第30話 自然大陸
自然大陸に行く。
そう決まってから、俺たちは思っていたよりも浮わついていた。
少なくとも、港へ向かう足取りは軽かった。
選ばれた。
行けることになった。
世界で一番面倒で、一番危ない大陸の外縁部へ。
そう考えると、危ないと分かっていても、どこか心が浮き立つ。
「自然大陸だぞ、自然大陸」
ルークは、朝から何度目か分からないそれを言った。
「知ってる。行き先だからな」
「そういう冷めた返しじゃなくてよ。もっとあるだろ」
「たとえば?」
「世界で一番危なくて、世界で一番稼げて、世界で一番見たことないものがある場所だぞ」
「真ん中に本音が出てるな」
「大事だろ」
ルークは悪びれない。
いつものことだ。
でも、そのいつも通りが、今朝は少しだけ頼もしくもあった。
荒漠大陸の管理港には、俺たち以外の三班もすでに集まっていた。
自然大陸外縁部訓練に選ばれた四班。
騒ぐ者はいない。
誰もが落ち着いているように見えた。
けれど、視線が港の外へ流れる回数や、荷物を確認する手つきの細かさが、いつもの実技場とは少し違っていた。
たぶん、全員が少しずつ、いつもの自分ではいられない。
選ばれたという高揚と、行き先を知ってしまった後の重さ。
その両方を持て余したまま、俺たちは港に立っていた。
「報告書は読んだ」
桟橋の前で、マルクスが言った。
俺たち四人は、荷物を背負ったまま立っている。
「突き返すほどではない」
「褒め言葉ですか?」
ルークが聞いた。
「違う」
「知ってた」
「なら聞くな」
マルクスはいつも通りだった。
厳しい顔で、必要なことだけを言う。
「資料通りに動くな」
短い言葉だった。
レオンが、少しだけ眉を寄せる。
「資料を信じるな、という意味ですか」
「違う。資料と現場の差を見ろ、という意味だ」
マルクスは、停泊している船へ視線を向けた。
「書いたものを覚えるだけなら誰でもできる。現場で必要なのは、違いに気づくことだ。違うと分かった上で、進むのか、止まるのか、引くのかを決めろ」
「分からなかったら?」
俺は聞いた。
マルクスがこちらを見る。
「引け」
即答だった。
「分かった気になった時が、一番死にやすい」
言い返す言葉は、出てこなかった。
たぶん、そういう場所へ行く。
そう思いながら見上げた船は、思っていたよりも地味だった。
自然大陸へ行く船だ。
もっと大きくて、もっといかにも特別なものを少しは想像していた。
だが、目の前にある船は違う。
船体は厚く、帆には補修跡がある。
横腹には冒険者ギルドの紋章。
飾り気はない。
速く走るためというより、壊れずに帰ってくるための船に見えた。
「夢がないな」
ルークが言った。
「船に何を求めてるんだ」
「自然大陸に行く船だぞ。もっとこう、伝説っぽい感じがあるだろ」
「戻ってくるための船に、伝説はいらないんじゃないか」
俺が言うと、ルークは一瞬黙った。
「……それはそれで、嫌な言い方だな」
「そうか?」
レオンは船に積まれた海図を見ていた。
いつも通り落ち着いている。
……ように見える。
ただ、桟橋から船へ渡る時だけ、少し歩くのが早かった。
「嬉しそうだな」
俺が言うと、レオンは一度だけこちらを見た。
「自然大陸の管理航路を実際に見られる機会は、そう多くないからね」
「嬉しいんだな」
「興味があるだけだよ」
「それを嬉しいって言うんじゃないか?」
レオンは答えなかった。
否定しない時点で、たぶん当たりだ。
セレスは船縁から海の向こうを見ていた。
不安そう、ではなかった。
怖がっているわけでもない。
ただ、遠くを見る目が、いつもより少しだけ明るい。
「怖くはなさそうだな」
俺は言った。
セレスは少し考えてから、首を傾げた。
「怖くないわけではないわ」
「じゃあ?」
「見てみたい、かしら」
その答えは、少しセレスらしかった。
船が岸壁を離れた。
荒漠大陸の港が、ゆっくりと遠ざかる。
乾いた色の岸壁。
港湾都市の壁。
ギルド本部の塔。
いくつもの桟橋。
見慣れたものが、少しずつ小さくなっていく。
それだけで、少しだけ遠くへ行く気がした。
船上では、しばらくの間、まだ浮わついた空気が残っていた。
「なあ、最初に何見つけると思う?」
ルークが言った。
「採取対象だろ」
「そういう正解はいらねえんだよ」
「じゃあ何がいいんだ」
「光る草とか、でかい角とか、見たことない鉱石とか」
「光る草は資料にあったね」
レオンが言った。
「ほら見ろ」
「ただし、触る前に確認が必要とも書いてあった」
「夢に注意書きを足すな」
ルークが顔をしかめる。
俺は少し笑った。
管理航路に入ってから、船は何度か進路を変えた。
海に線が引いてあるわけではない。
当たり前だ。
それでも、昨日見た海図の線を思い出す。
荒漠大陸から自然大陸南西外縁部へ伸びる一本の線。
紙の上では、真っ直ぐに見えた。
だが、実際の船は真っ直ぐには進まない。
波。
風。
潮。
海の色。
船員たちは、それを見ながら何度も小さく舵を切った。
「海図より南に振れてるかな」
レオンが言った。
説明ではなく、確認するような声だった。
「理由は?」
セレスが聞く。
「僕には分からない。ただ、船員たちは迷っていないように見えるね」
つまり、予定外ではない。
俺は船首の方を見る。
船員の一人が、海面の色を見ていた。
青い海の中に、薄く緑が混じっている。
それが帯のように伸びていた。
船は、その帯を避けるように進んでいる。
「何かいるのか?」
ルークが言った。
さっきより、声が少し低い。
「さあ」
俺は答えた。
分からない。
分からないが、避けている。
なら、避ける理由がある。
それだけは分かる。
船は進む。
地図では一本の線だったものが、実際にはその時々で選び直される幅なのだと、少しずつ分かってくる。
たぶん、これが管理航路なのだろう。
決められた道ではない。
その時々で、船を進めていい場所を選び続けること。
自然大陸が見えたのは、それからしばらくしてだった。
最初は雲かと思った。
水平線の上に、濃い緑が低く盛り上がっている。
近づくにつれて、それが森だと分かった。
森。
そう呼ぶしかない。
だが、俺の知っている森とは違った。
荒漠大陸にも、森はある。
川もある。
草もある。
人が木陰で休み、鳥が鳴き、獣が走る場所はある。
けれど、目の前のそれは、同じ言葉で呼ぶには少し濃すぎた。
木があるのではない。
緑が積み上がっている。
崖を覆い、岩場を飲み込み、海へ向かって枝を伸ばしている。
白い滝がいくつも海へ落ちていた。
潮の匂いに、濡れた土と草の匂いが混じる。
まだ上陸していないのに、肺の奥まで緑が入り込んでくるようだった。
自然大陸が近づくにつれて、ルークの声が少しずつ減っていった。
さっきまで、最初に何を見つけるかで勝手に盛り上がっていた口が、今は閉じている。
何か言いたいのに、言葉が追いついてこない。
そんな顔をしていた。
「……すげえな」
しばらくして、ルークがようやく言った。
それだけだった。
誰も、すぐには返さなかった。
自然大陸南西外縁部。
資料には、そう書いてあった。
低危険地域。
上陸地点。
一時拠点。
巡回路。
採取区域。
帰還地点。
昨日まで紙の上にあった言葉が、少しずつ目の前に近づいてくる。
そうこうする内に、船は入り江に入った。
岩壁に囲まれた狭い水面。
奥に木製の桟橋がある。
その先には、石造りの一時拠点。
ギルドの旗。
資料通りだ。
「上陸」
マルクスが短く言った。
船員がロープを投げ、船体が桟橋に寄せられる。
俺たちは荷物を背負った。
剣の重さ。
水袋の重さ。
写した地図の重さ。
どれも昨日と同じはずなのに、少しだけ違って感じた。
順番に船を降りる。
桟橋の板が軋む。
船の揺れが消え、足元に陸の硬さが戻る。
陸。
そう思った。
だが、足元から返ってくる硬さは、知っている陸のものとは少し違っていた。
桟橋の板は濡れている。
水を被った直後の濡れ方ではない。
木そのものが湿気を吸い、重くなっているような感触だった。
板の隙間から、細い草が伸びている。
石の間にも苔がある。
人が置いたものの上に、自然が少しずつ乗っている。
そう思ってから、空気の重さに気づいた。
湿っているだけではない。
緑が近い。
近すぎる。
「最初に確認するのは、帰還地点だ」
マルクスはそう言って、桟橋の奥を指した。
白い杭が三本、木道の脇に立っている。
一時拠点の入口。
集合用の標識。
船へ戻る道を示す目印。
資料で見た配置と同じだった。
同じだったからこそ、違いが目についた。
白杭の表面に、薄く苔が張っている。
番号の黒い塗料が、端から少し浮いていた。
木道の板の隙間には、細い根が入り込んでいる。
「……古くないか?」
ルークが低く言った。
レオンが資料を開き直す。
「記録では、整備は三日前だね」
誰も、すぐには返さなかった。
セレスが白杭の根元を見ていた。
「荒れているんじゃないのね」
静かな声だった。
「育っている」
荒れているのではない。
壊れているのでもない。
ただ、育っている。
白杭の周りだけではない。
桟橋の隙間から伸びる草。
木道の端を掴む蔓。
石壁に張りついた苔。
一時拠点の壁の継ぎ目に入り込む細い根。
どれも、壊してはいない。
塞いでもいない。
けれど、人間が置いたものの隙間に、自然が少しずつ入り込んでいる。
「三日前は、ここまでではなかった」
マルクスが言った。
俺たちは全員、そちらを見た。
「記録を書いたのは俺だ」
その一言で、空気が少し変わった。
資料が古かったわけではない。
誰かが見落としたわけでもない。
三日前は、正しかった。
正しかったものが、三日で古くなっている。
「成長が、早すぎるということでしょうか」
レオンは、白杭から木道へ視線を移しながら言った。
マルクスはすぐには答えない。
「可能性はある」
短く、そう言った。
可能性。
まだ確定ではない。
けれど、無視していいほど軽くもない。
「確認しろ」
マルクスは言った。
「壊れたものではなく、変わったものを見ろ」
壊れたものではない。
もう一度見ると、その意味が少しだけ分かった。
白杭は立っている。
番号も読める。
木道も、一時拠点も、役目を失ってはいない。
ただ、三日前と同じ顔ではなかった。
「アレン」
ルークが俺を呼んだ。
「これ、進んでいいやつか?」
軽口ではなかった。
だから、すぐには答えられなかった。
俺は白杭を見る。
木道を見る。
一時拠点を見る。
森を見る。
資料にあるものは、全部ある。
上陸地点。
一時拠点。
帰還地点。
巡回路。
位置も合っている。
だからこそ、余計に判断しづらかった。
駄目になっているわけではない。
でも、同じでもない。
「今すぐ駄目って感じじゃない」
俺は言った。
「たぶん」
「たぶんかよ」
ルークが言う。
いつもの調子なら、そこで笑ったはずだ。
でも、笑わなかった。
「だから、確認するんだろ」
俺は答えた。
ルークはそれ以上何も言わなかった。
レオンが簡易地図を開く。
セレスが撤退基準の写しを取り出す。
俺は、白杭から木道へ視線を移す。
マルクスは何も言わない。
止めもしない。
進めとも言わない。
ただ、見ている。
自然大陸南西外縁部。
低危険地域。
そう書いたのは、たぶん人間だ。
ここにある緑は、その言葉を読まない。
俺は白杭の番号をもう一度見てから、木道の方へ一歩踏み出した。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。




