空けた。
その動きの中央を、マルクス教官が歩いてきた。
顔はいつも通り厳しかった。
だが、目だけは違っていた。
俺を見る。
アレックスを見る。
ロドリック、リシア、エルヴィスを見る。
それから、ヴァイス、レオン、ルーク、セレスへと視線が移る。
最後に、意識のないエルヴィスの顔で止まった。
マルクス教官は、ほんの短く息を吐いた。
「全員いるな」
低い声だった。
マルクス教官は、もう一度だけ全員を見た。
「よく戻った」
その一言で、誰かが小さく息を吐いた。
まだ終わってはいない。
報告も、負傷者の処置も、判断の検証も残っている。
それでも、全員がここにいる。
マルクス教官の視線が、ヴァイスへ向く。
「アレン」
「はい」
「よくやった」
「はい」
ヴァイスは、珍しく茶化さずに頷いた。
マルクス教官は、そこで表情を緩めなかった。
「負傷者を運べ」
その一声で、待機していた教官たちが動いた。
エルヴィスが担架へ移される。
リシアは手を離した後も、しばらくその場から動けずにいた。
指先だけが、小さく震えている。
セレスが、その横にしゃがんだ。
「もう大丈夫よ」
リシアは、遅れて顔を上げた。
「……はい」
「少し座って。立つのは、その後でいいわ」
強い声ではなかった。
それでも、リシアの肩から力が抜けた。
ロドリックも教官に支えられ、天幕の前へ座らされる。
まだ立てると言いたげな顔をしたが、マルクス教官に見られただけで口を閉じた。
負傷者が動かされ、周囲の騒ぎが一段落したところで、マルクス教官は俺を見た。
「カイル」
「はい」
「報告しろ」
俺は背筋を伸ばした。
体は重い。
泥は乾き始め、服に張りついている。
喉の奥には、焦げた草と血の匂いが残っていた。
それでも、報告はしなければならない。
「北側第二採取区域にて、黒鱗苔の採取中に魔獣と接触しました」
マルクス教官は何も言わない。
その沈黙に促されるように、俺は続けた。
「一度目の岩場は見送り。二度目の岩場で採取を開始しました。その途中で魔獣と接触。エルヴィスが火球を使用し、俺はロドリックとアレックスに射線を開けるよう指示しました」
言葉にした瞬間、あの光が瞼の裏に戻る。
膨れ上がった火。
破裂音。
盾ごと吹き飛ばされたロドリック。
動かなくなったエルヴィス。
報告では、「火球が制御不能となり爆発」で済む。
だが、あの場では一息で済む出来事ではなかった。
焦げた草の匂いも、盾を構えたロドリックが吹き飛ばされた瞬間も、エルヴィスが倒れた時の嫌な沈黙も、報告の中には残らない。
それでも、報告は続けなければならない。
「直後、火球が制御不能となり爆発。エルヴィスが意識喪失。ロドリックが右腕および左足を負傷。リシアは治癒魔法使用により消耗しました」
「採取物は」
「喪失しました」
俺は即答した。
「規定数には達していません。任務未達です」
マルクス教官の眉は動かなかった。
「続けろ」
「撤退を試みましたが、足場の崩落により班が分断。俺とロドリック、リシア、エルヴィスが斜面下へ。アレックスが白杭側に残りました。その後、アレックスを下ろし、全員で防衛隊形を取りました」
「帰還可能だったか」
「いいえ」
そこは、曖昧にしてはいけない。
「俺は、自力帰還不能と判断しました。移動を止め、防衛へ切り替える指示を出しました」
野営地の音が少し遠くなる。
マルクス教官の目が、わずかに細くなった。
「その時点で、アレンたちが介入した」
「はい」
空気が変わった。
マルクス教官の視線が、俺からヴァイスへ移る。
驚きは薄かった。
ただ、眉間の皺だけが深くなった。
「アレン」
「はい」
「お前たちは、何のために出た」
「未帰還班の捜索と位置確認です」
ヴァイスは答えた。
「位置を絞る。回収できるなら回収する。無理なら戻る」
「そうだ」
マルクス教官の声は低い。
「救援班として出したわけじゃない。危険であれば、その情報を持ち帰る。後続の救助班に伝える。それが、お前たちの役目だった」
「はい」
「それがなぜ、魔獣との戦闘介入になった」
誰も口を挟まなかった。
焚き火が小さく爆ぜる。
ヴァイスは少しだけ視線を落とした。逃げたのではない。言葉を選んでいるように見えた。
「間に合わないと判断しました」
「何にだ」
「後続を待つ時間に」
ヴァイスは顔を上げる。
「戻って位置を伝えて、救助班が出る。その間、カイルたちが持たないと思いました」
マルクス教官は黙っている。
「それに」
ヴァイスは続けた。
「そこで戻ったら、持って帰る情報は救助のための報告じゃなくなると思った」
「何になる」
「見捨てた説明です」
その言葉に、胸の奥がわずかに重くなった。
見捨てた説明。
俺なら、そんな言い方はしない。
できない。
マルクス教官の眉間に、深い皺が寄った。
「だから戦闘を選んだのか」
「はい」
「魔獣が複数なら撤退する条件だった」
「はい」
「白杭から外れるなとも言った」
「はい」
「戦闘を目的にするなとも言った」
「はい」
「全部、分かっていてやったな」
「はい」
迷いのない返事だった。
褒められる返事ではない。
だが、誤魔化す返事でもなかった。
「なぜだ」
マルクス教官が問う。
ヴァイスは、少しだけ首を傾げた。
いつもの軽さが戻る一歩手前の顔だった。
「言われた通りに戻るだけなら」
そこで一度、言葉を切る。
「俺たちが行く意味はないと思いました」
マルクス教官が、片手で額を押さえた。
「……アレン」
「はい」
「俺を便利に使うな」
「使ったつもりは、たぶん少しあります」
「隠せ」
「はい」
頭が痛そうな声だった。
だが、怒鳴りはしなかった。
マルクス教官は額から手を離し、今度は俺へ視線を戻す。
「介入の内容は」
「ヴァイスの指示で、レオンが火球を使用しました。爆発で上がり口付近の魔獣が一時的に離れ、戻る隙ができました」
その一言で、空気がもう一段重くなった。
マルクス教官の視線がレオンへ向く。
「火球を使ったのか」
「はい」
レオンは静かに答えた。
「この魔素濃度でか」
「はい」
「問題なく発動したのか」
「いいえ」
レオンは即答した。
「通常の火球として維持するつもりはありませんでした」
「制御を手放したのか」
「はい。ただ、単に手放せば消える可能性がありました」
レオンの声は、報告として平静だった。
「制御を切る直前に魔力を込めました。暴発する前提で魔力を残し、爆発前に離脱しています」
マルクス教官は、少しの間、何も言わなかった。
沈黙が重い。
俺には、レオンがどの程度の魔力を残したのかまでは分からない。
ただ、あの瞬間に見えたものは覚えている。
エルヴィスは、制御を失った。
レオンは、制御を手放した。
同じ火球でも、同じ暴発ではなかった。
「発案は」
「俺です」
ヴァイスが答える。
マルクス教官の目が細くなる。
「お前に、そこまで魔法制御の知識があるとは思えんが」
「ないですよ」
ヴァイスは、少しだけ困ったように笑った。
「ここでは、身体強化も魔法も普段通りに収まらない。それは途中で分かってました。だから、普通に撃つんじゃなくて、最初から暴発するものとして扱えば使えると思いました」
マルクス教官は、すぐには返さなかった。
視線が、レオンへ移る。
「アレンとは、どこまで手順を詰めた」
「詰めてはいません」
レオンは静かに答えた。
マルクス教官の眉が動いた。
「詰めていない?」
「はい。アレンからは、暴発を使って上がり口を開ける、とだけ」
「それだけか」
「はい」
レオンは頷いた。
「細かい発動手順は、その場で俺が組みました」
マルクス教官が、ゆっくりとヴァイスを見た。
その目が、わずかに見開かれていた。
「……アレン」
「やだなあ」
ヴァイスは、当然のように言った。
「レオンですよ? 何とかするに決まってるじゃないですか」
腹が立った。
そんな言い方で済ませるなと思った。
だが、今までの苛立ちとは少し違った。
ヴァイスは、分かった顔で魔法を語ったわけではない。
分からないところを、自分で抱え込まなかった。
レオンならできる。
そう見て、任せた。
それを、あいつはあの軽さで言う。
そこが、どうしようもなく気に食わない。
マルクス教官は、額を押さえる手に少しだけ力を込めた。
「……そういうところだぞ、アレン」
「はい。たぶん、そういうところですよね?」
マルクス教官は、今度こそ深く息を吐いた。
「お前は」
低い声だった。
「本当に、何をやってるんだ」
マルクス教官は、全員を見た。
「全員が戻った。それは事実だ」
誰も答えない。
「同時に、お前たちは与えた任務の範囲を超えた。それも事実だ」
焚き火がまた小さく爆ぜた。
「今ここで結論は出さない。カイルの報告も、アレンの判断も、レオンの魔法運用も、明日順に検証する」
ヴァイスは黙って頷いた。
「今日は負傷者を寝かせろ。報告書は朝でいい。全員、休め」
その一言で、話は切られた。
俺は、それ以上何も言わなかった。
言えることもなかった。
エルヴィスはまだ目を覚ましていない。
ロドリックは立っているだけで限界に近い。
リシアも、顔色が戻っていない。
マルクス教官が明日扱うと言った。
なら、今はそれでいい。
俺たちに必要なのは、報告の続きではなく、負傷者を休ませることだった。
◇
救護用の天幕に、エルヴィスが運ばれていった。
ロドリックも連れていかれた。
リシアも、教官に促されて天幕へ入った。
アレックスは最後まで立っていたが、マルクス教官に一睨みされて、黙って天幕へ向かった。
レオンは、少し離れた場所で手のひらを見ていた。
火傷はない。
それでも、何かを確かめている顔だった。
ルークは荷縄を丸めながら、泥を落としている。
セレスはリシアの後を追った。
ヴァイスだけが、しばらくその場に残っていた。
俺は一度、そちらを見た。
もう一度礼を言うなら、今だったのかもしれない。
だが、足は動かなかった。
声も出なかった。
俺は声をかけなかった。
かける言葉がなかった。
いや。
言葉はある。
助かった。
感謝している。
お前がいなければ戻れなかった。
どれも事実だ。
だが、どの言葉も足りなかった。
口に出せば、軽くなる気がした。
そして、素直に渡すには、これまで積み上げてきたものが邪魔をした。
俺は、ヴァイスのやり方が気に食わない。
今でもそうだ。
先ほど、俺が言えたのは一つだけだった。
「感謝する」
それが精一杯だった。
俺は、野営地の端へ歩いた。
木々の向こうは暗い。自然大陸の夜は、静かではない。どこかで虫が鳴いている。遠くで、獣の声がした。
マルクス教官とヴァイスのやり取りが、頭に残っていた。
間に合わないと判断した。
持ち帰る情報が、救助のための報告ではなく、見捨てた説明になると思った。
言われた通りに戻るだけなら、自分たちが行く意味はないと思った。
馬鹿げている。
そう切り捨てることは簡単だ。
実際、馬鹿げている。
与えられた任務の範囲を超えた。
戦闘に入った。
魔法を使った。
しかも、失敗すれば二次遭難どころでは済まないやり方で。
正しい判断だったとは、言えない。
俺には言えない。
だが、何も考えていなかったわけではない。
ヴァイスは、命令を忘れていたわけではない。
危険なら戻る。
位置を伝える。
後続の救助班に渡す。
それが、自分たちに与えられた役目だと分かっていた。
その上で、あの場では戻る時間がないと判断した。
命令の範囲を守ることと、目の前の状況に介入すること。
その二つを天秤にかけて、後者を選んだ。
それが正しかったのかどうかを、今の俺が決めることはできない。
だが、結果だけは動かない。
あの判断がなければ、俺たちは戻れていなかった。
ヴァイスは、戻らなかった。
それは命令を忘れたからではない。
俺たちが、あの場で持たないと見たからだ。
それに、あいつは全部を自分で分かっていたわけでもない。
魔法制御の細かいことは分からない。
だが、そこで止まらなかった。
自分で分からないなら、分かる奴に渡す。
ヴァイスは、そうした。
レオンならできる。
そう見て、任せた。
普通なら、それも無責任に見える。
だが、それを、あいつはあの軽さで言う。
レオンですよ?
何とかするに決まってるじゃないですか。
なんとも、腹が立つ。
今でもだ。
だが、今までと同じ苛立ちだけでは片付けられなかった。
俺は、あの軽さが気に食わなかった。
分かったような顔で、重い判断を軽く扱うように見えたからだ。
だが、今日のあれは少し違った。
軽く扱ったのではない。
自分に分からない部分を、分かる奴に渡した。
そう見えた。
認めたくはない。
そんな簡単に認めてたまるかとも思う。
それでも、俺の中に一番残っているのは、理屈ではなかった。
「いや、たぶんまだ早い」
いつものように、なんてことのないような声だった。
あの時、俺は帰還不能だと判断した。
防衛に切り替えるしかないと判断した。
その判断を、あいつは軽い声で止めた。
認めたくはない。
今でも、気に食わない。
あの顔も。
あの言い方も。
あの、分かったような軽さも。
それでも。
あの瞬間、俺は救われた気がした。
他でもない。
俺が、何よりも毛嫌いしていた、あの軽さに。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。




