第52花 固定条件
翌朝。
教室に入った瞬間、違和感があった。
いつもより静かだった。
誰も騒いでいないわけじゃない。
何人かは話している。
笑い声もある。
なのに。
どこか全員が、周囲を窺っている。
「おはよう、アスター」
スズランが声をかけてくる。
「……おはよう」
彼女の顔を見る。
昨日までなら、それだけで少し安心できた。
でも今は違う。
スズランにも、別の記憶がある。
この教室そのものが、いくつもの可能性を抱えている。
誰が本物で。
何が本当なのか。
もう分からない。
「ダリアは?」
聞くと、スズランは首を横に振った。
「まだ来てない」
「そうか」
席を見る。
空席。
昨日までなら、ただの遅刻だと思っただろう。
今は違う。
胸の奥がざわつく。
「……大丈夫かな」
スズランが呟いた。
「昨日のこと?」
「うん」
俺は答えられなかった。
昨日のダリアの涙が、頭から離れない。
笑えない。
消えたくない。
どれが本物の自分なのか分からない。
あんなダリアを、俺は今まで知らなかった。
いや。
知ろうともしなかった。
「アスター」
「ん?」
「助けよう」
スズランが言った。
「ダリアを」
俺は少しだけ驚いた。
「……でも」
「うん」
スズランは頷く。
「怖いよ」
正直な言葉だった。
「何をしたら、何が壊れるのか分からない」
「そうだな」
「でも」
スズランは自分の胸元を握る。
「昨日、ダリアが泣いてるのを見て」
一度、言葉を止めた。
「放っておきたくないって思った」
その言葉は。
俺が昨日ダリアに言った言葉と、よく似ていた。
放っておけない。
それだけ。
それだけなのに。
今までは、その気持ちが世界を壊してきた。
俺は机の中に手を入れる。
ノートに触れる。
冷たい。
でも。
昨日までとは違った。
ほんの少しだけ。
怖くない。
むしろ。
確かめたいと思った。
●
昼休み。
俺は一人で屋上にいた。
ノートを開く。
昨日、最後に現れた文字。
【固定条件を更新します】
その下には、新しい文章が増えていた。
俺は息を呑む。
そこに書かれていたのは。
今までとは違う内容だった。
【対象を固定するためには、対象本人の意思を必要とします】
「……本人の意思?」
つまり。
俺一人では決められない。
ダリアを固定したければ。
ダリア自身が望まなければならない。
さらに文字が浮かぶ。
【本人の意思が確認できない場合、固定は実行できません】
そして。
最後の一文。
【ただし、対象が固定を拒否した場合、候補は一名ずつ消滅します】
「……なんだよ、それ」
ノートを閉じる。
怒りが湧いた。
昨日までは、俺に選択を迫っていた。
今度はダリアに選ばせる。
どちらにしても。
誰かに責任を押しつけるだけじゃないか。
「最低だな」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
「何が?」
背後から声がした。
振り返る。
ダリアだった。
「……いつからいた」
「今来たところ」
笑っている。
いつものダリアだ。
でも。
昨日を知っている俺には、その笑顔が作られたものだと分かる。
「顔、ひどいよ」
「お前に言われたくない」
「ふふ」
ダリアが隣に座る。
「昨日のこと、忘れて」
「無理」
「そっか」
それだけ言って、空を見上げた。
しばらく二人とも喋らなかった。
「アスター」
「何だ」
「私を助けるつもり?」
心臓が跳ねた。
「……なんで分かった」
「顔に書いてある」
「嘘つけ」
「本当」
ダリアは笑った。
「でも」
その笑顔が消える。
「やめた方がいいよ」
「どうして」
「私がどうなるか分からないから」
「それでも」
「ダメ」
強い声だった。
「私のために、また誰かが消えたら?」
言葉が詰まる。
「昨日の子」
ダリアは前を向いたまま言う。
「あの子、私のこと知ってた」
「……」
「私も、たぶん知ってた」
「でも」
拳を握る。
「今は名前すら思い出せない」
ダリアの声が震える。
「だから怖いんだよ」
俺は何も言わない。
「私を助けるってことは」
彼女がこちらを見る。
「別の誰かを消すことかもしれない」
「……かもしれない」
「だったら」
ダリアは笑った。
「私、助けなくていいよ」
その瞬間。
俺は昨日と同じ言葉を思い出した。
――私は消えてもいい。
でも。
今日は違った。
「嫌だ」
ダリアが目を見開く。
「……え?」
「嫌だ」
もう一度言う。
「お前が勝手に決めるな」
「でも」
「俺だって勝手に決める」
「何それ」
「分からない」
自分でも笑えてくる。
「でも」
ノートを見る。
「誰かが消えるのを見てるだけなんて、もう嫌だ」
ダリアは何も言わない。
やがて。
小さく笑った。
「本当に変な人」
「お前に言われたくない」
「うん」
ダリアは空を見る。
「……ありがとう」
その声は。
昨日より少しだけ素直だった。
●
放課後。
俺は一人で教室に残った。
ノートを開く。
そこには。
新しい文字が浮かんでいた。
【対象:ダリア】
【本人の意思を確認してください】
その下。
選択肢が三つあった。
【救済を望む】
【救済を望まない】
【選択しない】
「……三つ?」
今までとは違う。
YESとNOだけじゃない。
そして。
その一番下に。
小さな文字が浮かんだ。
【第三の選択には、代償が発生します】
俺はページを見つめる。
その文字は。
まるで。
俺がそれを選ぶことを知っているようだった。
――選択しない。
それなら。
俺がダリアを選ばなくていい。
ダリアにも選ばせなくていい。
だったら。
誰も傷つかない。
そんな都合のいい考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
でも。
ノートは続けていた。
【代償の内容】
次のページが。
ゆっくりと開く。
俺は息を止めた。
そこに書かれていたのは。
今まで一度も見たことのない名前だった。
――スズラン。
その瞬間。
俺は初めて理解した。
このノートは。
俺に選ばせているんじゃない。
俺が誰を選べないのかを、試している。




