第44花 1回目
昼休みが終わっても、教室の空気は戻らなかった。
「だから俺は部活だったって」
「いや、バイトだろ」
「違うって」
同じ言い争いが、何度も繰り返されている。
どちらも本気だ。
どちらも、自分が正しいと思っている。
担任ですら、途中から何も言わなくなった。
黒板の前に立ちながら、
困ったように教室を見ているだけ。
壊れている。
ゆっくり。
でも確実に。
俺は机の中のノートを握りしめた。
冷たい。
まるで、生き物みたいに。
「アスター」
隣から、声。
ダリアだった。
「もう限界近いね」
「……」
「クラス全体に漏れ始めてる。
ここまで広がるの、思ったより早かったな」
他人事みたいに言う。
「お前、楽しんでるだろ」
「うん」
即答。
でも、笑ってはいなかった。
「だって、“世界が壊れる瞬間”なんて普通見れないし」
その言葉に、寒気が走る。
「……止められるのか」
「止められるよ」
ダリアは、あっさり答えた。
「一回目、使えば」
ポケットの中のペンが重い。
残り三回。
そのうちの、一回。
「固定するの?」
「うん」
彼女は頷く。
「今ズレてるのって、“スズランが存在する未来”と“存在しない未来”が両方走ってるから」
淡々とした説明。
「だから、どっちかに決める」
「……決めるって」
「現実を」
教室のざわめきが遠くなる。
「固定すれば、二重記憶は止まる。
少なくとも、このクラスは落ち着く」
「代償は」
ダリアが、少しだけ笑った。
「聞くんだ」
「……聞かなきゃ選べない」
「でも、聞いても選ぶでしょ?」
図星だった。
ダリアは俺の机に肘をつく。
「代償はね。
“固定されなかった側”が消える」
息が詰まる。
「記憶?」
「それだけじゃない」
静かな声。
「感情も。
関係も。
可能性も」
屋上の夕焼けが脳裏をよぎる。
スズランの笑顔。
“同じ街にいられたらいい”という声。
あれは、もう半分消えている。
「固定すれば」
ダリアが囁く。
「今度は完全に片方が死ぬ」
死ぬ。
その表現を、彼女はわざと使った。
「……やめろ」
「でも本当でしょ」
ダリアは真っ直ぐ俺を見る。
「思い出って、消えたら死んだのと同じじゃん」
否定できなかった。
教室の前方で、また誰かが言い争いを始める。
「だから俺は図書室に――」
「閉まってたって!」
音が、軋む。
現実同士がぶつかっている。
「アスター」
ダリアが、そっと俺の手に触れた。
「もう、“待つ”は終わったよ」
その瞬間。
教室の電気が、一瞬だけ消えた。
ぶつっ、と。
短い停電。
悲鳴が上がる。
すぐに電気は戻った。
でも。
「……え?」
誰かが、呟く。
教室の後ろ。
一つの席が、空になっていた。
「白崎は?」
クラスメイトが辺りを見回す。
「今日休みだっけ」
「いや、いたよな?」
「いたっけ?」
空気が凍る。
俺は覚えている。
さっきまで、そこに女子生徒が座っていた。
図書室の話をしていた子だ。
でも。
名前が、思い出せない。
「……っ」
頭痛。
記憶が、削れている。
ダリアだけが静かだった。
「あーあ」
小さく呟く。
「始まった」
「……お前、何知ってる」
「知ってるっていうか」
彼女は、空席を見つめる。
「“固定されなかった側”から、消え始めたんだよ」
喉が凍る。
「だから言ったじゃん」
ダリアは、俺の耳元で囁く。
「もう事故待ちじゃないって」
ポケットの中。
ペンが、熱い。
ノートを開け。
選べ。
固定しろ。
そう急かされているみたいに。
「……アスター?」
前の席。
スズランが、不安そうにこちらを見る。
「顔色、悪いよ」
彼女はまだ、消えていない。
まだ、ここにいる。
でも、このままなら。
世界は、どちらかを切り捨てる。
「ねえ」
ダリアが笑う。
「一回目。
今なら、まだ間に合うよ?」
俺は、机の中でノートを開いた。
灰色のページ。
そこに、新しい文字が浮かび上がる。
【一回目の固定を実行しますか?】
その下。
【YES/NO】
世界が、
俺の選択を待っていた。




