第46花 共有された秘密
翌朝。
アスターは一睡もできなかった。
机の上にはノートがある。
閉じている。
なのに、視線を向けるだけで嫌な汗が出る。
昨夜現れた文字。
【観測対象:二名】
【対象が認識しました】
【第一段階終了】
その意味が分からない。
分からないのに。
嫌な予感だけは確かだった。
●
教室に入るとスズランはもう来ていた。
窓際の席で朝日を受けながら本を読んでいる。
いつもと同じ。
いつも通り。
なのに。
彼女はアスターに気づくと本を閉じた。
「おはよう」
「……おはよう」
短いやり取り。
でも。
昨日までとは違う。
お互いに聞きたいことがある。
「放課後」
スズランが言う。
「時間ある?」
アスターは少しだけ目を閉じた。
「……ある」
やっぱり逃げられない。
●
放課後。
誰もいない旧校舎の階段。
人が来ないこの場所は、話をするには都合が良かった。
スズランは壁にもたれたまま、真っ直ぐアスターを見る。
「昨日のノート」
やはりそこからだった。
「何だったの?」
「……」
「説明して」
声は静かだった。
責めているわけじゃない。
でも、引く気もない。
「危ないものだ」
ようやく出た言葉は、それだった。
スズランは少し眉をひそめる。
「危ないって?」
「見ない方がいい」
「それは説明になってない」
その通りだった。
アスターは拳を握る。
「知らない方がいいこともある」
「だったら」
スズランは一歩前に出る。
「なんで私に見えたの?」
答えられない。
アスター自身がそれを知りたいから。
●
沈黙。
長い沈黙。
そして。
スズランが鞄から一枚の紙を取り出した。
「これ」
見覚えのある紙だった。
昨日、ノートに現れた文字を慌てて書き写したものだ。
そこには。
【消失:会話(屋上)】
そう書かれていた。
アスターの顔色が変わる。
「なんで持ってる」
「忘れたくなかったから」
スズランは小さく笑う。
でも。
その笑顔は少し寂しそうだった。
「変なんだよ」
紙を見つめる。
「覚えてないのに」
指先が震える。
「これを見ると苦しい」
静かな声。
「泣きそうになる」
胸が締め付けられる。
●
「昨日ね」
スズランが続ける。
「帰ってからずっと考えてた」
夕焼け。
屋上。
誰か。
会話。
「思い出せないの」
でも。
「なかったとは思えない」
アスターは目を逸らした。
それが真実だったから。
●
「ねえ」
スズランが聞く。
「私たち、本当にここで話した?」
風が吹く。
古い窓が小さく鳴る。
アスターは黙っていた。
言えば壊れるかもしれない。
言わなければ。
もっと壊れるかもしれない。
●
「……話した」
ようやく出た言葉。
スズランの目が揺れる。
「やっぱり」
小さな声。
その瞬間。
彼女の身体がふらついた。
「っ」
「スズラン!」
アスターはスズランの体を支え、そのまま階段に座り込む。
苦しそうに額を押さえている。
「頭……痛い……」
まずい。
アスターの背中を冷たい汗が流れる。
●
その時だった。
鞄の中で勝手にノートが開く。
ページがめくれる。
ばさっ。
ばさっ。
ばさっ。
そして止まる。
灰色のページに新しい文字が浮かび上がった。
【記憶整合処理失敗】
アスターの血の気が引いた。
さらに文字が浮かび上がる。
【観測者を追加します】
その瞬間、スズランが顔を上げた。
そして。
ノートを見た。
「……見える」
声が震える。
彼女は確かに読んでいた。
今までは見えなかった文字。
今までは存在すら知らなかったページ。
それを。
普通に読んでいる。
「観測者……追加?」
ぞっとする。
ノートが、彼女を認識している。
「アスター」
スズランがゆっくり顔を上げる。
目には恐怖があった。
当然だ。
普通じゃない。
説明できるはずがない。
でも。
その恐怖の奥に。
別の感情が混じっていた。
「私」
唇が震える。
「何を忘れてるの?」
その問いは。
今までで一番重かった。
アスターは答えられない。
答えた瞬間。
何かが決定的に変わる気がした。
その時。
階段の上から拍手が聞こえた。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
「わあ」
聞き慣れた声。
「とうとう見えたんだ」
ダリアだった。
踊り場に立ち。
いつものように笑っている。
でも。
その笑顔はどこか嬉しそうだった。
「おめでとう」
スズランを見る。
「これであなたもこっち側」
その言葉と同時に。
ノートのページに最後の一文が浮かんだ。
【第二段階を開始します】
アスターとスズランは同時に息を呑む。
そして。
ダリアだけが笑っていた。
世界はもう。
元には戻れなかった。




