第22話 名前のないもの
私はもう、木には登らない。
登れなくなったわけではない。
登る場所と、登る理由を選ぶようになっただけだ。
走ることも、同じだった。
走れなくなったわけではない。
ただ、いつ走るのかを、前より少しだけ考えるようになった。
歩く時は静かに。
裾を汚してはいけません。
声を上げて笑ってはいけません。
子供の頃、何度も聞かされた言葉は、今でも体に残っている。
けれど、それはもう、私を縛るだけのものではなかった。
静かに歩くことを覚えた。
声を荒げずに話すことも覚えた。
笑いすぎないことも、相手との距離を測ることも、覚えた。
そうした方が、見えるものがある。
そうした方が、選べるものがある。
私は、それを知っている。
冒険者学校の門をくぐった時、周囲の視線が私に集まった。
それは、珍しいことではなかった。
視線を向けられることには慣れている。
屋敷でも、外でも、人の視線がこちらへ向くことはあった。
けれど、冒険者学校の視線は少し違っていた。
値踏みするような視線。
物珍しそうな視線。
それから、少しだけ好奇心の混じった視線。
「あの子、新入生?」
「綺麗すぎない?」
「冒険者って感じじゃないな」
「いいところの子?」
その言葉に、私は少しだけ背筋を伸ばした。
そう見られる理由があることは、分かっていた。
けれど、私は私としてここに来た。
自分で選び、自分の足で立つために。
最初から、誰かの言葉で形を決められるつもりはなかった。
だから私は、静かに歩いた。
姿勢を崩さず。
視線を泳がせず。
必要以上に笑わず。
必要以上に怯えず。
そうしていれば、人は勝手に距離を測ってくれる。
近づいてくる人もいる。
遠巻きに見る人もいる。
勝手に噂する人もいる。
私は、その全部を聞き流すことにした。
初日から目立つ必要はない。
初日から誰かを敵に回す必要もない。
走るのは、走るべき時でいい。
そう思っていた。
「君、新入生だよね」
声をかけられたのは、校舎へ向かう途中だった。
振り返ると、数人の男子生徒が立っていた。
制服の着こなしや、周囲の生徒の避け方を見る限り、上級生だろう。
背が高い。
体格もいい。
それだけで威圧するつもりなのかもしれない。
私は軽く頭を下げた。
「はい」
「やっぱり。迷ってるなら案内してあげようか」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
「遠慮しなくていいって。初日だと分からないだろ?」
「場所は確認していますので」
「へえ。しっかりしてるんだ」
一人が笑った。
別の一人が、私を上から下まで見る。
「君、冒険者志望には見えないね」
「よく言われます」
本当は、まだ一度も言われていない。
けれど、今言われたので、よく言われることにしておいた。
相手は少しだけ笑う。
「貴族の子?」
その言葉に、周囲の空気が少しだけ変わった。
近くを通りかかった生徒が、こちらを見る。
私は表情を変えないようにした。
「どうでしょう」
「隠すんだ」
「隠すほどのことでもありません」
「じゃあ教えてよ。どこの家?」
一歩、距離が詰まる。
私は半歩だけ下がった。
怖くはなかった。
腹が立たないわけでもなかった。
ただ、ここで強く出れば、その瞬間に別の名前がつく。
綺麗な子。
気の強い子。
上級生に楯突いた子。
面倒な子。
そのどれも、今は必要なかった。
断ることはできる。
逃げることもできる。
それでも、初日から走る場所を間違えるわけにはいかなかった。
「申し訳ありませんが、急いでいますので」
「そんなに急がなくてもいいだろ。少しくらい――」
「悪い。そいつ、俺の連れ」
軽い声が割り込んだ。
私は、その声を聞いて、息を止めた。
男子生徒たちの視線が、私から横へ逸れる。
そこに、一人の少年が立っていた。
背は高い。
けれど、上級生たちを力で押し返せるような威圧感はなかった。
それなのに、彼は当然のようにそこに入ってきた。
まるで、自分が通る道に、たまたま人が立っていただけだと言うように。
「誰だ、お前」
上級生の一人が低い声で言った。
少年は少しだけ首を傾げた。
「新入生」
「見れば分かる」
「じゃあ聞くなよ」
場が、一瞬だけ止まった。
私は思わず、笑いそうになった。
けれど、笑わなかった。
今笑えば、多分彼まで巻き込む。
「お前、こいつの知り合い?」
「今なった」
「は?」
「だから、今なった」
少年はそう言って、私を見る。
「だよな?」
その目に、見覚えがあった。
あの日、古い木の下から私を見上げた目。
「……ええ」
私は答えた。
「そうね」
上級生たちは、少しだけ困った顔をした。
正面から喧嘩を売るには、人が見ている。
かといって、引くには格好がつかない。
その中途半端な空気を、少年は見逃さなかった。
「じゃ、行くぞ」
そう言って、彼は私の手を取るでもなく、先に歩き出した。
当然のように。
私は一度だけ上級生たちに会釈して、その後を追った。
背中に視線を感じる。
何か言われるかと思った。
けれど、何も飛んでこなかった。
少し離れたところまで来て、少年はようやく振り返った。
「大丈夫か?」
「ええ」
「ならよかった」
彼はそれで終わったような顔をした。
助けた相手の名前を聞くでもない。
事情を尋ねるでもない。
自分が少し危ないことをしたという顔もしていない。
ただ、通りがかりに少し道を変えただけ。
そんな顔だった。
だから、私は言ってみた。
「また、助けたあとに裏切らないのね」
少年が不思議そうに私を見る。
「また?」
ああ、やっぱり。
多分、そうだろうと思っていた。
あの日のことを、彼が特別な出来事として抱えているとは思っていなかった。
困っている子がいた。
少しだけ抜け道を作った。
走った。
彼にとっては、それだけだったのだろう。
だからこそ、私はあの日の背中を眩しいと思ったのだ。
「何でもないわ」
私は言った。
「助けてくれて、ありがとう」
「助けたってほどじゃないだろ」
「そうかしら」
「たぶん」
その言い方に、私は少しだけ笑った。
変わっていない。
少なくとも、私が覚えている彼と、少しも遠くなっていなかった。
「あなた、名前は?」
私は聞いた。
本当は知っている。
知っているけれど、知らないふりをした。
彼が覚えていないなら、ここから始めればいい。
「アレン」
少年は答える。
「アレン・ヴァイス」
「そう」
私は静かに頷いた。
「私はセレスティア」
少しだけ迷ってから、続ける。
「セレスティア・アルト」
嘘ではない。
けれど、すべてでもない。
今の私が差し出せる名前としては、それで十分だった。
「セレスティアか」
アレンは私の名前を繰り返した。
「長いな」
「失礼ね」
「じゃあ、セレス?」
「いきなり縮めるのね」
「嫌ならやめる」
「……嫌ではないわ」
「なら、セレスで」
彼は軽く言った。
その軽さが、不思議と嫌ではなかった。
屋敷で名前を呼ばれる時、その名前はいつも私だけのものではなかった。
家の名も、娘としての立場も、期待も、一緒についてきた。
けれど、彼の口から出た名前には、そういうものが何もなかった。
ただ、私を呼ぶための音だった。
それが、少しだけくすぐったかった。
「それで、セレスはどこへ行くところだったんだ?」
「受付へ」
「じゃあ同じだな」
「あなたも?」
「新入生だからな」
「見れば分かるわ」
「さっきの上級生みたいなこと言うなよ」
「あなたが先に言ったのよ」
アレンは少しだけ笑った。
私はその隣を歩いた。
あの日とは違って、手は引かれていない。
私は自分の足で歩いている。
それでも、隣にいる。
そのことが、不思議だった。
不思議で、少しだけ嬉しかった。
5歳の私が願ったことは、笑ってしまうほど遠いものだと思っていた。
手を引かれなくても、隣を走れるようになりたい。
その願いを、私は長い間、言葉にしないまま持っていた。
そして今。
私は彼の隣を歩いている。
奇跡、という言葉は大げさかもしれない。
けれど、その時の私には、十分に大げさな出来事だった。
◇
それから、私はアレンを見るようになった。
最初は、ただ懐かしかったのだと思う。
あの日の少年が、本当に同じ学校にいる。
同じ授業を受け、同じ食堂で食事をして、同じ校舎を歩いている。
その事実が、しばらく不思議だった。
けれど、見ているうちに分かったことがある。
アレンは、よく分かったような顔をする。
本当に分かっている時もある。
分かっていない時もある。
多分、本人にも分かっていない時がある。
それでも、彼は分かったような顔をする。
不思議なのは、それがただの嘘には見えないことだった。
逃げたそうにする。
でも、最後には逃げない。
軽く言う。
でも、その軽さで誰かが動けるようになる。
何も考えていないように見える。
でも、誰かが止まりかけた時、彼の軽い一言で場が動くことがある。
私はそれを見るのが好きだった。
好き、という言葉が正しいのかは分からない。
憧れ。
恩。
懐かしさ。
親しさ。
どれも近くて、どれか一つでは足りない。
私が彼を見る理由を、ひとつの名前にするには、まだ早い気がした。
だから、私はただ見ている。
この気持ちに、名前はまだない。
ただ、私は知っている。
手を引かれなくても、隣を歩ける場所に、私は今いる。
そのことが、今の私には、何より嬉しい。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
この物語を少しでも気に入っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の凄まじいモチベーションになります。




