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第34話 カイル班

息を吸うたび、泥と焦げた草の匂いが喉に貼りついた。


カイルは、エルヴィスを肩に担いでいた。


意識のない人間は重い。


肩だけではない。

姿勢がずれる。

呼吸が浅くなる。

剣を振る角度まで狂う。


低木の奥で、魔獣が動いている。


1匹ではない。


右。

左。

それから、上。


白杭は見えない。


だが、方向は分かる。


正面やや左。

崩れた斜面に、根を露出させた巨木が立っている。


斜面の上、その奥が白杭側だ。

そこに、アレックスがいる。


問題は、まっすぐ戻る道がないことだった。


ロドリックは左手で盾を持っていた。

右腕は使えない。

左足も負傷している。


リシアは、エルヴィスの呼吸を見ている。

顔色が悪い。

治癒魔法を使いすぎていた。


帰還予定時刻は、もう守れない。


どこで判断を誤った。

何を見落とした。


答えは、まだ出ない。


ただ、そこまでの進行に大きな乱れはなかった。


少なくとも、魔獣が現れるまでは。



北側第二採取区域は、地図で見るより足場が悪かった。


土は柔らかく、草は深い。

岩は濡れている。


それでも、白杭は見えていた。


比較的安全が確認された範囲を示す、帰還の基準点だ。


採取対象の黒鱗苔は、湿った岩肌に張りつく。

白杭を基準に進み、必要な場所で周辺の岩場へ出る。


手順は単純だった。


最初の岩場は見送った。


黒鱗苔の状態は良かった。

だが、足場が悪い。


半歩踏み込めば採れる。

けれど、その半歩で滑る。


俺はそう判断した。


エルヴィスはわずかに不満そうだった。

採取対象が見えたのだから、当然でもある。


だが、採れるかどうかと、採って戻れるかどうかは違う。


アレックスが岩場と白杭の位置を見比べ、すぐに頷いた。


「妥当だな」


俺の判断に不足があれば、アレックスが補う。

進むなら進む。

見送るなら、全員を止める。


副班長として、余計な口は挟まない。

だが、必要な確認は怠らない。


ロドリックは盾を背負い、周囲を見ていた。

体格は班で一番大きいが、鈍重ではない。


敵と味方の間に、盾を置く。

その判断が早い盾士だ。


リシアは後方に控えていた。

神官教育を受け、応急処置程度の治癒魔法が使える。


専門の神官ではない。

だが、負傷者が出た時、この班で最初に動けるのはリシアだった。


エルヴィスは魔法士だ。

火力があり、判断も悪くない。


ただ、採取対象が見えると、確認より先に動きがちだった。


次の岩場は、白杭に近かった。


黒鱗苔は多くない。

だが、規定数の三株なら届く可能性がある。


足場も、一つ目よりはましだった。


俺は採取を決めた。


ロドリックは右。

アレックスには左を警戒させる。

エルヴィスは後方、リシアはさらにその後ろで待機だ。


魔獣が出れば、まずロドリックが止める。

俺とアレックスで左右を抑え、必要ならエルヴィスの火力で押し返す。

リシアは戦闘に入れない。


黒鱗苔は、岩肌に薄く張りついていた。

岩肌ごと、薄く剥がす必要がある。


力を入れれば崩れる。

急げば割れる。


俺は膝を落とし、薄刃を寝かせた。


1株目を小箱へ移す。


そこまでは、順調だった。


今思えば、転機は魔獣の出現だった。


低木の奥で草が揺れた。


アレックスが最初に気づいた。


「右」


ロドリックが盾を構える。


小型の魔獣が飛び出した。


低い体。

長い前脚。

背中に並ぶ硬い棘。


1匹。

続いて、もう1匹。


その時点では、まだ対処できた。


ロドリックが1匹目を止める。

アレックスが、左へ回ろうとした2匹目を抑える。


後方で魔力が立ち上がった。


エルヴィスだ。


「ファイヤボール!」


詠唱が早い。


悪くない判断だ。

盾で止め、左右を抑え、火力で魔獣を押し返す。


正攻法だ。


「ロドリック、アレックス! 射線を開けろ!」


ロドリックが盾を引く。

アレックスが2匹目を払って、左へ退く。


射線が開く。


次の瞬間、火が膨れた。


大きい。


いや、違う。


形を保っていない。


杖先の火が、内側から破れそうに揺れている。


エルヴィスの顔が引きつっている。


「エルヴィス!」


俺は叫んだ。


「待て、様子がおか――」


ロドリックが動いた。


俺の声に反応し、エルヴィスとリシアの前へ体ごと入る。


直後。


炎が破裂した。


音が、岩場の中で跳ねた。


熱。

光。

爆風。


視界が白く弾ける。


ロドリックは辛うじて盾を前に出していた。

だが、その盾ごと吹き飛ばされた。


俺も地面に手をついた。


土が崩れる。

濡れた岩で膝を打つ。

耳の奥で音が鳴り続ける。


誰かが叫んでいた。


リシアだ。


「エルヴィスさん!」


俺は顔を上げる。


エルヴィスが倒れている。


杖は手から離れていた。

目を閉じたまま、動かない。


ロドリックは盾を抱えたまま膝をついている。

右腕が不自然に下がっている。

左足も、まともに踏めていない。


焦げた草。

割れた岩片。

吹き飛んだ小箱。


黒鱗苔は、半分ほど焼けていた。


「状況!」


俺は声を張った。


耳鳴りで、自分の声も遠い。


「エルヴィスさん、意識ありませんっ!」


リシアが答える。


「呼吸はあります!」


「ロドリック」


「生きてる」


ロドリックは歯を食いしばって言った。


「盾は持てる」


「嘘をつくな」


「左なら持てる」


「なら左で構えろ。立つな」


「了解」


返事が返る。


まだ班は崩れていない。


アレックスが俺の横に来た。


剣は抜いている。

焦りの色は隠せていない。


「今の音で、周囲の魔獣が集まる」


「ああ」


分かっている。


すでに、低木の奥で複数の気配があった。


「採取中止。撤退する」


俺は言った。


「リシア、エルヴィスの呼吸を確認しろ。動かせる状態か見ろ」


「はい」


「ロドリックは立つな。左で盾を構えろ」


「了解」


「アレックス、こっちが動く準備を終えるまで正面を止めろ。通すな」


「分かった」


リシアは、エルヴィスの胸元に手を当てていた。


「呼吸はあります。でも、意識がありません」


「治せるか」


「応急処置なら」


「最低限でいい。意識を戻せるなら戻せ。無理なら呼吸を保て」


「はい」


リシアが目を伏せる。


淡い光が、手元に生まれた。


光が安定しない。


弱いのではない。

強すぎる瞬間と、消えかける瞬間がある。


さっきのファイヤボールも、これと同じだ。


術者の未熟だけでは説明できない。


この場所では、魔法の感覚そのものがずれる。


ファイヤボールだけではない。


治癒もだ。


「無理に通すな」


俺は言った。


「必要な分だけでいい」


「はい、分かっています」


リシアは答えた。


だが、その声はもう掠れている。


光が一度、大きく膨らんだ。


エルヴィスの呼吸が乱れる。

閉じた瞼がわずかに震えた。


リシアの顔色が変わる。


「止めろ」


リシアはすぐに手を離した。


光が消える。


エルヴィスは目を覚まさない。

だが、呼吸は少しだけ深くなっていた。


「ここまでです」


「十分だ」


十分ではない。


だが、今はそう言うしかなかった。


不十分だと言えば、リシアはもう一度使おうとする。

それは駄目だ。


低木の奥で、また草が揺れる。


3匹。


いや、もっといる。


別方向からも音がする。


暴発音に誘われたか。


「カイル」


アレックスが正面を見たまま言った。


「正面は俺が止める。お前はエルヴィスとロドリックを動かせ」


「俺が出る」


「お前が前に出れば、撤退が始まらない」


アレックスの声は揺れなかった。


「エルヴィスは動けない。ロドリックもまともに立てない。リシアは呼吸を見ている。後ろを動かせるのはお前だ」


その判断は妥当だった。


正面を任せるなら、アレックスしかいない。

負傷者を動かすなら、俺がやるしかない。


俺は短く息を吐いた。


「アレックス、正面を維持しろ。ロドリックは膝をついたまま盾を構えろ。俺は左側を見る」


「了解」


魔獣が跳ねた。


アレックスが正面で受ける。

俺は左から回り込む1匹を払う。


斬り込まない。

追わない。


今必要なのは、魔獣を倒すことではない。


動く時間を作ることだ。


「リシア、エルヴィスは動かせる状態か」


「……呼吸は保てています。揺らさなければ」


「分かった。まだ動かすな。呼吸を見ていろ」


リシアが頷き、エルヴィスの傍に膝をついた。


ロドリックが左手で盾を構える。


速度は出せない。

それでも、動く準備はできる。


正面やや左。

根を露出させた巨木。


あの崖の上、更に奥が白杭側だ。


そこへ戻る。


そう決めた直後、右奥の低木が揺れた。


1匹が回り込んでいる。


狙いは、リシアと、倒れているエルヴィスの背後だ。


俺は2人と魔獣の間へ踏み込んだ。


「伏せろ!」


同時に、ロドリックも動いた。


負傷した足で踏み出し、盾を横へ投げるように構える。


魔獣が盾に当たる。


俺は横から剣を入れた。


刃は届いた。


だが、止めるべきものはそちらではなかった。


ロドリックの足元が崩れた。


濡れた土が、まとめて滑る。


「ロドリック!」


アレックスが手を伸ばす。


俺も手を伸ばした。


ロドリックの腕を掴んだ瞬間、踏み込んだ足元が抜けた。


爆発で割れた岩片を巻き込み、濡れた土が斜面ごと滑る。


俺の体も、ロドリックの重さごと持っていかれた。


視界の端で、根を露出させた巨木の枝が上へ流れる。


誰かが俺の名を呼んだ。


肩が枝に打ちつけられ、腕が石に削られ、泥が口に入る。


それでも、ロドリックの腕は離さなかった。


ここで手を放せば、班はそこで割れる。


右腕は使えない。

左足もまともに踏めない。


ロドリックを一人で斜面の下へ流すわけにはいかない。


低木に背中からぶつかり、ようやく止まった。


息が詰まる。


ロドリックの腕は、まだ掴んでいる。

だが、返事がない。


喉の奥に、熱が上がった。


何が悪かった。

誰が間違えた。

どこで止められた。


答えは出ない。


ロドリックは仲間を守った。

エルヴィスも即応しただけだ。

リシアも、アレックスも、動けることをしている。


それでも、状況だけが悪い方へ転がり続けている。


怒鳴りそうになる息を、歯を噛んで押し込めた。


今、怒りを出せば、班が乱れる。


「ロドリック」


俺は、掴んだ腕に力を込めた。


「返事をしろ」


「……生きてる」


「リシア」


「います。エルヴィスさんも、ここに」


リシアの声は少し下から聞こえた。


近い。

だが、足場は悪い。


「アレックス」


少し間があった。


「上だ。俺は落ちていない」


声は、崖上から聞こえた。


巨木の向こう。

白杭側だ。


「そっちへ下りるか」


「来るな」


俺は即答した。


「お前が下りたら、戻る基準点が消える」


アレックスは一瞬だけ黙った。


だが、反論はしなかった。


「分かった」


「白杭側を維持しろ。俺たちは崖を上がるルートを探る。魔獣の位置を知らせろ」


「了解」


短いやり取りだった。


それで十分だった。


班が分断された。


俺とロドリック。

少し下に、リシアとエルヴィス。

上に、アレックス。


だが、アレックスが上に残っている限り、戻る方向は消えない。


魔獣の声は、上にも下にもある。


「右奥に2匹」


アレックスの声が降ってきた。


「下へ回り込んでいる。そのまま右へ進めば、斜面下で正面からぶつかる」


「左は」


「足場が悪い。だが、まだ通れる」


「分かった」


エルヴィスは意識がない。

ロドリックはまともに歩けない。

リシアは消耗している。


どこで判断を誤った。

何を見落とした。


誰のせいだ。


その時、ヴァイスの顔が頭をよぎった。


アレン・ヴァイス。気に食わない顔だ。


何でも分かったような顔をして、肝心なところで笑っている。

あの軽さが、どうしても許せなかった。


出発前に、俺は何と言った。

偉そうなことを言ったはずだ。


その結果がこれか。


笑えない。


いや。


笑わせるものか。


「カイルさん」


リシアがこちらを見ていた。


「私が、ここに残ります」


その声は震えていた。


「エルヴィスさんの呼吸は見られます。ロドリックさんを連れて、上へ戻ってください」


「却下だ」


俺は言った。


「でも」


「却下だ」


もう一度言う。


「俺が班長だ。判断は俺がする」


リシアは唇を噛んだ。


「責任は俺にある」


俺は言った。


「離脱は認めない。ロドリック!盾を持て。左手でいい。持てるな」


ロドリックが顔を上げる。


「……持てる」


「よし、なら持て」


ロドリックは短く息を吐き、左手で盾の縁を掴み直した。


「リシア」


「はい」


「治癒は使うな。必要になるまで温存しろ。呼吸だけ見ろ」


「はい!」


「エルヴィスは俺が担ぐ。ロドリックは俺の後ろ。リシアはその後ろ」


俺は上を見た。


「アレックス」


「聞いてる」


「指示は変わらん。こっちが上がれる位置と、魔獣の動きを出せ」


「了解」


低木の奥で、また影が動く。


俺はエルヴィスの体を肩に乗せた。


重い。


肩に乗る重さを、忘れるな。


これは、俺が選んだ結果だ。


俺は空を見る。


木々の隙間から差す光が、さっきより傾いている。


正確な時間は分からない。


だが、分かる。


「帰還予定時刻には、間に合わない」


俺は言った。


誰も何も言わなかった。


俺は続けた。


「なら、次に守るものを間違えるな」


リシアが息を呑む。


帰還予定時刻は、もう守れない。


それは、俺の責任だ。


だが、まだ終わっていない。


俺は剣を握り直した。


「立て直す」


誰も置いていかない。


そう決めた瞬間、低木の奥で、また魔獣が動いた。


ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!

筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;

この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。

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