第45花 YESの向こう側
ノートは開かれたままだった。
机の中。
誰にも見えない場所。
灰色のページ。
そこに浮かぶ二文字。
【YES】
【NO】
たったそれだけ。
なのに。
今まで見てきたどんな死亡予測よりも重かった。
「アスター?」
スズランの声が遠い。
まるで水の中から聞こえてくるみたいだった。
教室の後ろには、まだ空席がある。
誰の席だったのか。
思い出せない。
でも。
確かに誰かがいた。
その事実だけが、胸に刺さっている。
「……くそ」
ノートを握る。
選ばなければ、また消える。
でも……
選んだら。
――今度は俺が消す側になる。
「ねえ」
ダリアが小さく笑う。
「まだ悩むんだ」
「当たり前だろ」
「優しいね」
その言葉に少しだけ苛立つ。
「違う」
俺は首を振った。
「怖いだけだ」
ダリアは一瞬だけ黙った。
それから。
「そうかもね」
珍しく否定しなかった。
放課後。
教室には、俺とスズランだけが残っていた。
ダリアは途中で帰った。
最後に。
『どっちでも後悔するよ』
そう言い残して……
最低な励ましだった。
「アスター」
スズランが窓際に立つ。
窓の外には夕焼け。
また、あの日と同じ色。
「最近さ」
少し迷ってから言う。
「変な夢見るんだ」
心臓が鳴る。
「夢?」
「うん」
彼女は笑った。
「屋上の夢」
息が止まる。
「知らないはずなのに」
窓の外を見る。
「知ってる気がする場所」
世界が軋む。
「そこでね」
振り返る。
「私、誰かと話してる」
忘れられたはずの記憶。
消えたはずの会話。
それが――
夢という形で戻ってきている。
「顔は見えないんだけど」
スズランは少しだけ困ったように笑う。
「安心するんだ」
その言葉に胸が痛くなる。
「……そうか」
「うん」
静かな返事。
「だから思ったの」
彼女は机へ歩いてくる。
「もしかして私」
一歩。
「何か大事なこと」
また一歩。
「忘れてる?」
目が合う。
まっすぐな視線。
疑いじゃない。
確認だ。
「……」
答えられない。
答えた瞬間、世界がどうなるのか分からないから。
「ねえ」
スズランは首を傾げる。
「アスターは知ってる?」
沈黙。
長い沈黙。
教室には夕日だけが差し込んでいる。
そして。
ポケットの中のノートが熱を持った。
開いていないのに勝手に熱くなる。
「っ……」
俺は反射的にノートを取り出した。
スズランが目を見開く。
「それ」
しまった。
隠すのが遅れた。
ノートが開く。
風もないのに勝手にページがめくれた。
ばさっ。
ばさっ。
ばさっ。
……
そして、灰色のページで止まった。
そこに。
新しい文字が現れる。
【固定期限まで残り二十四時間】
血の気が引く。
さらに。
その下。
ゆっくりと。
新しい文章。
【未固定状態を継続した場合、対象範囲を拡大します】
「……対象範囲?」
呟く。
スズランもページを見ていた。
初めて。
初めて彼女が。
ノートの文字を見た。
「これ……何?」
声が震える。
当然だ。
普通じゃない。
でも。
俺が驚いたのはそこじゃなかった。
ノートが。
彼女に見えている。
今まで一度もなかった。
見せたこともない。
見えるはずがない。
なのに。
「アスター」
スズランの顔から笑顔が消える。
「これ」
ページを見つめたまま。
「私、知ってる気がする」
ぞっとした。
世界が。
また一段壊れた。
その夜。
俺は一人、部屋でノートを開いた。
灰色のページ。
そこに。
新しい一文が増えていた。
【観測対象:二名】
その下。
名前。
俺。
そして。
スズラン。
さらに。
最後の一行。
【対象が認識しました】
【第一段階終了】
部屋の時計が、静かに時を刻む。
残り二十四時間。
そして。
世界は次の段階へ進もうとしていた――




