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第37話 帰還報告

白杭を辿った。


誰も走らなかった。


走れなかった。


ロドリックは片足を引きずっていた。

エルヴィスは目を覚まさない。

リシアは、エルヴィスの頭が揺れないように両手で支えていた。


アレックスは右を見ていた。

レオンは後ろに立った。

ルークは荷縄を離さなかった。

セレスは、足元と白杭の間を見続けていた。


ヴァイスは、少し前を歩いていた。


勝手に前へ出るなと言った。

努力はすると言った。

信用しないと言った。


その通りだった。


それでも、ヴァイスは何度か足を止めた。

こちらが追いつくまで、何も言わずに待った。


腹立たしいほど、分かっている顔だった。


魔獣の声は、何度か遠くで聞こえた。


だが、近づいてはこなかった。


一度開いた上がり口は、全員が抜けた後、背後で再び塞がった。


それでも、白杭へ戻れた。


白杭さえ辿れれば、戻る方向は失わない。


帰れると思ったわけではない。


ただ、戻るための道筋が、もう一度見えただけだ。


それだけで十分だった。



一時拠点の灯りが見えた時、誰も声を上げなかった。


声を出せば、それだけで足が止まりそうだった。


最初にこちらへ気づいたのは、外周に立っていた教官だった。

すぐに野営地の空気が変わった。

救護用の天幕から人が出てきて、担架が運ばれた。

待機していた生徒たちが、何かを言いかけて口を閉じ、道を空けた。


その動きの中央を、マルクス教官が歩いてきた。


顔はいつも通り厳しかった。


だが、目だけは違っていた。


俺を見る。

アレックスを見る。

ロドリック、リシア、エルヴィスを見る。


それから、ヴァイス、レオン、ルーク、セレスへと視線が移る。


最後に、意識のないエルヴィスの顔で止まった。


マルクス教官は、ほんの短く息を吐いた。


「全員いるな」


低い声だった。


マルクス教官は、もう一度だけ全員を見た。


「よく戻った」


その一言で、誰かが小さく息を吐いた。


まだ終わってはいない。

報告も、負傷者の処置も、判断の検証も残っている。


それでも、全員がここにいる。


マルクス教官の視線が、ヴァイスへ向く。


「アレン」


「はい」


「よくやった」


「はい」


ヴァイスは、珍しく茶化さずに頷いた。


マルクス教官は、そこで表情を緩めなかった。


「負傷者を運べ」


その一声で、待機していた教官たちが動いた。


エルヴィスが担架へ移される。


リシアは手を離した後も、しばらくその場から動けずにいた。

指先だけが、小さく震えている。


セレスが、その横にしゃがんだ。


「もう大丈夫よ」


リシアは、遅れて顔を上げた。


「……はい」


「少し座って。立つのは、その後でいいわ」


強い声ではなかった。


それでも、リシアの肩から力が抜けた。


ロドリックも教官に支えられ、天幕の前へ座らされる。

まだ立てると言いたげな顔をしたが、マルクス教官に見られただけで口を閉じた。


負傷者が動かされ、周囲の騒ぎが一段落したところで、マルクス教官は俺を見た。


「カイル」


「はい」


「報告しろ」


俺は背筋を伸ばした。


体は重い。

泥は乾き始め、服に張りついている。

喉の奥には、焦げた草と血の匂いが残っていた。


それでも、報告はしなければならない。


「北側第二採取区域にて、黒鱗苔の採取中に魔獣と接触しました」


マルクス教官は何も言わない。


その沈黙に促されるように、俺は続けた。


「一度目の岩場は見送り。二度目の岩場で採取を開始しました。その途中で魔獣と接触。エルヴィスが火球を使用し、俺はロドリックとアレックスに射線を開けるよう指示しました」


言葉にした瞬間、あの光が瞼の裏に戻る。


膨れ上がった火。

破裂音。

盾ごと吹き飛ばされたロドリック。

動かなくなったエルヴィス。


報告では、「火球が制御不能となり爆発」で済む。


だが、あの場では一息で済む出来事ではなかった。


焦げた草の匂いも、盾を構えたロドリックが吹き飛ばされた瞬間も、エルヴィスが倒れた時の嫌な沈黙も、報告の中には残らない。


それでも、報告は続けなければならない。


「直後、火球が制御不能となり爆発。エルヴィスが意識喪失。ロドリックが右腕および左足を負傷。リシアは治癒魔法使用により消耗しました」


「採取物は」


「喪失しました」


俺は即答した。


「規定数には達していません。任務未達です」


マルクス教官の眉は動かなかった。


「続けろ」


「撤退を試みましたが、足場の崩落により班が分断。俺とロドリック、リシア、エルヴィスが斜面下へ。アレックスが白杭側に残りました。その後、アレックスを下ろし、全員で防衛隊形を取りました」


「帰還可能だったか」


「いいえ」


そこは、曖昧にしてはいけない。


「俺は、自力帰還不能と判断しました。移動を止め、防衛へ切り替える指示を出しました」


野営地の音が少し遠くなる。


マルクス教官の目が、わずかに細くなった。


「その時点で、アレンたちが介入した」


「はい」


空気が変わった。


マルクス教官の視線が、俺からヴァイスへ移る。


驚きは薄かった。


ただ、眉間の皺だけが深くなった。


「アレン」


「はい」


「お前たちは、何のために出た」


「未帰還班の捜索と位置確認です」


ヴァイスは答えた。


「位置を絞る。回収できるなら回収する。無理なら戻る」


「そうだ」


マルクス教官の声は低い。


「救援班として出したわけじゃない。危険であれば、その情報を持ち帰る。後続の救助班に伝える。それが、お前たちの役目だった」


「はい」


「それがなぜ、魔獣との戦闘介入になった」


誰も口を挟まなかった。


焚き火が小さく爆ぜる。


ヴァイスは少しだけ視線を落とした。逃げたのではない。言葉を選んでいるように見えた。


「間に合わないと判断しました」


「何にだ」


「後続を待つ時間に」


ヴァイスは顔を上げる。


「戻って位置を伝えて、救助班が出る。その間、カイルたちが持たないと思いました」


マルクス教官は黙っている。


「それに」


ヴァイスは続けた。


「そこで戻ったら、持って帰る情報は救助のための報告じゃなくなると思った」


「何になる」


「見捨てた説明です」


その言葉に、胸の奥がわずかに重くなった。


見捨てた説明。


俺なら、そんな言い方はしない。


できない。


マルクス教官の眉間に、深い皺が寄った。


「だから戦闘を選んだのか」


「はい」


「魔獣が複数なら撤退する条件だった」


「はい」


「白杭から外れるなとも言った」


「はい」


「戦闘を目的にするなとも言った」


「はい」


「全部、分かっていてやったな」


「はい」


迷いのない返事だった。


褒められる返事ではない。

だが、誤魔化す返事でもなかった。


「なぜだ」


マルクス教官が問う。


ヴァイスは、少しだけ首を傾げた。


いつもの軽さが戻る一歩手前の顔だった。


「言われた通りに戻るだけなら」


そこで一度、言葉を切る。


「俺たちが行く意味はないと思いました」


マルクス教官が、片手で額を押さえた。


「……アレン」


「はい」


「俺を便利に使うな」


「使ったつもりは、たぶん少しあります」


「隠せ」


「はい」


頭が痛そうな声だった。


だが、怒鳴りはしなかった。


マルクス教官は額から手を離し、今度は俺へ視線を戻す。


「介入の内容は」


「ヴァイスの指示で、レオンが火球を使用しました。爆発で上がり口付近の魔獣が一時的に離れ、戻る隙ができました」


その一言で、空気がもう一段重くなった。


マルクス教官の視線がレオンへ向く。


「火球を使ったのか」


「はい」


レオンは静かに答えた。


「この魔素濃度でか」


「はい」


「問題なく発動したのか」


「いいえ」


レオンは即答した。


「通常の火球として維持するつもりはありませんでした」


「制御を手放したのか」


「はい。ただ、単に手放せば消える可能性がありました」


レオンの声は、報告として平静だった。


「制御を切る直前に魔力を込めました。暴発する前提で魔力を残し、爆発前に離脱しています」


マルクス教官は、少しの間、何も言わなかった。


沈黙が重い。


俺には、レオンがどの程度の魔力を残したのかまでは分からない。


ただ、あの瞬間に見えたものは覚えている。


エルヴィスは、制御を失った。


レオンは、制御を手放した。


同じ火球でも、同じ暴発ではなかった。


「発案は」


「俺です」


ヴァイスが答える。


マルクス教官の目が細くなる。


「お前に、そこまで魔法制御の知識があるとは思えんが」


「ないですよ」


ヴァイスは、少しだけ困ったように笑った。


「ここでは、身体強化も魔法も普段通りに収まらない。それは途中で分かってました。だから、普通に撃つんじゃなくて、最初から暴発するものとして扱えば使えると思いました」


マルクス教官は、すぐには返さなかった。


視線が、レオンへ移る。


「アレンとは、どこまで手順を詰めた」


「詰めてはいません」


レオンは静かに答えた。


マルクス教官の眉が動いた。


「詰めていない?」


「はい。アレンからは、暴発を使って上がり口を開ける、とだけ」


「それだけか」


「はい」


レオンは頷いた。


「細かい発動手順は、その場で俺が組みました」


マルクス教官が、ゆっくりとヴァイスを見た。


その目が、わずかに見開かれていた。


「……アレン」


「やだなあ」


ヴァイスは、当然のように言った。


「レオンですよ? 何とかするに決まってるじゃないですか」


腹が立った。


そんな言い方で済ませるなと思った。


だが、今までの苛立ちとは少し違った。


ヴァイスは、分かった顔で魔法を語ったわけではない。


分からないところを、自分で抱え込まなかった。


レオンならできる。


そう見て、任せた。


それを、あいつはあの軽さで言う。


そこが、どうしようもなく気に食わない。


マルクス教官は、額を押さえる手に少しだけ力を込めた。


「……そういうところだぞ、アレン」


「はい。たぶん、そういうところですよね?」


マルクス教官は、今度こそ深く息を吐いた。


「お前は」


低い声だった。


「本当に、何をやってるんだ」


マルクス教官は、全員を見た。


「全員が戻った。それは事実だ」


誰も答えない。


「同時に、お前たちは与えた任務の範囲を超えた。それも事実だ」


焚き火がまた小さく爆ぜた。


「今ここで結論は出さない。カイルの報告も、アレンの判断も、レオンの魔法運用も、明日順に検証する」


ヴァイスは黙って頷いた。


「今日は負傷者を寝かせろ。報告書は朝でいい。全員、休め」


その一言で、話は切られた。


俺は、それ以上何も言わなかった。


言えることもなかった。


エルヴィスはまだ目を覚ましていない。

ロドリックは立っているだけで限界に近い。

リシアも、顔色が戻っていない。


マルクス教官が明日扱うと言った。


なら、今はそれでいい。


俺たちに必要なのは、報告の続きではなく、負傷者を休ませることだった。



救護用の天幕に、エルヴィスが運ばれていった。


ロドリックも連れていかれた。

リシアも、教官に促されて天幕へ入った。

アレックスは最後まで立っていたが、マルクス教官に一睨みされて、黙って天幕へ向かった。


レオンは、少し離れた場所で手のひらを見ていた。


火傷はない。


それでも、何かを確かめている顔だった。


ルークは荷縄を丸めながら、泥を落としている。

セレスはリシアの後を追った。


ヴァイスだけが、しばらくその場に残っていた。


俺は一度、そちらを見た。


もう一度礼を言うなら、今だったのかもしれない。


だが、足は動かなかった。

声も出なかった。


俺は声をかけなかった。


かける言葉がなかった。


いや。


言葉はある。


助かった。

感謝している。

お前がいなければ戻れなかった。


どれも事実だ。


だが、どの言葉も足りなかった。


口に出せば、軽くなる気がした。


そして、素直に渡すには、これまで積み上げてきたものが邪魔をした。


俺は、ヴァイスのやり方が気に食わない。


今でもそうだ。


先ほど、俺が言えたのは一つだけだった。


「感謝する」


それが精一杯だった。


俺は、野営地の端へ歩いた。


木々の向こうは暗い。自然大陸の夜は、静かではない。どこかで虫が鳴いている。遠くで、獣の声がした。


マルクス教官とヴァイスのやり取りが、頭に残っていた。


間に合わないと判断した。


持ち帰る情報が、救助のための報告ではなく、見捨てた説明になると思った。


言われた通りに戻るだけなら、自分たちが行く意味はないと思った。


馬鹿げている。


そう切り捨てることは簡単だ。


実際、馬鹿げている。


与えられた任務の範囲を超えた。

戦闘に入った。

魔法を使った。

しかも、失敗すれば二次遭難どころでは済まないやり方で。


正しい判断だったとは、言えない。


俺には言えない。


だが、何も考えていなかったわけではない。


ヴァイスは、命令を忘れていたわけではない。


危険なら戻る。

位置を伝える。

後続の救助班に渡す。


それが、自分たちに与えられた役目だと分かっていた。


その上で、あの場では戻る時間がないと判断した。


命令の範囲を守ることと、目の前の状況に介入すること。


その二つを天秤にかけて、後者を選んだ。


それが正しかったのかどうかを、今の俺が決めることはできない。


だが、結果だけは動かない。


あの判断がなければ、俺たちは戻れていなかった。


ヴァイスは、戻らなかった。


それは命令を忘れたからではない。


俺たちが、あの場で持たないと見たからだ。


それに、あいつは全部を自分で分かっていたわけでもない。


魔法制御の細かいことは分からない。


だが、そこで止まらなかった。


自分で分からないなら、分かる奴に渡す。


ヴァイスは、そうした。


レオンならできる。


そう見て、任せた。


普通なら、それも無責任に見える。


だが、それを、あいつはあの軽さで言う。


レオンですよ?


何とかするに決まってるじゃないですか。


なんとも、腹が立つ。


今でもだ。


だが、今までと同じ苛立ちだけでは片付けられなかった。


俺は、あの軽さが気に食わなかった。


分かったような顔で、重い判断を軽く扱うように見えたからだ。


だが、今日のあれは少し違った。


軽く扱ったのではない。


自分に分からない部分を、分かる奴に渡した。


そう見えた。


認めたくはない。


そんな簡単に認めてたまるかとも思う。


それでも、俺の中に一番残っているのは、理屈ではなかった。


「いや、たぶんまだ早い」


いつものように、なんてことのないような声だった。


あの時、俺は帰還不能だと判断した。


防衛に切り替えるしかないと判断した。


その判断を、あいつは軽い声で止めた。


認めたくはない。


今でも、気に食わない。


あの顔も。

あの言い方も。

あの、分かったような軽さも。


それでも。


あの瞬間、俺は救われた気がした。


他でもない。


俺が、何よりも毛嫌いしていた、あの軽さに。


ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!

筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;

この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。

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