第35話 帰還不能
低木の奥で、また魔獣が動いた。
俺はエルヴィスを肩に担いだまま、剣を握り直す。
重い。
ただ重いだけではない。
重心がずれる。
足を置く位置が半歩狂う。
剣を振る角度が狭くなる。
だが、下ろせない。
地面に置けば、俺は動きやすくなる。
その代わり、エルヴィスはその場に固定される。
リシアはエルヴィスを支えるために離れられない。
ロドリックも、その場を守る盾になる。
動ける負傷者ではなく、守るべき場所が一つ増える。
今、それはできない。
止まれば、囲まれる。
「アレックス!」
俺は崖上へ声を飛ばした。
「見える数は」
「右の低木に2。左の斜面下に1。正面奥にも2」
アレックスの声が返る。
「そっちは」
「今は空いている。だが、奥で動いている」
今は、か。
つまり、長くは保たない。
「上がれる場所は」
「お前の左。倒れた幹の奥だ。根が出ている。そこなら足をかけられる」
視線だけで確認する。
崖と言っても、垂直ではない。
湿った斜面に、根と岩が露出している。
登れないことはない。
問題は、俺一人が登れるかではない。
エルヴィスを担ぎ、ロドリックを連れ、リシアを守りながら登れるかだ。
「左へ動く」
俺は言った。
「ロドリック、盾は低く。走るな。膝を落とせ」
「了解」
「リシア、俺の後ろから離れるな。エルヴィスの頭が揺れないように押さえろ」
「はい」
「アレックス、そっちに動きがあればすぐ言え」
「分かった」
右奥の2匹が動いた。
草の揺れが低い。
こちらへ真っ直ぐ来ない。
斜面の下へ回り込んでいる。
狙っているかどうかは分からない。
だが、このままでは左へ動いた先を塞がれる。
「右の2匹、下へ回った」
アレックスが言った。
「止まるな。左の根元まで進め」
俺は左へ踏み出した。
一歩。
エルヴィスの体が肩でずれる。
俺は奥歯を噛み、左肩を上げて押さえ込む。
二歩。
泥が靴底を吸う。
足を抜くたび、速度が落ちる。
三歩目で、右から魔獣が跳んだ。
ロドリックが盾を出す。
左手だけの盾だ。
構えは浅い。
それでも、進路をずらすには足りた。
魔獣の爪が盾の縁を叩く。
ロドリックの膝が沈む。
俺は踏み込みすぎない位置から、横へ刃を入れた。
深くはない。
だが、前脚を削られた魔獣が、湿った土の上で体勢を崩す。
倒したかどうかは見ない。
動かなければいい。
起き上がるなら、次で止める。
「左、あとどれくらいだ」
「4歩。だが、正面の2匹が動いた」
「どっちへ」
「上がり口の方だ。このままだと先に塞がる」
舌打ちを飲み込む。
右を避けて左へ動いた。
その先を、正面から塞がれる。
判断は間違っていない。
だが、魔獣の動きがこちらより早い。
「ロドリック、止めるな。受け流せ」
「了解」
ロドリックが盾を斜めに構えた。
1匹目がぶつかる。
盾が鳴る。
2匹目がその横を抜ける。
俺はエルヴィスを担いだまま、体を半分だけ捻った。
刃が浅く入る。
魔獣の体が逸れた。
3匹目が、俺たちの左前へ抜けようとした。
崖上のアレックスが、斜面の縁から剣を突き下ろす。
刃は届かない。
だが、鼻先の土を裂かれ、魔獣が反射的に飛び退いた。
その一瞬で、俺たちは半歩だけ進む。
「身を乗り出すな」
俺は言った。
「分かっている」
アレックスの返事は早い。
だが、その声にも余裕はなかった。
アレックスも限界に近い。
崖上から降る声が、少しずつ短くなっていた。
「右」
「正面、2」
「上がり口」
言葉を削っている。
余裕がない証拠だ。
それでも、さっきの1匹を止めるために、アレックスは斜面の縁から剣を突き下ろした。
白杭側を維持しながら、下にも手を出す。
一人で続けられる動きではない。
だが、今アレックスを下ろせば、上からの目が消える。
方向は分かる。
巨木も見えている。
崖を上がれば白杭側だ。
けれど、上がった先が空いているかは分からなくなる。
俺たちは、崖を上がれば終わりではない。
上がった後、白杭まで戻らなければならない。
そこが魔獣で埋まっていれば、上がったところで詰む。
「アレックス、そっちは」
「増えた」
即答だった。
「何匹だ」
「見えるだけで4。白杭の近くまで来ている。俺の後ろだ」
ロドリックが息を吐いた。
リシアがエルヴィスの後頭部に添えた手に、力を込める。
下りろ。
命令はすぐに出せる。
問題は、その後だ。
アレックスを下ろせば、上の状況が見えなくなる。
崖を上がれたとしても、その先が空いているか分からない。
それでも、残し続ければアレックスが孤立する。
上の情報を取るか。
アレックスを班に戻すか。
迷う余地はなかった。
「カイル」
アレックスが言った。
「まだいける」
「嘘をつくな」
俺は即答した。
短い沈黙が落ちる。
「……2匹なら持つ。4匹だと長くは無理だ」
「下りろ」
リシアが小さく息を呑んだ。
アレックスは返事をしない。
「白杭側は捨てる。こちらに合流しろ」
「上の情報が消えるぞ」
「分かっている」
「上がった先を確認できなくなる」
「分かっている」
俺はエルヴィスを担ぎ直した。
肩に重みが食い込む。
「だが、お前が上で潰れれば、情報も戦力も消える。下りろ」
今度は反論がなかった。
「了解」
崖上で剣が鳴った。
1度。続けて、もう1度。
そのあと、土を削る音がした。
アレックスが下りてくる。
斜面に足を置き、剣で体を支え、落ちる速度を殺している。
上から魔獣が1匹、追ってきた。
「ロドリック!」
「見えてる!」
ロドリックが盾を上へ向ける。
アレックスが最後の岩を蹴り、こちら側へ降りた。
着地と同時に、追ってきた魔獣が跳ぶ。
ロドリックの盾が受ける。
左手だけでは止めきれない。
盾ごと体が押される。
アレックスが横から剣を入れた。
魔獣の体勢がずれる。
俺は首筋へ刃を通した。
魔獣は動かなくなった。
だが、動かなくなった魔獣の匂いに、別の気配が濃くなる。
血の匂い。
焦げた草。
濃すぎる魔素。
音を立てれば集まる。
倒せば集まる。
魔法を使えば、もっと集まる。
逃げるために戦っている。
戦うほど、逃げ道が削られていく。
「全員、固まれ」
俺は言った。
「ロドリックは左。アレックスは右。リシアは中央だ。エルヴィスの首を支えろ」
「はい」
リシアが俺の背後に回り、肩にかかったエルヴィスの頭を両手で押さえた。
「お前は」
アレックスが聞く。
「前だ」
「担いだままでか」
「下ろせば動けなくなる」
「分かった」
それ以上、アレックスは言わなかった。
俺たちは一塊になった。
戦力は増えた。
アレックスが戻ったことで、正面の負担は減った。
右を任せられる。
穴も塞がる。
だが、上が見えない。
白杭側がどうなっているか分からない。
崖上に何匹いるか分からない。
今この瞬間、退路が空いているかどうかも分からない。
方向は分かっている。
だが、道が残っているか分からない。
アレックスを呼んだ判断は間違っていない。
それでも、その判断で別のものが消えた。
「左の根元から上がる」
俺は言った。
「一気には無理だ。ロドリック、先に盾を上げろ。アレックスは上がり口を確保。リシアは俺の後ろから離れるな」
「はい」
「了解」
俺たちは動いた。
3歩。
それだけ進むのに、時間がかかった。
魔獣が来る。
盾で受ける。
剣で払う。
また来る。
ロドリックの息が荒い。
盾が下がる。
下がった分を、アレックスが埋める。
アレックスが右を抑えれば、俺の正面が空く。
俺が正面を向けば、エルヴィスの体がずれる。
リシアが手を伸ばし、頭が揺れないように添える。
そのたびに、リシアの呼吸が乱れる。
誰も倒れていない。
だが、全員が少しずつ削られている。
「リシア、エルヴィスは」
リシアは口元に手を寄せ、次に胸元を見た。
「息はあります。でも、浅いです」
「気道を塞ぐな。吐いたらすぐ言え」
「はい」
本当は、それでは足りない。
だが、今ここで治癒を使わせれば、リシアが落ちる。
リシアが落ちれば、エルヴィスの状態を保てない。
エルヴィスを下ろせば、俺は動ける。
だが、下ろした瞬間、守る場所が増える。
選択肢があるようで、ない。
「カイル」
アレックスが言った。
「上がり口、塞がれた」
俺は顔を上げた。
根の出た斜面の上に、魔獣がいた。
2匹。
奥にもう1匹。
斜面を上がろうとすれば、正面からぶつかる位置だ。
「別の道は」
「右は下から来ている。左は足場が崩れている」
「正面突破は」
「エルヴィスを担いだままでは無理だ」
分かっている。
聞くまでもない。
それでも聞いた。
聞かなければ、まだ選択肢が残っているように思えてしまう。
「魔法は」
リシアが小さく言った。
俺は首を振る。
「使わない」
「でも」
「使わない」
言い切る。
「エルヴィスは意識がない。お前にも使わせない。この場所で魔法を使えば、また何が起きるか分からない」
「……はい」
リシアは俯いた。
責めているわけではない。
だが、言い方を選ぶ余裕はない。
低木が揺れる。
今度は正面ではない。
上から1匹。
右から2匹。
左の低木にも気配。
正面は塞がれた。
右は下から回り込まれている。
左の低木側は足場が崩れている。
残っているのは、崖肌に露出した根の脇だけだ。
人ひとりが体を寄せれば通れる。
エルヴィスを担いだままでは、剣を振る余地もない。
それでも、そこを通るしかない。
「ロドリック、盾を上げろ」
「了解」
「アレックス、右」
「見えてる」
「リシア、伏せろ。エルヴィスの頭を落とすな」
「はい」
俺はエルヴィスを担いだまま、膝を落とした。
上から来た魔獣を、ロドリックの盾が受ける。
右の2匹を、アレックスが斜めに押さえる。
左から飛び出した1匹を、俺が払う。
刃は入る。
だが、腕が重い。
肩に乗るエルヴィスの重み。
泥に沈む足。
エルヴィスの浅い息。
ロドリックの負傷。
リシアの消耗。
全部が、剣を振るたびについてくる。
魔獣を退けることはできている。
だが、進めない。
それが問題だった。
「カイル」
アレックスの声が低くなった。
「このまま上がるのは厳しい」
「分かっている」
「一度、足場を固めるべきだ」
足場を固める。
移動を止める。
背を取られにくい位置に寄り、盾と剣で受ける。
魔獣の圧が下がるまで耐える。
理屈としては正しい。
だが、それはほとんど、自力での帰還を捨てる判断だ。
「まだだ」
俺は言った。
「まだ動ける」
アレックスは反論しなかった。
ただ、剣を構え直した。
ロドリックもリシアも、何も言わない。
俺の言葉を信じたわけではない。
俺がまだ認めていないだけだと、分かっているのだろう。
それでも、全員が動いた。
もう一度、左へ。
魔獣の少ない方へ。
足場の悪い方へ。
選んだのではない。
そこしか残っていなかった。
2歩目で、ロドリックが膝をついた。
「ロドリック!」
「……立てる」
「立つな。盾だけでいい」
ロドリックは膝をついたまま、盾を上げた。
魔獣の爪が盾を叩く。
金属音が短く響く。
アレックスが右を払う。
俺が正面を止める。
リシアがエルヴィスの頭を支える。
誰も止まっていない。
だが、誰も進めていない。
俺は、そこでようやく認めた。
帰還は、無理だ。
少なくとも、このままでは。
崖を上がることはできるかもしれない。
だが、上がった先の道がないかもしれない。
エルヴィスを担いだまま、魔獣を抜け切る速度はない。
ロドリックを走らせる足もない。
リシアに魔法を使わせる余力もない。
アレックスをもう一度上へ戻す余裕もない。
選択肢は消えた。
残っているのは、帰る方法ではない。
今ここで、誰をどこに立たせれば死なないか。
それだけだ。
「全員、止まれ」
俺は言った。
リシアがこちらを見る。
アレックスも、ロドリックも、意味を理解した顔をした。
「移動を止める。背を斜面に向けろ。ロドリックは左。アレックスは右。リシアは中央。エルヴィスは俺の後ろに下ろす」
それは、撤退の指示ではない。
防衛の指示だ。
帰還ではない。
生き残るための形だ。
口に出せば、認めることになる。
帰還不能。
そう判断するしかなかった。
俺がそう判断した、その時だった。
「いや、たぶんまだ早い」
声がした。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。




