03.立派な淑女になりたい
舞踏会の翌朝、少し眠い目をこすりながら、私はいつもより早くダンスの練習室へ向かった。
窓から朝の光が差し込み、磨かれた床を明るく照らしている。壁際には休憩用の椅子が並び、その一角には伴奏のためのピアノが置かれている。
部屋へ入ると、ダンスの先生が目を丸くした。
「……クラリッサお嬢様?」
「何?」
「いえ」
私の顔を見たあと、先生は扉へ視線を移した。
それから、もう一度私を見る。
「何よ」
「お一人でいらしたのですか?」
「そうだけど」
「侍女に連れてこられたわけではなく?」
「自分で来たわよ」
「……そうですか」
ずいぶんな反応だ。
「私だって、時間くらい守れるわ」
「前回は、始まって間もなくお姿が見えなくなりましたので」
「今日は逃げないわよ」
「本当ですか?」
「本当よ」
まだ疑っている。
少し腹が立ったけれど、これまで散々逃げてきたのだから仕方がない。
「では、始めましょう」
「ええ」
いつもなら、それだけで少し憂鬱になる言葉だった。
今日は自分から部屋の中央へ向かった。
◇
「足元を見ないように」
「でも、次の足が分からなくなるの」
「先ほど確認したでしょう。もう一度、最初から参ります」
「……はい」
音楽が始まる。
背筋を伸ばし、教えられたとおりに足を運ぶ。
一歩。二歩。
三歩目で遅れた。
「あっ」
「止まらないでください」
「でも、間違えたわ」
「舞踏会でも、間違えるたびに曲を止めてもらうおつもりですか?」
「それは……無理ね」
「でしたら、続けてください」
何とか動き続ける。
けれど、一度崩れた足運びはなかなか元へ戻らない。
結局、最後までひどい出来だった。
「では、もう一度参りましょう」
「まだやるの?」
「始まったばかりでございます」
思わず扉を見る。
ここから庭へ出るのは簡単だ。
いつもなら、そろそろ喉が渇いたとか、少し休みたいとか、適当なことを言い始める頃だった。
けれど、昨夜の舞踏会で差し出された手を思い出す。
『じゃあ、踊る?』
あの夜、二度も取れなかった手。
次に差し出されたときは、取りたい。
そのために、ここへ来たのだ。
「クラリッサお嬢様?」
先生に呼ばれ、扉から目を戻した。
「……もう一度」
「よろしいのですか?」
「ええ」
先生が少し驚いた顔をする。
「何?」
「いいえ。では、もう一度参りましょう」
音楽が最初へ戻る。私は姿勢を正した。
一度目より、少しだけうまくできた。
次はまた間違えた。
それでも、扉へは向かわなかった。
◇
「本日はここまでにいたしましょう」
その言葉を聞いた瞬間、私は大きく息を吐いた。
「疲れた……」
「お疲れさまでございました」
いつもと同じ長さの授業だったはずなのに、今日はずいぶん長く感じた。足も痛いし、背中も疲れた。
けれど、最後まで逃げなかった。
それだけで、少しだけ気分がよかった。
「次の授業も、今日の続きなのよね?」
尋ねると、先生が一瞬黙った。
「……はい」
「何?」
「いえ。次回のことを気になさるとは思いませんでした」
「また驚いたでしょう」
先生がわずかに笑う。
私も笑って、練習室を出た。
いつもなら、ここから真っ先に庭へ向かうところだ。
けれど、その日は自室へ戻って着替え、少し休んでから、お姉様の部屋を訪ねた。
「あら。もう終わったの?」
「ええ」
「今日は最後までいた?」
「いたわよ!」
「それは偉いわね」
「子供扱いしないで」
お姉様はくすくす笑った。
私はその前に立つ。
「それでね、お姉様」
「何?」
「昨日の約束、覚えてる?」
「もちろん」
お姉様は読んでいた本を閉じた。
「ダンスを教えてほしいのでしょう?」
「ええ」
「でも、今しがた習ってきたばかりではないの?」
「だからよ」
先生に教えてもらったことを、忘れないうちにもう一度やりたい。
今までなら絶対に考えなかったことだ。
「お姉様、相手をして」
お姉様が少し驚いたように私を見る。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「いいわよ」
◇
「違うわ」
「分かってる!」
「分かっているなら直しなさい」
「直そうとしてるでしょう!」
何とか足を合わせようとすると、今度は視線が下がった。
「足元を見ない」
「先生にも言われたわ!」
「では、どうして見ているの?」
「見ないと不安なのよ!」
やっぱり頼む相手を間違えたかもしれない。
お姉様は容赦がなかった。
正式な授業ではないのだから、もう少し優しくしてくれてもいいと思う。
「姿勢も崩れているわ」
「だって、もう午前中にたくさん練習したのよ」
「疲れたなら今日は終わりにする?」
お姉様が尋ねる。
私は口を閉じた。終わりにしてもいい。
これは授業ではない。
私が頼んで付き合ってもらっているだけなのだから、いつやめても誰にも怒られない。
「……もう一回」
「大丈夫?」
「大丈夫」
私は姿勢を正した。
「もう一回やる」
お姉様は何も言わず、私の手を取った。
もう一度、最初から足を運ぶ。
間違える。直される。またやり直す。
今度は最後まで止まらずに踊れた。
「今のは?」
「さっきよりずっとよかったわ」
「本当?」
「ええ」
たったそれだけなのに、嬉しかった。
「じゃあ、もう一回」
「まだやるの?」
「今のを忘れたくないもの」
お姉様が目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「分かったわ」
その日、私は初めて、淑女教育の授業が終わったあとまで自分からダンスの練習を続けた。
◇
それからというもの、私は毎日、先生との授業を最後まで受け、そのあと時間が合えばお姉様にも練習相手になってもらった。
劇的に上達したわけではない。
相変わらず足を間違えることはあるし、気を抜けば姿勢も崩れる。
それでも、最初よりはずっとましになった。
何より、逃げなくなった。
その日も、お姉様と練習していた。
「そこ、少し早いわ」
「こう?」
「ええ。そのくらい」
もう一度、同じところを繰り返す。
曲が終わり、私は息を吐いた。
「今のはよかったんじゃない?」
「ええ。だいぶ安定してきたわね」
「でしょう?」
嬉しくなって顔を上げたところで、聞き慣れた声がした。
「本当だ」
振り返ると、開いた扉のところに、アルフが立っていた。
「アルフ」
「お疲れさま」
私は反射的に駆け寄ろうとして――止まった。
今の私は、練習を終えたばかりだ。
頬は熱いし、額には汗も浮かんでいる。髪だって少し乱れているかもしれない。
急に、それが気になった。
手にしていた布で額を押さえる。
「……いつからいたの?」
「少し前」
「少し前って?」
「最後の二回くらいかな」
「見てたの?」
「うん」
「見ないでよ!」
思わず声が大きくなる。
アルフが目を瞬いた。
「どうして?」
「どうしてって……」
下手だから。間違えていたから。
そんなところを見られるのが恥ずかしいから。
言おうとして、少し引っかかった。
以前なら、アルフに見られても何とも思わなかった。
「前は平気だったじゃないか」
やっぱり、アルフにもそう思われていたらしい。
「先生の足を二回踏んだって、自分から話してたのに」
「自慢したわけじゃないわよ!」
「分かってるよ」
「笑わないで」
「ごめん」
アルフはそう言いながら、まだ少し笑っている。
「それにしても、驚いた」
「何が?」
「シャーロットに聞いたんだ。最近、毎日練習してるって」
「……悪い?」
「悪くないよ。ただ、何があったのかなと思って」
私は視線を逸らした。
「別に」
「別に?」
「私だって、ダンスくらいできたほうがいいと思っただけよ」
アルフは珍しいものでも見るように私を眺めた。
「クラリッサがそんなことを言う日が来るとは思わなかった」
「私だって成長するの」
「この間まで、踊れなくても困らないって言ってたけど」
「昔の話よ」
「一週間も経ってないよ」
「細かいわね」
アルフがまた笑った。
何だか悔しい。
けれど、今までの私を知っているのだから、そう思われても仕方がない。
アルフは練習室へ入り、中央まで歩いていった。
それから、こちらを振り返る。
「じゃあ」
「何?」
「僕が相手をしようか?」
一瞬、意味が分からなかった。
アルフが片手を差し出す。
「練習相手」
心臓が跳ねた。舞踏会の光景が蘇る。
あの夜と同じように、アルフが私へ手を差し出している。
次にアルフから誘われたら、断りたくない。
そう思って、練習を始めたのに。
「……嫌」
また断ってしまった。
アルフが眉を上げる。
「また?」
「今は駄目」
「今は?」
「だって、まだ下手だもの」
「練習なんだから下手でもいいだろう?」
「嫌なの」
「僕は足を踏まれても気にしないよ」
「私が気にするって言ったでしょう」
アルフは困ったように笑う。
「じゃあ、いつならいい?」
「もっと上手になってから」
「もっと?」
「お姉様くらい」
口にしてから、少し無理がある気がした。
お姉様は何年も真面目に練習してきたのだ。
数日で追いつけるはずがない。
アルフも同じことを思ったらしい。
「それはずいぶん先になりそうだね」
「失礼ね!」
「だって、シャーロットは上手だろう?」
「分かってるわよ」
「でも」
アルフは差し出していた手を下ろした。
「楽しみにしてる」
「何を?」
「クラリッサと踊れる日」
さらりと言われて、何も返せなくなった。
「……そう」
どうにかそれだけ答える。
アルフは気にした様子もなく笑っている。
どうしてこの人は、こんなことを平気で言えるのだろう。
◇
数日後、お母様とお姉様に連れられ、私は小さなお茶会へ出席していた。
以前から付き合いのある侯爵夫人が開いたもので、参加者は十人ほど。
大きな舞踏会に比べれば、ずっと気楽なはずだった。
実際、最初はそう思っていた。
「先日の王宮の舞踏会には、クラリッサ様もいらしていましたわね」
「ええ」
「ずいぶん賑やかでしたでしょう?」
「ええ。あれほど人が集まるとは思いませんでした」
「本当に。王都中の貴族が集まったようでしたわね」
「そうですね」
会話が終わった。
どうしよう。
私はカップを持ち上げる。
隣を見ると、お姉様は年上の夫人と楽しそうに話していた。どうやら、夫人の領地の庭園の話をしているらしい。
「今年は薔薇がとても綺麗に咲いたのよ」
夫人の話を聞いていたお姉様が、ふいに私を振り返った。
「クラリッサも薔薇が好きでしょう?」
突然話を振られ、私は顔を上げた。
「え? ええ。白い薔薇が一番好きです」
「うちにも白薔薇の一画があるのよ」
「本当ですか?」
「ええ。よろしければ、今度シャーロット様と一緒に見にいらして」
いつの間にか、私も会話の中に入っていた。
少しして別の令嬢が輪へ加わると、お姉様はさりげなく場所を空け、その令嬢にも話を振った。
話題が途切れそうになると、今度は別の人へ問いかける。
私は返事をしながら、その様子をそっと見ていた。
ダンスだけではない。
そういえば、あの舞踏会でもそうだった。
アルフは大勢の人に囲まれていても、誰とでも自然に話していた。
お姉様だって、あの場所に少しも気後れすることなく馴染んでいた。
私は自分のカップへ視線を落とす。
ダンスさえ踊れればいいと思っていた。
アルフから手を差し出されたとき、それを取れるようになりたい。
それだけだった。
でも、踊り終わったら?
そのあと、何を話せばいいのだろう。
誰かがアルフへ話しかけてきたら、私はどうすればいい?
さっきみたいに「そうですね」と言って黙っているのだろうか。
何となく、それは嫌だった。
◇
屋敷へ戻ったあと、私はお姉様の部屋についていった。
「お姉様」
「何?」
お姉様は耳飾りを外しながら、鏡越しに私を見る。
「お願いがあるんだけど」
「またダンス?」
「違うわ」
私は少し迷ってから言った。
「お茶会での話し方も、教えてくれる?」
お姉様が振り返る。
「話し方?」
「今日、全然話が続かなかったの」
「そうね」
「……否定してくれてもいいでしょう?」
「教えてほしいのでしょう?」
「そうだけど」
お姉様は楽しそうに笑った。
「いいわよ。会話だけ?」
「え?」
「他には?」
「他って?」
「あなた、ダンスだけできればいいと思っていたでしょう」
「……思ってた」
「今は?」
私は考える。
今日のお茶会を思い出す。
それから、舞踏会で見たアルフとお姉様を思い出した。
私はお姉様にはなれない。
何年も逃げてきたのだから、すぐに追いつけるとも思っていない。
それでも、次にアルフの隣に立つなら、今度は逃げたくなかった。
踊ることだけではなく、そのあとだって。
「……もっと、ちゃんとできるようになりたい」
「何を?」
「ダンスだけじゃなくて。お姉様ができることを、私もちゃんと身につけたい」
「ずいぶん多いわよ」
「例えば?」
「ダンスや礼儀作法だけではないわ。社交での会話もそうだし、今まで避けてきたことは他にもあるでしょう?」
「……刺繍とか?」
「楽器もね」
「それも?」
「淑女になりたいのでしょう?」
私は黙った。
刺繍。楽器。どちらも途中で逃げた記憶しかない。
「……ダンスと会話だけでは駄目?」
「どうなりたいの?」
お姉様に尋ねられる。
答えようとして、言葉に詰まった。
どうなりたいのだろう。
アルフと踊れるようになりたい。
それは今も変わらない。
でも、それだけではなくなっていた。
舞踏会で見たお姉様は綺麗だった。
ただドレスが似合っていたからではない。
誰の前でも堂々としていた。
誰と話しても困らない。
アルフの隣に立っていても、少しも臆していなかった。
私も、そうなりたい。
「……立派な淑女に」
口にしてみる。
今までの私なら、絶対に言わなかった言葉だった。
「なりたい」
お姉様はしばらく私を見つめていた。
「本気?」
「たぶん」
「クラリッサ」
「……本気よ」
言い直すと、お姉様が微笑んだ。
「だったら、明日、教育係に相談してみなさい」
「明日?」
「早いほうがいいでしょう?」
少しだけ怯んだ。
けれど、あの夜のアルフの手を思い出す。
今度こそ。
次に差し出されたときは、その手を取りたい。
「……分かったわ」
もう、逃げるつもりはなかった。




