第36話 起死回生
「いや、たぶんまだ早い」
声がした。
あり得ない場所からだった。
斜面の上。
露出した根の向こう。
白杭側へ続くはずの、塞がれた上がり口。
そこに、アレン・ヴァイスがいた。
「な……っ」
一瞬、状況が頭から抜けた。
魔獣の気配は消えていない。
ロドリックは膝をついている。
リシアはエルヴィスの頭を支えている。
アレックスは右を押さえたまま、剣を構えている。
何一つ、良くなっていない。
それなのに、ヴァイスだけが、場違いなほど軽い顔をしていた。
「アレン・ヴァイス! なぜお前がここに!」
言ってから、自分でも分かった。
今、問うべきことではない。
だが、他に何を言えばいいのか分からなかった。
「呼んでないぞ!」
ヴァイスは、少しだけ眉をひそめた。
「呼んでも聞こえないよ。ちょっと黙っとけ」
「お前……」
「うん、長い。右、来る」
ヴァイスの視線は、俺ではなく、斜面の下へ向いていた。
右から来る2匹。
上がり口にいる3匹。
左の低木に潜む気配。
見ている。
いや。
見ているだけではない。
どう崩すかを、もう考えている。
「レオン」
ヴァイスが短く呼んだ。
倒れた幹の奥から、レオン・ヴェルクが姿を見せた。
剣は抜いていない。
右手に魔力が集まっている。
俺は反射で声を上げた。
「魔法は使うな!」
エルヴィスの火球が頭をよぎる。
膨れ上がった火。
破裂音。
吹き飛ばされた盾。
倒れたエルヴィス。
この場所で魔法を使うのは危険だ。
それは、さっき証明されたばかりだ。
だが、ヴァイスは俺の制止を聞いていなかった。
「さっきの暴れ方、逆に使う」
ヴァイスはレオンにだけ聞こえるような声で言った。
「上がり口の横。最後まで持つな」
それだけだった。
意味が分からない。
撃て、ではない。
抑えろ、でもない。
外せ、でもない。
最後まで持つな。
そんな命令があるか。
だが、レオンは聞き返さなかった。
「分かった」
その一言だけで、レオンの掌に火が灯った。
小さな火球だった。
最初は、エルヴィスが作ったものとほとんど同じに見えた。
違うのは、輪郭だ。
火の縁が、最初から甘い。
固め切っていない。
押さえ込んでいない。
レオンは火球を投げたのではない。
置いた。
上がり口の横。
根が露出した斜面の少し上。
俺たちと魔獣の間ではなく、魔獣の流れが重なる位置。
火球が掌を離れる。
その瞬間、形を保つための枠が消えた。
自然大陸の濃い魔素が、そこへ流れ込む。
火が膨れる。
暴発する。
そう思った。
だが、レオンはもう、そこにいなかった。
火球を置いた直後、足を引き、斜面の陰へ滑るように身をずらしている。
爆ぜる前に、熱の届かない位置へ離れていた。
火が白く弾けた。
熱が頬を叩く。
泥と枯れ草が飛び散る。
ロドリックの盾に、小石が当たって跳ねた。
魔獣の鳴き声が重なる。
上がり口にいた2匹が身を引いた。
奥にいた1匹が、低木側へ逃げる。
右から来ていた2匹も、熱と音に反応して動きが乱れた。
上がり口が空いた。
一瞬だけ。
だが、確かに空いた。
エルヴィスは、制御を失った。
レオンは、制御を手放した。
似ているようで、まったく違う。
あれは失敗ではない。
失敗に見える現象を、使える位置に置いた。
その手を思いついたのは、レオンではない。
ヴァイスだ。
あの短い言葉だけで、レオンは理解した。
理解した上で、やり切った。
どちらか一つでも欠ければ、今の爆発はただの事故になる。
「セレス」
ヴァイスが言った。
「通れる?」
「右奥」
セレスティア・アルトの声が返った。
倒れた幹の陰から、セレスが身を出している。
視線は俺たちではなく、魔獣の動きと斜面の崩れを追っていた。
「今だけ薄いわ。根の脇なら通れる」
「どれくらい」
「数秒。迷ったら塞がるわ」
「カイル!」
アレックスの声が飛ぶ。
言われるまでもない。
条件が変わった。
帰還不能。
さっきの判断は間違っていない。
俺たちだけなら、そうだった。
だが、今は違う。
盤面に、別の手が差し込まれた。
「動くぞ!」
俺は声を張った。
「ロドリック、左を受けろ! アレックス、右を押さえろ! リシア、エルヴィスの首を固定しろ!」
「はい!」
「ルーク、荷縄!」
ヴァイスが叫んだ。
「もう出してる!」
低い位置から、ルークが滑り込んできた。
泥まみれだった。
肩には荷縄を掛けている。
いつから準備していたのか、聞く暇はない。
「カイル、腕を少し上げろ!」
「何をする」
「半分持つ!」
「持てるのか」
「全部は無理!」
ルークは即答しながら、エルヴィスの脇の下へ荷縄を通した。
片端を自分の肩へ掛ける。
もう片端を俺の腕の下へ引く。
エルヴィスの重みが、少しだけ分散した。
少しだけだ。
だが、その少しで、俺の剣の角度が戻る。
「リシア」
セレスが言った。
「頭を下げないで。首だけ支えて」
「はい」
「今は治癒しない方がいいわ。呼吸は浅いけれど、動かせる」
リシアの表情が一瞬だけ揺れた。
治したい。
その気持ちは見えた。
だが、セレスの言葉に、リシアは頷いた。
「分かりました」
セレスはそれ以上、言わなかった。
治すのではない。
今は、動かせる状態を保つ。
それだけで十分だった。
「行く!」
俺は前へ出た。
斜面の根元まで、距離は短い。
だが、短い道ほど危ない。
右から来た魔獣を、アレックスが受ける。
斬り込まない。
受け流し、押し返し、進路から外す。
ロドリックは左で盾を上げている。
膝はついたままだ。
立てていない。
それでも、盾は上がっている。
魔獣の爪が盾を叩く。
ロドリックの肩が揺れる。
「下げるな!」
「分かってる!」
返事がある。
それだけでいい。
ルークがエルヴィスの重みを引き、俺の肩から体がずれないように支える。
リシアが頭を押さえる。
セレスが斜面の上を見ている。
「左は駄目」
セレスが言った。
「焦げた草の手前、土が浮いているわ。右へ半歩」
俺は言われた通りに足を置いた。
泥が沈む。
だが、崩れない。
見えている。
セレスは、戦っているのではない。
治しているのでもない。
今この瞬間、踏める場所と踏めない場所を見分けている。
「レオン、もう一ついける?」
ヴァイスが言った。
レオンは、少し離れた位置で魔力を集めかけ、すぐに首を振った。
「今は駄目だ」
「理由は?」
「魔素が寄りすぎている。次はこっちまで来る」
「じゃあナシ」
ヴァイスはあっさり言った。
その軽さに、腹が立つ。
だが、同時に分かる。
無茶はしている。
けれど、雑ではない。
危ない手を選ぶ。
だが、危ないまま振り回しているわけではない。
使えるなら使う。
駄目なら捨てる。
それだけだ。
「カイル、前!」
アレックスの声。
俺は顔を上げた。
火球で退いた魔獣のうち1匹が、根の脇へ戻ってきていた。
上がり口を完全に塞がれる前に、抜けなければならない。
俺はエルヴィスを支える腕に力を入れ、剣を低く構えた。
正面から斬る余裕はない。
足元を払う。
魔獣が跳ぶ。
俺は一歩だけ前へ出て、刃を斜め下へ落とした。
前脚に当たる。
浅い。
だが、着地が乱れる。
「ルーク、押せ!」
「押してる!」
ルークが荷縄を引き、エルヴィスの体を俺ごと前へ押し出す。
無茶な動きだ。
だが、その半歩で、俺たちは根の脇に入った。
「ロドリック!」
「行け!」
ロドリックが盾を横に構えた。
左手だけで、斜面と魔獣の間に盾を押し込む。
盾が壁になる。
長くは持たない。
だが、今欲しいのは長さではない。
順番だ。
「アレックス、先に上がれ!」
「俺が先か」
「上がり口を開けろ!」
「了解」
アレックスが根を掴み、斜面を蹴った。
速い。
さっきまで崖上にいたのだから、足場は分かっている。
上がる動きに迷いがない。
上から魔獣が顔を出した。
アレックスが剣の柄で鼻先を叩く。
斬らない。
体を入れる場所を作るだけだ。
「空いた!」
「ルーク、上げるぞ!」
「おう!」
俺とルークで、エルヴィスを持ち上げる。
重い。
だが、さっきとは違う。
一人で担ぐ重さではない。
全員で動かす重さだ。
リシアが首を支えたまま、足元を滑らせる。
セレスがすぐに手を伸ばし、肘を掴んだ。
「そこ。左足を根に」
「はい」
リシアが踏み直す。
ロドリックが後ろで盾を受ける。
盾が低くなる。
アレックスが上から手を伸ばす。
「ロドリック、上がれるか!」
「無理ならどうする!」
「上がらせる!」
アレックスが返した。
その言い方に、ロドリックが一瞬だけ笑った。
「なら上がる」
ロドリックは盾を斜面に押しつけ、左手と膝で体を引き上げた。
右腕は使えていない。
左足も悪い。
それでも、上がる。
アレックスが腕を掴む。
ルークが下から腰を押す。
俺が魔獣を止める。
1匹が盾の脇から入ろうとした。
レオンが石を蹴った。
ただの石だ。
魔法ではない。
だが、角度が良い。
魔獣の目元に当たり、動きが一瞬止まる。
その一瞬で、俺は刃を入れた。
魔獣が横へ逃げる。
倒していない。
だが、通れればいい。
「カイル!」
ヴァイスの声がした。
「最後!」
「分かっている!」
俺は斜面を蹴った。
エルヴィスの重みは、もう肩だけにはない。
ルークの荷縄。
リシアの手。
アレックスの腕。
セレスの指示。
全部が、ずれていた重心を戻している。
俺一人では上がれなかった。
だが、俺一人で上がる必要は、もうなかった。
根を掴む。
泥が爪に入る。
膝を岩にぶつける。
それでも、上がった。
白杭側の地面に、手をついた。
息が詰まる。
背後で魔獣の声がした。
まだ終わっていない。
それでも、見えた。
白杭だ。
木々の間に、白く塗られた杭が立っている。
ただの目印だ。
道ではない。
安全そのものでもない。
だが、今は違う。
そこへ戻れば、戻る方向を失わない。
帰れる。
そう思ったわけではない。
まだ距離はある。
魔獣もいる。
エルヴィスも目を覚ましていない。
ロドリックは立てない。
だが、帰るための道が、もう一度目の前に現れた。
帰還不能ではなくなった。
それだけで、肺に空気が戻った。
「カイル」
アレックスが隣に立った。
「指示を」
俺は顔を上げた。
アレックスがいる。
ロドリックが膝をついている。
リシアはエルヴィスの首を支えている。
ルークは荷縄を握ったまま息を切らしている。
セレスは白杭までの間を見ている。
レオンは魔法を使わず、剣を抜いていた。
ヴァイスは少し先で、いつものように分かったような顔をしている。
腹が立つ。
本当に、腹が立つ顔だ。
だが。
俺は帰還不能だと判断した。
その判断は、間違っていなかったはずだ。
俺たちだけなら、ここで足を止めるしかなかった。
こいつは、その外側から来た。
残っていない選択肢を、無理やり作った。
認めたくはない。
それでも、認めなければならない。
今の判断は、俺にはできなかった。
「俺には」
俺は言った。
ヴァイスがこちらを見る。
「仲間に無茶をさせるような指示が、正解だとは思えん」
言った瞬間、自分でも分かった。
それは、今言うべき言葉ではなかった。
だが、口をついて出た。
感謝でもない。
称賛でもない。
ただの非難に聞こえる言葉だ。
分かっている。
その正解しか選べなかったのが俺で、このザマだ。
ヴァイスは少しだけ目を丸くしたあと、首を傾げた。
「正解って、そんなに大事か?」
「何?」
「昨日の晩飯なら魚が正解だったけど、今日なら肉だし」
「……何の話をしている」
「正解の話」
俺は、言葉を失った。
魔獣の声が、遠くで響いている。
泥と血と焦げた草の匂いが残っている。
エルヴィスはまだ意識がない。
こんな場所で。
こんな時に。
こいつは、晩飯の話をした。
は。
息が抜けた。
はは。
なんだ、それは。
そもそも、こいつに型などないのか。
正解を探しているわけでもない。
正解らしい形に寄せているわけでもない。
その場で選び、その場で変え、その場で通す。
馬鹿げている。
だが、その馬鹿げたやり方で、道は戻った。
「……お前のやり方は、やはり気に食わん」
「うん。今言うこと?」
「今だから言う」
「そっか」
ヴァイスは軽く笑った。
それもまた、腹立たしいほどいつも通りだった。
俺は息を吐き、剣を握り直した。
肩の力が、少しだけ抜けていた。
「……感謝する」
ヴァイスが瞬きをした。
「え、今の流れで?」
「二度は言わん」
「じゃあ、聞こえたことにしとく。たぶん」
「調子に乗るな」
「はいはい」
「白杭まで戻る」
俺は前を向いた。
「ロドリックは中央。ルーク、荷縄を離すな。リシアはエルヴィスの頭を支えろ。セレス、足場を見ろ。レオンは後方。アレックスは右。ヴァイス」
「うん」
「勝手に前へ出るな」
ヴァイスは笑った。
「それは、たぶん無理」
「無理でもやれ」
「努力はする」
「信用しない」
「ひどいな」
俺は前を向いた。
まだ終わっていない。
だが、終わっていないなら、それでいい。
少なくとも今は、そう思えた。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。




