第21話 セレスティア・アルト
男子バレーフランス戦で投稿が遅れました >< すみません…!
5歳のセレスティア・アルトは、淑女という言葉が嫌いだった。
歩く時は静かに。
裾を汚してはいけません。
声を上げて笑ってはいけません。
木に登るなど、もってのほかです。
もってのほか。
そう言われると、少しだけ登ってみたくなる。
屋敷の裏手には、古い塀があった。
その向こうには、もう使われていない果樹園跡がある。
大人たちは近づかない。
侍女たちも、あまり気にしていない。
だからセレスティアは、塀の欠けたところを見つけて、そこから外へ出た。
少しだけ。
ほんの少しだけ、外から屋敷を見てみるつもりだった。
だが、5歳のセレスティアにとって、少しだけ、という言葉はあまり信用できるものではなかった。
気づけば、靴は土で汚れ、裾には草の種がつき、髪には小さな枝が引っかかっていた。
侍女が見たら、きっと悲鳴を上げる。
父が見たら、眉間に皺を寄せる。
母が見たら、静かにため息をつく。
それが分かっていても、セレスティアは古い木の枝に腰をかけて、少しだけ笑った。
塀の外から見る屋敷は、いつもより遠かった。
いつもより、広かった。
「おい、見ろよ」
声がした。
セレスティアは下を見る。
果樹園跡の小径に、見知らぬ子供たちがいた。
近くの街から入り込んだ子か、屋敷の使用人の子か。
少なくとも、礼儀を教えられた子供たちには見えなかった。
「女のくせに木に登ってる」
「怒られるぞ」
「降りられねえんじゃねえの?」
からかう声が、下から飛んでくる。
セレスティアは唇を結んだ。
降りられる。
登る時より少し怖いだけだ。
怖いだけで、降りられないわけではない。
けれど、今降りれば、あの子たちはきっともっと笑う。
降りられないと思われるのも嫌だった。
泣くと思われるのも嫌だった。
何より、怖がっていると思われるのが嫌だった。
「淑女様なんだろ?」
その言葉に、セレスティアはむっとした。
淑女。
また、その言葉だ。
全部、知っている。
知っているから、余計に腹が立つ。
「降りられるわ」
セレスティアは言った。
声が少し震えたのは、風のせいにした。
「じゃあ降りろよ」
下の子供たちが笑う。
セレスティアは枝に手をかけた。
その時だった。
「何してんの?」
別の声がした。
子供たちの後ろから、一人の少年が顔を出した。
同じくらいの年に見える。
少し乱れた髪。
汚れた靴。
どこの子かは分からない。
ただ、最初からそこにいたような顔をしていた。
「こいつ、木から降りられねえんだって」
子供の一人が言った。
「降りられるわ」
セレスティアはすぐに言い返した。
少年はセレスティアを見上げた。
それから、下の子供たちを見る。
「へえ」
少年は頷いた。
「でも、あっちの方が面白いぞ」
「あっち?」
「塀の裏に穴がある。秘密基地にできるかもしれない」
秘密基地。
その言葉は、どうやらかなり強かったらしい。
子供たちは顔を見合わせた。
「マジかよ」
「行こうぜ」
少年は当然のように歩き出した。
悪ガキたちも、それについていく。
セレスティアは木の上で、ぽかんとしたままそれを見送った。
助かった。
そう思った。
思ったのに、しばらくして、少年だけが戻ってきた。
「なんで戻ってきたの?」
セレスティアは思わず聞いた。
「あいつらは?」
「なんか、やっぱりお前が気になるみたいでさ」
少年は悪びれもせずに言った。
セレスティアの顔が強張る。
「嫌よ。行きたくないわ」
「当たり前だろ。なんで助けたあとに裏切るんだよ」
少年は、当然のように言った。
その当然が、少しおかしかった。
「降りろ。あいつら、戻ってくるぞ」
「え?」
「俺が行くとは言ったけど、お前を連れてくるなんて言ってないからな」
それは、理屈としてはひどく雑だった。
でも、嘘ではなかった。
少年は、木の下で手を伸ばした。
セレスティアはその手を見た。
泥のついた手だった。
淑女なら、取らない手。
けれど、取らなければ、ここから降りるきっかけがない。
セレスティアは、その手を取った。
木から降りる時、少しだけ足が滑った。
少年が支えた。
支えたというより、一緒にぐらついた。
二人とも転びそうになって、それでも何とか立ち直る。
「危なかった」
「あなたが言うの?」
「でも降りられただろ」
「……そうね」
「じゃあ走るぞ」
「え?」
「塀沿いに走れば、裏門の方に出る」
「知ってるの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「今考えた」
この子は、何を言っているのだろう。
「でも」
セレスティアは裾を握った。
「淑女は、走らないのよ」
「じゃあ、今は淑女じゃないことにすればいい」
「そんなことできるの?」
「走ってから考えればいい」
セレスティアは、思わず目を丸くした。
少年はそう言って、先に走り出した。
セレスティアも走った。
裾が揺れる。
靴が土を蹴る。
髪がほどける。
侍女が見たら悲鳴を上げるだろう。
父が見たらきっと眉間に皺を寄せる。
母が見たら静かにため息をつくに違いない。
でも、その時のセレスティアは、笑っていた。
声を上げて。
淑女らしくなく。
塀沿いの小径を走りながら、セレスティアは何度も振り返った。
悪ガキたちはまだ来ない。
少年は前を走っている。
本当に裏門の方へ出るのかは分からないが、迷っているようには見えなかった。
やがて二人は、屋敷の裏門に近い茂みの陰までたどり着いた。
そこからなら、セレスティアは一人でも戻れる。
少年は息を切らしながら、平気な顔をしようとしていた。
「じゃあな」
「待って」
セレスティアは、思わず呼び止めた。
少年が振り返る。
「名前は?」
「アレン」
「アレン?」
「アレン・ヴァイス」
その名前を、セレスティアは小さく繰り返した。
アレン・ヴァイス。
変な子。
助けたあとに裏切らない子。
行くとは言ったけれど、連れてくるとは言わなかった子。
「あなた、淑女じゃないことにすればいいって言ったわ」
「言った」
「そんなこと、本当にできるの?」
アレンは少しだけ目を上げた。
それから、言った。
「ずっとは無理でも、少しの間ならできるんじゃないか」
セレスティアは黙った。
それは、先生や侍女が教えてくれる答えとは全然違った。
けれど、不思議と、嫌ではなかった。
「……そう」
「じゃあな」
今度こそ、アレンは走っていった。
セレスティアはその背中を見送った。
5歳のセレスティア・アルトは、その日初めて知った。
淑女でいることと、走れないことは同じではない。
誰かに守られることと、自分の足で逃げることも、同じ場所にあっていい。
いつか。
手を引かれなくても、隣を走れるようになりたい。
その時は、まだそれが何なのか分からなかった。
ただ、泥だらけの手の感触だけが、しばらく消えなかった。
ナナセカをお読みいただき、ありがとうございました!
筆者はアレンと違い『分かったフリ(Fake it)』が使えません >_<;
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